第32話 聖母の揺り籠、背徳の扇
有栖川月華さまとの氷のような特訓、そしてブラックリリーの早乙女楓さまの部屋での泥沼のような安息。
ここ数日、私の心身は、フローラリアという特権階級の重力に振り回され続けていた。
嵐のような日々が一区切りついた夜、私は普通科の寮にある自室で、ルームメイトの東雲柚月さんと向かい合っていた。
消灯前の薄暗い部屋には、柚月さんが湯上がりに纏った石鹸の香りが、湿り気を帯びて漂っている。
「あの、南藻さん。……少し、お願いがあるのですが」
ベッドの端に腰掛けた柚月さんが、申し訳なさそうに切り出した。
膝の上で重ねられた指先が、わずかにシーツを掴んでいる。
「お願い? どうしたの、改まって」
「実は……明日、一緒にブルーローズのサロンへいらしていただけないでしょうか?」
「ブルーローズのサロンへ? 私が?」
私は驚きのあまり、鸚鵡返しに聞き返した。
ブルーローズは、三年生の白鳥聖羅さまが率いる派閥だ。
柚月さんは聖羅さまのパートナーとして日々その聖域に通っているが、月華さまの所有物である私が、他派閥の領分に足を踏み入れてよいはずがない。
「はい。今日、聖羅さまに『貴女の可愛いルームメイトと、もう一度お話ししてみたいわ』と仰せつかりまして……。南藻さんを連れてくるようにと」
柚月さんは長い睫毛を伏せ、困ったように眉尻を下げた。
聖羅さまからの直接の指名。
断れば、仲介役である柚月さんの立場を危うくするだろう。幸い、明日の放課後は月華さまのレッスンは休息日で、私の身体は空いている。
「分かった。私で良ければ、ご一緒するよ」
「本当ですか? ありがとうございます、南藻さん。……本当に、助かります」
柚月さんは安堵したように微笑んだ。
その慈愛に満ちた穏やかな笑顔は、見ているだけでこちらの強張った神経を解いてくれる。
けれど、私は同時に、みぞおちの辺りに冷たい石を飲み込んだような緊張を覚えていた。
白鳥聖羅さま。
「聖母」と崇められる学園の最上級生。
しかしその瞳の奥は、月華さまや咲夜さまとは違う、底知れない深淵の闇を湛えている。
私は明日の訪問に向け、制服のプリーツの皺を丁寧に伸ばしながら、見えない鎧を着込むように心の準備を整えた。
* * *
翌日の放課後。
私は柚月さんの半歩後ろを歩き、ブルーローズ専用のサロンへと足を踏み入れた。
重厚なマホガニーの扉が開かれた瞬間。
肺の奥まで侵食してくるような、むせ返るほど濃厚な薔薇の香りが、私たちを出迎えた。
月華さまの部屋が冷たく澄んだ百合の香りだとするなら、ここは熟れきった果実のような、理性を溶かす芳醇な甘い毒に満ちている。
「よくいらっしゃいましたね。……歓迎しますわ」
サロンの最奥――
ビロード張りの豪奢なカウチソファに、その人は鎮座していた。
ブルーローズの頂点、白鳥聖羅さま。
淡い茶色の髪は、丁寧に巻かれた縦ロールのウェーブを描き、背中まで流れている。フローラリア特有の黒いシルクのロングドレスは、彼女の豊かな曲線を強調し、レースのあしらわれた袖口からは、白磁のような手首が覗いていた。
手には、象牙の骨組みに黒いレースを張った扇子。
百七十三センチという長身を優雅に折りたたみ、私たちを見つめるその瞳はどこまでも優しく、けれど蜘蛛の巣のように絡めとる引力を持っていた。
「お久しぶりです。有栖川月華さまのパートナーを務めさせていただいております、小井縫南藻です」
私が緊張で声を上擦らせながら一礼すると、聖羅さまはふわりと、花が綻ぶように微笑んだ。
「ええ、存じ上げておりますわ。柚月さんの大切なルームメイトですものね。……さあ、楽になさって。今日は堅苦しい話抜きで、お茶を楽しみましょう」
聖羅さまの柔らかな手のひらに促され、私たちはソファに向かい合って腰を下ろした。
すぐに給仕によって、湯気を立てる紅茶と、宝石のような焼き菓子が運ばれてくる。
カチャン、と磁器が触れ合う軽やかな音だけが響く静寂。
聖羅さまの話術は、その静けさを壊さない絹糸のように滑らかだった。
「柚月さんは、お部屋ではどんな様子なのかしら? 普段はとてもしっかり者だけれど、南藻さんの前では甘えたりするの?」
「あ、いえ……柚月さんはいつも優しくて、私の世話ばかり焼いてくれます」
「まあ、ふふふ。やっぱり柚月さんは母親みたいね」
聖羅さまは扇子を開き、口元を隠しながら上品に笑った。
その空気はどこまでも和やかで、凪いだ海のように平和だった。
月華さまとの張り詰めた緊張感とも、ブラックリリーの嵐のような騒がしさとも無縁の、極上のリラックス空間。
私は次第に肩の力を抜き、聖羅さまが作り出す「聖母の揺り籠」のような心地よい微睡みに、警戒心を溶かされ始めていた。
なんて素敵なお姉さまなのだろう。
こんな穏やかな時間が過ごせるなら、聖羅さまのパートナーである柚月さんが羨ましいとさえ思った。
――しかし。
その安らぎは、唐突に形を変えることになった。
お茶菓子がなくなり、会話の糸がふつりと途切れた、その時。
パチリ。
聖羅さまが扇子を閉じる、乾いた音がサロンに響いた。
それはまるで、処刑の開始を告げる拍子木のように、場の空気を一変させた。甘い薔薇の香りが、急に重苦しく、呼吸を阻害する粘着質なものに変わった気がした。
「二人とも、なんて可愛いのかしら。……もっと、よく見たいわ」
扇子の向こう側から現れた聖羅さまの瞳からは、穏やかな光が消え、代わりに獲物をねっとりと値踏みする愛玩の光が宿っていた。
「二人とも、そこに立ってくださる?」
聖羅さまが扇子の先端で指したのは、何の変哲もない壁際だった。私は戸惑いながらも、柚月さんと共に席を立ち、指示された場所へ並んで直立した。
「やはり、貴女たちはセットで愛でるのがもっとも美しいわね。背格好も似ていて、まるで本物の姉妹みたい」
聖羅さまはゆったりと立ち上がり、衣擦れの音をさせて私たちの前まで歩み寄ってきた。百七十三センチの長身が、私の上に影を落とす。そして、私の隣にいる柚月さんの背後に回り込み、その腰に蛇のように手を回した。
「聖羅、さま……っ」
「じっとしていてね、柚月さん」
聖羅さまは閉じた扇子の先端を、柚月さんの首筋に押し当てた。
硬質な象牙が、柔らかな皮膚に食い込む。そのまま鎖骨にかけてゆっくりとなぞり下ろすと、柚月さんが微かに身を震わせ、吐息を漏らした。
目の前で行われる、静かで一方的な蹂躙。
私は目を逸らすこともできずに固まっていた。
聖羅さまは柚月さんを愛でながら、熱を帯びた瞳で私を見た。
「南藻さんのことも可愛がりたいけれど……貴女は月華さんのものですものね。他派閥の私が直接手出しをするのは、ルール違反だわ」
残念そうに溜息をつくと、聖羅さまは持っていた扇子を、柚月さんの手に握らせた。自分の体温が移ったそれを、柚月さんの指に絡ませるようにして持たせる。
「というわけで――お友達の貴女がやりなさい」
「えっ……?」
私も、柚月さんも、その言葉の意味を一瞬理解できなかった。
「南藻さんの身体を、その扇子でなぞってあげるの。私が柚月さんにしたように、愛しさを込めてね」
「そ、そんなこと……できません」
柚月さんが扇子を取り落としそうになりながら、縋るように私を見る。
しかし、聖羅さまは甘く、しかし絶対的な声音で囁いた。
「お友達同士の戯れであれば、問題はないわ。……そうでしょう?」
それは明らかな屁理屈だった。
聖羅さまの意思で行われる以上、これは聖羅さまによる遠隔の支配だ。
けれど、実行者が柚月さんである以上、表面上はただのじゃれ合いと言い張ることができる。
フローラリアの頂点に君臨する聖羅さまの言葉は――
この空間における絶対の法律。
「……はい」
柚月さんは抗うことを諦め、震える手で扇子の柄を握り直した。
「ごめんなさい、南藻さん……」
消え入りそうな声で謝罪すると、柚月さんは濡れた瞳で私に向き直った。
私は冷たい壁に背中を預けたまま、逃げ場を失っていた。
「いいよ、柚月さん。……やって」
拒絶すれば、柚月さんが聖羅さまに罰せられるかもしれない。
私は覚悟を決めて、ゆっくりと顎を上げ、目を閉じた。
コツン、と硬い扇子の先端が、私の喉仏の下に触れた。
ひやりとした象牙の冷たさに、背筋が粟立つ。
柚月さんの手は震えていた。その小刻みな震動が、扇子という管を通じて、私の肌に直接伝わってくる。
喉から鎖骨へ、そして制服の第一ボタンの間を縫うように胸元へ。
ウールの粗い生地越しに感じる、硬い異物の圧迫感。
ゆっくりと、焦らすような速度で、扇子が私の身体の稜線をなぞっていく。
「ふふ、上手よ柚月さん。南藻さんの身体つきはどう? 華奢に見えて、意外と柔らかそうでしょう」
背後から聖羅さまが愉しげに囁く。
まるで、柚月さんの腕を操り糸で操っているかのような声色。
直接触れられていないのに、聖羅さまの視線そのものが質量を持って肌を這い回るようで、身体の芯が熱く疼きだす。
柚月さんの扇子が、私のウエストのくびれをなぞり、短いスカートの裾へと滑り落ちていく。
太腿に扇子の冷たさが触れた瞬間、私は無意識のうちに唇を噛み、漏れそうになる声を堪えた。
恥ずかしい。
親友にこんなことをされているなんて、異常だ。
けれど、その羞恥心以上に、奇妙な高揚感が私を支配し始めていた。
薄目を開けて柚月さんを見ると、彼女もまた、頬を朱に染め、潤んだ瞳で私の身体を見つめていた。
最初は怯え、震えていたはずの手つきが、徐々に熱を帯び、丁寧さを増していく。
扇子の動きが、より深く、より執拗に、私の制服の皺をなぞる。
彼女もまた、聖羅さまの命令という免罪符を得て、私に触れるという背徳に没頭し始めているようだった。
「あっ……ぅ……」
敏感な脇腹を、扇子の要でグリとなぞられた瞬間、私の口から甘い呼気が漏れた。
「あら、いい声。……南藻さんも、悪い気はしていないみたいね」
聖羅さまが満足そうに微笑み、私の耳元で、甘い毒のように囁いた。
「素敵なお友達を持って幸せね。これからも二人で、仲良く愛し合いなさい」
その言葉は、呪いのようであり、祝福のようでもあった。
私たちは壁際で、扇子一本を隔てて繋がり、お互いの熱と罪悪感を共有していた。
これは、いけないことだ。
ルームメイト同士の清らかな友情を、決定的に踏み越えている。
けれど、素敵なお姉さまにこうして管理され、親友の手で弄ばれることに、どうしようもない泥のような快楽を感じてしまっている自分がいた。
月華さまに冷たく支配されるのとは違う、綿飴のように甘く、どこまでも沈んでいく蟻地獄のような悦び。
私は柚月さんの瞳を見つめ返した。
そこには私と同じ、背徳感と熱に浮かされた「共犯者」の色があった。
扇子の先端の冷たさと、部屋を満たす聖羅さまの濃厚な薔薇の香り。
その二つが私たちの理性を完全に麻痺させるまで、この禁断の遊戯は続いたのだった。




