第34話 執筆者の眼差し、白紙の演技要求
如月詩音さま主催のお茶会に参加し、穏やかで清らかな時間を過ごした、翌日のことだった。
放課後の教室で、帰り支度のために鞄に手を伸ばしたその時、私のスカートのポケットで専用の携帯端末が短く、けれど重く震えた。
画面に表示されたのは、有栖川月華さまからの短いメッセージ。
『寮に来なさい。すぐに』
その簡潔すぎる文面を目にした瞬間、私の心臓は嫌な音を立てて跳ね上がり、血の気が引いていくのを感じた。
ここ数日、私は自分の絶対的な主人である月華さまを差し置いて、ブルーローズのサロンに入り浸っていた。
一昨日は白鳥聖羅さまに背徳的な扇子の遊戯で弄ばれ、昨日は詩音さまと心安らぐお茶会を楽しんだ。
もちろん、月華さまからは「ダンスの練習は休み」と言い渡されていたし、聖羅さまの件はパートナー同士の交流として正当化できるはずだ。
けれど、私の肌には、まだ柚月さんが扇子でなぞった冷ややかな感触が「裏切りの烙印」のように残っていた。まるで浮気をしたかのような、湿り気を帯びた後ろめたさが胸の内で渦巻いている。
(……バレてるのかな。他派閥の方とばかり懇意にしていること、お叱りを受けるのかもしれない)
鉛を詰め込まれたような重い足取りで、私はフローラリア専用寮へと向かった。
月華さまの部屋の前に立つと、分厚い扉の向こうから、ピンと張り詰めたような鋭利な気配が漏れ出しているのを感じる。
正式にパートナー契約を結んで以来、私には奇妙な感覚が芽生えていた。
扉一枚隔てていても、中にいる月華さまの機微や、その日の「温度」が、肌で感じ取れるようになっていたのだ。
今の月華さまは……怒っているわけではなさそうだが、ひどく神経を尖らせている。何かに没頭し、外界を遮断している時の、美しくも危険な静寂だ。
私は深く息を吸い込み、強張る指先で扉をノックした。
「失礼します。小井縫南藻です」
「……入りなさい」
中から返ってきた声は、予想通り冷たく、そして何かを急かすように早口だった。
部屋に入ると、月華さまはいつもの豪奢なデスクではなく、部屋の中央にあるローテーブルに覆いかぶさるようにして、大量の資料を広げていた。
いつもの完璧に整えられた髪からは、数本の後れ毛が零れ落ち、白い頬にかかっている。その手には太軸の万年筆が握られており、紙の上を走るカリカリ、カリカリという硬質な音だけが、部屋の静寂を切り裂いていた。
「あの、月華さま、参りました。……ご用件は」
私が恐る恐る尋ねると、月華さまはようやくペンの動きを止め、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳が、私を射抜く。
そこにあるのは、私という人間への関心ではない。
解剖台の上の標本を見るような、冷徹で、残酷なまでに知的な観察者の眼差しだった。
すべてを見透かすようなその視線に、私は思わず背筋を伸ばし、わずかに身を引いてしまった。
「……? 少し、怯えているわね」
月華さまが怪訝そうに細い眉をひそめた。
彼女はゆらりと立ち上がり、無言のまま私の方へ歩み寄ってくる。
黒いロングワンピースの裾が衣擦れの音を立て、百九十センチを超える長身が、私の上に影を落とす。
その一歩一歩が、私の罪悪感を執拗に刺激する。
「なに、やましい事でもあるのかしら? ……私の目を、直視できていないけれど」
月華さまの顔が近づく。
ふわりと香る百合の香りに、微かなインクの鉄っぽい匂いが混じっている。
(変なところで鋭い……!)
心の中を暴かれたようで、私は激しく動揺した。
ブルーローズでの一件が脳裏をよぎる。
柚月さんに扇子で喉元を愛でられた記憶や、詩音さまと秘密を共有して笑い合った情景が、月華さまへの重大な背信行為のように思えてくる。
極限の緊張に、思考が焼き切れた。
「い、いえっ! 浮気などしておりませんわ! 私はいつだって月華さま一筋です!」
焦りのあまり、聞かれてもいないことを大声で否定してしまった。
悲痛な叫びが部屋に反響し、その後に訪れたのは、痛いほどの沈黙だった。
月華さまはキョトンと目を丸くした後――
呆れたように長い溜息を吐き、肩をすくめた。
「……はあ。相変わらず、小者ね」
月華さまは興味なさげに視線を逸らした。
「別に誰と仲良くしようが構わないわよ。私のパートナーとしての務めさえ果たしていればね」
どうやら、私の他派閥との交流については、すでに把握している上で黙認しているようだった。あるいは、そんなことは彼女の今の崇高な思考においては、塵芥ほどの問題でもないのかもしれない。
「まあ、いいわ。こっちに来なさい」
月華さまは私への関心を失ったように、ローテーブルに散乱していた数枚の紙束を乱雑に掴み取った。
そして、私の胸元へ押し付けるように手渡してくる。
「これは……?」
「今、作っている小説の原稿よ」
受け取った原稿用紙は、月華さまの手の熱を帯びて生温かかった。
そして、鼻腔をくすぐる独特の匂い。
高級な紙の匂いと、まだ乾ききっていないブルーブラックのインクの香り。
紙面には、流麗だが鬼気迫る筆致で文字が埋め尽くされている。
月華さまは小説を執筆されている。
ペンネームは「月光淑女」。
完璧主義の彼女のことだ、きっと趣味の範疇を超えたものなのだろう。
しかし、なぜそれを私に?
私が首を傾げていると、月華さまはインクでわずかに汚れた指先を唇に当て、当然のことのように告げた。
「今書いているシーンで、主人公の感情の動きがいまいち掴みきれないの。頭の中では論理的に構築できているのだけれど、実際に人間が動いた時の『生っぽさ』が足りない気がしてね」
月華さまは腕組みをして、値踏みするように私を頭のてっぺんから爪先まで見下ろした。
「だから、貴女、演じなさい」
「……?」
私は耳を疑った。
「え、演じるって……お芝居をするということですか?」
「そう言っているじゃない。私の書いた台詞を読み、ト書き通りの動きをして、感情を乗せて演じてみせなさい。私がそれを観察して、描写の参考にするわ」
唐突で、あまりにも一方的な無茶ぶりだった。
「あ、あの、私は演技なんてしたことありませんし、そんな……」
「ダンスも表現の一種でしょう? 身体で表現するか、言葉と表情で表現するかの違いよ。……私のパートナーなら、それくらい出来て当然だわ」
月華さまの理屈は強引だったが、その瞳は昏い熱を帯びていた。
彼女にとって創作は遊びではない。
自身の美学を形にするための神聖な儀式であり、そのためならパートナーさえも素材として使い潰す。
その潔いまでの傲慢さに、私はある種の感動すら覚えていた。
拒否権など、あるはずがない。
「……分かりました。やらせていただきます」
私は腹を括り、手渡された原稿に視線を落とした。
月華さまと向かい合う形で座り直し、原稿を読み込み始めた。
まだ推敲中の原稿には、至る所に赤いインクで修正が入っており、月華さまの苦悩と異常なまでのこだわりが見て取れる。まるで赤い血痕のようだ、と不謹慎にも思った。
物語の内容は、どうやらシリアスな心理描写が中心のシーンのようだった。
主人公が、信頼していた相手に対して抱く複雑な感情。愛憎、葛藤、そして諦念。 文字を追うごとに、月華さまの紡ぐ言葉の重みが、私の心臓にずしりと沈んでくる。
(すごい……。普段の月華さまの冷徹さとは違う、煮えたぎるような熱情が込められている)
単なる暇つぶしの小説ではない。
ここには、有栖川月華という人間の内面が、インクという形を変えて吐き出されている。
私は自然と背筋が伸びた。ウール混紡の制服の下で、汗が伝うのを感じる。
これを演じるということは、月華さまの心の一端に触れるということだ。
生半可な気持ちでは務まらない。
「読み込みは終わったかしら?」
月華さまが待ちきれない様子で声をかけてきた。
その手にはすでに新しいメモ帳が握られ、ペン先が獲物を狙うように構えられている。完全に「観察者」の目だ。
「もう少しだけ時間をください。……感情を、整理しますので」
私は原稿用紙を強く握りしめた。
紙が擦れる音が、静寂の中で大きく響く。
ダンスのステップを踏む時とは違う、内面をえぐられるような緊張感が走る。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
月華さまの創作の一部になれる。
彼女が求めている「正解」を、私の身体という器を使って表現する。それはパートナーとして、ダンス以上に深い繋がりを感じられる行為のように思えたからだ。
私は大きく息を吸い込み、インクの匂いを肺の奥まで満たすと、原稿の中の「主人公」という深い水底へと、ゆっくりと意識を沈めていった。




