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『姿隠しの姫君』〜お嬢様学校の聖域で、孤独な「最強お姉さま」に執着される【百合】物語〜  作者: 猫野 にくきゅう
第二章

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第33話 芸術の陰、静かなる連帯

 白鳥聖羅さまのサロンから解放された私と東雲柚月さんは、ブルーローズの専用寮から普通科の寮へと続く並木道を歩いていた。  


 二人とも、言葉少なだった。  


 歩幅が合わず、制服の袖と袖が触れそうになるたびに、私たちはびくりと身を強張らせ、弾かれたように距離を取ってしまう。  


 つい先ほどまで行われていた「禁断の遊戯」。

 その残り香が、まだ肌にまとわりついていた。  


 柚月さんの震える指先が、私の喉元を、胸を、太腿を這った感触。

 そして、それを愛でる聖羅さまの、陶酔と加虐が入り混じった眼差し。  


 私たちは互いに顔を見合わせることもできず、ただ足元に伸びる影だけを見つめながら、逃げるように自室へと戻ったのだった。


 * * *


 翌日。  

 教室での私たちは、やはりどこかぎこちなかった。  


 柚月さんはいつものように私の世話を焼こうとしてくれるのだが、ふとした瞬間に手が止まり、頬を染めて視線を逸らす。その沈黙の間に、私も昨日の扇子の冷たさと、熱い吐息を思い出してしまい、制服の下の肌が粟立つのを感じてしまうのだ。


 そんな、重く湿った空気が澱む一組の教室に、予想外の来訪者が現れた。


「失礼します。小井縫南藻さんと、東雲柚月さんは在室でしょうか」


 凛とした、よく通る涼やかな声が響いた。  

 教室の湿度が、一瞬にして数度下がったような錯覚を覚える。  


 入り口に立っていたのは、背筋を定規で測ったように垂直に伸ばした、黒髪の少女だった。  


 千葉夏凛ちば・かりんさん。

 一年生ながら剣道部のホープとして名高く、先日の「妹コンテスト」でも二位に入賞した実力者だ。


 彼女はフローラリアの次期幹部候補である、ブルーローズの如月詩音さまのパートナーに選ばれている。


 私と柚月さんが席を立つと、夏凛さんは直角に近い角度で、礼儀正しく一礼した。


「突然申し訳ありません。今日の放課後、少しお時間をいただけないでしょうか。お二人に、折り入ってお願いしたいことがあるのです」


 私たちが顔を見合わせると、夏凛さんは瞬き一つせず、真剣な眼差しで続けた。


「昨日、お二人が聖羅さまのサロンに入るのをお見かけしました。その様子を見て……お二人ならば信頼できると判断いたしました」  


 その瞳は、私たちを値踏みしているようでありながら、どこまでも潔癖な光を宿していた。


 特に断る理由もなかった私たちは、その申し出を承諾した。


 放課後、私たちは夏凛さんの先導で、校舎裏の静かな庭園にあるガゼボ(西洋風の東屋)へと向かった。  


 移動中、夏凛さんは背筋を伸ばしたまま、淡々と事情を説明してくれた。

 彼女の歩き方には一切の無駄がなく、制服のスカートさえも乱れずに追従している。


「私のパートナーである如月詩音さまは、ご存知の通り芸術の天才です。絵画に楽器、あらゆる美に精通しておられます」  


 夏凛さんの口調には、主人への絶対的な敬愛と誇りが滲んでいた。

 しかし、すぐにその端正な眉間に微かな陰りが差した。


「ですが、詩音さまは……極度の人見知りなのです。初対面の相手とはまともに目も合わせられないほどで、繊細な硝子のようでいらっしゃいます」


 ブルーローズは現在、白鳥聖羅さまがトップを務めているが、彼女は三年生だ。

 来年には卒業してしまう。


 家柄と実力を考えれば、次期トップは如月詩音さまになることが確実視されている。  


 しかし、派閥を率いるトップが、他者の視線に怯えていては務まらない。  

 夏凛さんはそれを見越し、今から少しずつ詩音さまの対人恐怖症を克服させようとしていたのだ。


「いきなり大人数はご負担になりますが、親しみやすく、他者を害する気配のないお二人なら、詩音さまも話しやすいのではないかと思いまして。……失礼ながら、南藻さんも柚月さんも、威圧感がありませんので」  


 夏凛さんは悪気なくそう言った。  


 その手元に視線を落とすと、竹刀を持っていない時でも、彼女の指先は軽く丸まっている。常に剣を握る感覚を忘れない、武道家らしいストイックさが、白魚のような指に刻まれたマメから伝わってきた。  


 主人の弱点を補い、成長させるために自ら動く。  

 それは、ただ貴族たちの遊戯に翻弄されていた私や、命令に従うしかなかった柚月さんとは違う、能動的で強靭なパートナーの姿だった。


 * * *


 木漏れ日が揺れるガゼボに到着すると、そこには一人の少女が待っていた。  


 如月詩音さまだ。  


 腰まである漆黒の髪と、血管が透けて見えそうなほど白い肌。

 少し色素の薄い瞳は伏せがちで、どこか儚げな陰りを帯びている。  


 テーブルの上には紅茶のセットと、描きかけのスケッチブック、そしてバイオリンケースが置かれていた。風に乗って、微かにテレピン油と鉛筆のグラファイトの匂いが漂ってくる。


「詩音さま、お連れしました」  


 夏凛さんが声をかけると、詩音さまはビクリと華奢な肩を震わせ、恐る恐る顔を上げた。


「あ……その……」  


 詩音さまの視線が宙を彷徨い、私たちと目が合いそうになると、すぐにまた俯いてしまう。その姿は、雨に濡れた小動物のように震えていた。  


 これが、あのブルーローズの次期トップ候補だとは信じがたいほどの脆さ。


「初めまして、小井縫南藻です」


「東雲柚月です。……お招きいただき、ありがとうございます」  


 私たちが音を立てないよう、努めて静かに挨拶をすると、詩音さまは蚊の鳴くような、消え入りそうな声で返事をした。


「……如月……詩音、です……」


 最初はお互いに沈黙が続いた。  


 小鳥のさえずりと、風が木々を揺らす音だけが、気まずいほど鮮明に響く。  

 しかし、夏凛さんが主人のために助け船を出した。


「詩音さま。先ほど描かれていた絵を、お二人に見せて差し上げてはいかがですか」


「えっ……でも、まだ、未完成で……汚い、から……」


「いいえ。とても美しい絵でした。ぜひ」


 夏凛さんの揺るぎない声に背中を押され、詩音さまは恥ずかしそうに、長い指でスケッチブックを開いた。  


 サラリ、と乾いた紙の音がして、一枚の絵が現れた。


 そこに描かれていたのは、何の変哲もない庭園の風景だった。  


 けれど、鉛筆だけの素描でありながら、木々のざわめきや、葉の間から零れ落ちる光の粒子までが伝わってくるような、圧倒的な画力だった。  


 世界を構成する光と影を、そのまま紙の上に定着させたような緻密さ。


「すごい……写真みたい、いえ、それ以上に鮮やかです」  


 私が思わず漏らすと、詩音さまは長い睫毛を揺らし、微かに頬を緩めた。


「……ここは、光が、綺麗だから……」


 一度口を開くと、詩音さまはぽつりぽつりとだが、自分の愛するものについて語り始めた。  


 油絵の具の匂いが好きなこと。

 バイオリンの弦が指先に食い込む痛みが、逆に心を落ち着かせてくれること。  


 言葉数は少ない。

 けれど、その一つ一つに嘘がなく、水晶のように純粋な感性が宿っていた。  


 そこには、昨日の聖羅さまのサロンに充満していたような、甘美な毒や支配の空気は微塵もなかった。ただ静かな風が吹き抜け、美しいものを共有する穏やかな時間だけが流れていた。


 私と柚月さんも、自然と強張っていた肩の力が抜けていた。  


 昨日の「お遊び」で汚され、張り詰めていた神経が、詩音さまの不器用な優しさと、芸術への無垢な愛によって、清らかな水ですすがれていくのを感じた。


 * * *


 一時間ほどのお茶会は、穏やかに幕を閉じた。


「……また、来てくれる?」  


 帰り際、詩音さまはスケッチブックを胸に抱き、上目遣いにそう言ってくれた。


「はい、喜んで」  


 私と柚月さんが答えると、詩音さまは今日一番の、はにかむような淡い笑顔を見せてくれた。それはまるで、日陰に咲く一輪の花のようだった。


 帰り道、私と柚月さんの足取りは軽かった。昨日のような、肌に残る粘着質な気まずさは消え、心温まる余韻だけが残っていた。


「ブルーローズにも、いろいろな方がいらっしゃるんですね」  


 柚月さんがしみじみと呟いた。  

 華やかで支配的な「聖母」である聖羅さまと、静謐で内気な「天才」である詩音さま。  


 まさに光と影、あるいは毒と薬のような対照的なお二人が、同じ派閥に共存している。それがフローラリアという組織の、底知れない奥深さなのかもしれない。


「夏凛さんも、すごかったね」


「ええ。詩音さまのことを第一に考えて、行動されていて……私も見習わなくては」  


 柚月さんは自分の拳を握りしめた。

 その目には、もう昨日のような怯えはない。


 夏凛さんのように、主人の弱さを支え、導くパートナーもいる。  

 それは私にとっても大きな発見だった。  


 月華さまは完璧に見えるけれど、私にしかできない支え方がきっとあるはずだ。


 ただ従うだけでなく、あの方がふと弱さを見せた時、その背中を支えられるような柱になりたい。  


 聖羅さまに植え付けられた歪んだ快楽の種は、詩音さまの清らかな水で洗い流され、代わりに「パートナーとしての健全な渇望」が芽生えたような気がした。


 私は隣を歩く柚月さんと顔を見合わせ、自然に笑い合うことができた。

 私たちの間を吹き抜ける風は、もう昨日の薔薇の香りではなく、乾いた土と草木の匂いがした。  


 嵐のような日々の中で、このひと時は私たちにとって、何よりも得難い救済となったのだった。

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