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『姿隠しの姫君』〜お嬢様学校の聖域で、孤独な「最強お姉さま」に執着される【百合】物語〜  作者: 猫野 にくきゅう
第二章

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第31話 怠惰な花冠、対等な共犯

 放課後の図書館で浴びせられた「失敗すれば恥をかく」という呪詛は、私の頭蓋の内側で不協和音となって反響し、時間が経つごとに粘着質な不安へと変質していった。  


 桃瀬百乃さんの捨て台詞、そして石田千里さんを囲んでいた生徒たちの、品定めするような嘲笑。それらがまるで確定した未来の予言のように思えて、私は居ても立ってもいられなくなった。


(もし、本番のあの眩い光の中で転んでしまったら? 私の拙いステップが、月華さまの完璧な彫像のような経歴に、拭えない泥を塗ってしまったら……?)


 その恐怖は、私の足をフローラリア専用寮へと向かわせていた。


 今日は練習が休みの予定だった。

 主君の休息を妨げるなど言語道断だと理解していても、震える足先は止まらない。


 祈るような気持ちで有栖川月華さまのサロンの重厚な扉を叩いた。


「……まったく。今日は身体を休めなさいと言ったはずよ」


 扉の隙間から現れた月華さまは、不審そうに細い眉をひそめた。  


 その姿に、私は息を呑んだ。いつもの完璧に巻き上げられた髪は、今は緩くリボンで束ねられ、後れ毛が白磁のような首筋に掛かっている。


 足元もヒールではなく、柔らかなルームシューズ。  

 鎧を脱いだ「休日」の月華さまの姿は、あまりに無防備で、見てはいけない秘め事を見てしまったような背徳感を私に与えた。


「申し訳ありません、月華さま。でも、どうしても胸が騒いで……少しだけでいいのです。ステップの確認を、お願いできないでしょうか」  


 私が必死に頭を下げると、月華さまは長い睫毛を伏せ、呆れを含んだ吐息を漏らした。


「貴女、本当に……小者ね」  


 その言葉は氷のように冷たかったが、不思議と突き放すような拒絶の響きはなかった。


「お披露目のダンスパーティなんて、所詮は顔見せの儀式。私たちがそこに立っている、その事実だけで価値が生まれるの。貴女は私の美しい装飾品オーナメントとして、ただ堂々と呼吸をしていればいいのよ」


「で、ですが……」


「はあ……分かったわ。貴女がそこまで怯えるなら、三十分だけ付き合ってあげる。その代わり、本番ではその顔に完璧な仮面を張り付けなさい」


 月華さまは面倒そうに、けれど私を招き入れてくれた。  


 音楽はかけない。

 衣擦れの音と、床を滑る足音だけが支配する静寂の三十分。  


 私の右手に触れる月華さまの左手は、いつもより少し体温が高く、そして握る力は微睡むように優しかった。その「生身」の感触が、パニック寸前だった私の心拍をゆっくりと鎮めていく。


「ありがとうございます、月華さま」


「……いいから、今日はもう自室へお戻りなさい。目の下に醜い隈を作られたら、私の美学に関わるわ」  


 月華さまなりの遠回しな気遣いを背中に受け、私は深い一礼をしてサロンを辞した。


 * * *


 月華さまの部屋を出て、長い廊下を歩いていた時のことだ。  


 静まり返った聖域の空気を切り裂くように、廊下の角から弾むような足音が近づいてきた。  


 短く切り揃えられた黒髪のベリーショートに、部活動で健康的に日焼けした小麦色の肌。陸上部に所属する外部生、佐々木怜奈だった。


 彼女はブラックリリーの早乙女楓さまのパートナーに選ばれている、私と同じ一年生の友人だ。


「あ、南藻! 良いところで会ったー」  


 怜奈は私を見つけるなり、太陽の匂いを撒き散らすような笑顔で駆け寄ってきた。


「怜奈、久しぶりだね。……どうしたの?」


「どうしたもこうしたもないよ。ちょっと手伝って、南藻」


「えっ、手伝うって何を……」


 質問する間もなく、私の手首が怜奈の熱い掌に掴まれた。  


 陸上部で鍛え上げられた指の力は強く、脈動まで伝わってくるようだ。

 ひんやりとした廊下の空気の中で、彼女の体温だけが異質に燃えている。


「ちょ、ちょっと待って怜奈!」


「いいから、いいから。一人じゃどうにも重くてさぁ」


 抵抗する間もなく引きずられていった先は、同じ寮内にある一室だった。  

 重厚な扉には、ブラックリリーの紋章が刻まれている。


 ここは、早乙女楓さまの私室だ。  

 怜奈はノックもせず、まるで自分の部屋のように無造作に扉を開け放った。


「楓さまー、来ましたよー。助っ人も連れてきました」


「……んぅ……」


 分厚い遮光カーテンによって薄暗く閉ざされた部屋の奥から、甘く、気だるげな呻き声が聞こえた。  


 一歩足を踏み入れた私は、その退廃的な光景に絶句した。  

 豪奢なベルベットのソファの上で、一人の少女が、まるで重力を失った液体のようにだらしなく寝そべっていたからだ。


 ブラックリリーの一員、早乙女楓さま。  


 床まで届きそうな圧倒的な毛量の黒髪が、黒い滝のようにソファから溢れ出している。手入れが面倒なのか、毛先の方を適当なゴムで二つに括っているだけだ。  


 はだけた襟元からは、病的なまでに白い鎖骨が露わになり、スカートの裾からは細い足が無防備に投げ出されている。


「あ、怜奈だ。……お帰りぃ。一緒にゴロゴロしようよぉ」  


 楓さまは起き上がろうともせず、専用デバイスを片手にヘラヘラと笑った。


 その長い指先だけが、妙に艶かしく画面を滑っている。  

 私が月華さまや咲夜さまに感じていた、研ぎ澄まされた「高貴なオーラ」とは対極にある、熟れすぎた果実のような頽廃的な空気。


「ゴロゴロしませんよ、楓さま。あと二週間でお披露目なんですよ? ちゃんと練習しないと」  


 怜奈は腰に手を当て、駄々っ子を叱る母親のように言った。


「ええー……別にいいよそんなの。面倒くさいしぃ。息してるだけで偉くない?」


「良くありません! 南藻も手伝って。この人を物理的に立たせるから」


「えっ、わ、私が……?」  


 私は動揺した。

 フローラリアである楓さまの玉体に、許可なく触れるなど許されるはずがない。


「ほら、こっちの腕持って! ズルズル落ちてくから!」  


 しかし怜奈の強引な視線に促され、私は恐る恐る楓さまの左腕へと手を伸ばした。


「し、失礼します、楓さま……!」


「えー、なにこの子。真面目すぎない? もっと力抜いていいよぉ……」


 触れた瞬間、私は息を呑んだ。  


 楓さまの腕は、驚くほど冷たく、そして柔らかかった。

 骨がないのではないかと錯覚するほど、私の指が白く吸いつく肌に沈み込む。  


 反対側を支える怜奈の腕からは、硬質な筋肉の張りと、燃えるような熱が伝わってくる。右手に怜奈の「硬い熱」、左手に楓さまの「冷たい柔肉」。対極にある二つの質感が、私という媒体を通して生々しく混ざり合う。


「もぉー、重いんですから! 楓さまが協力しないのが悪いんですよ。はい、いち、にの、さん!」


 私と怜奈は声を合わせ、泥のように重い身体を引き起こした。  


 楓さまは「あーれー」と情けない声を上げながら、抵抗することなく引き剥がされ、ようやく直立させられた。  


 髪はボサボサ、ネクタイは曲がり、瞳はとろんと潤んでいる。

 これがブラックリリーの生徒だなんて、言われなければ誰が信じるだろう。


「はぁ……疲れたぁ。もう一生分のカロリー使った気分。……じゃあ、ちょっとだけだよ?」


 楓さまは渋々といった様子で、ゆらりと構えを取った。  


 怜奈が備え付けの音響機器を操作した。

 音楽を流すと、先ほどまでの死人のような怠惰さが嘘のように、楓さまは流麗な動きでステップを踏み始めた。  


 それは「踊る」というより、水の中を漂う魚のような、重力を感じさせない動きだった。


 才能という名の暴力。

 ただ、その魂が致命的に怠惰なだけで。


 練習の途中、怜奈が息を切らすと、「ねえ、そっちの子も相手してよ。怜奈、汗くさいんだもん」と楓さまに指名され、私が相手をすることになった。  


 向かい合い、手を重ねる。

 楓さまの手はひんやりとしていて、汗ばんだ私の手から熱を奪っていくようだ。


 楓さまのリードは、月華さまのような「氷の支配」でもなく、咲夜さまのような「炎の導き」でもない。  


 ただ、柳のようにのらりくらりと、こちらの動きを受け流し、底なしの沼へと引きずり込むような感覚。  


「君、身体ガチガチだねぇ。……もっとリラックスしなよ。たかがダンス、たかがお遊びなんだからさ」


 耳元で囁かれたその適当な言葉には、甘い毒のような湿り気があった。  

 月華さまの「小者ね」という言葉と同じ意味なのに、そこに含まれる温度は、あまりにも違っていた。


 三十分ほどの練習を終え、楓さまは「もう限界、充電切れー」と言い残し、糸が切れた操り人形のように再びソファへと沈み込んだ。  


 怜奈は呆れつつも、甲斐甲斐しい手つきで楓さまの乱れた髪を梳き、直してあげている。


「ごめんね、南藻。付き合わせちゃって」


「ううん、大丈夫。……すごいね、怜奈は」  


 私は、目の前の奇妙な光景に魅入られたまま、素直な感想を口にした。


「何が?」


「だって、相手はフローラリアだよ? 雲の上の存在なのに。あんなに対等に……ううん、怜奈の方が立場が上に見えるくらいだったから」


 フローラリアは貴族、私たちは平民。  

 パートナー契約とは、絶対的な主従関係だと私は信じ込んでいた。


 月華さまとの関係も、常に私が跪き、あの方が下知を下すものだ。  

 けれど、怜奈と楓さまの間にあるのは、そんな堅苦しい儀礼ではなかった。  


 世話焼きの飼育員と、手のかかる美しい珍獣。

 そこには言葉好みの共依存と、対等な「共犯関係」の匂いがあった。


「あはは、楓さまは放っておくとそこら辺で干からびちゃうからね。私が尻を叩いて、水をやって、生かしておいてあげてるの」  


 怜奈はカラッと笑った。


「それに、お高くとまってるより、こっちの方が肌に合うでしょ?」


 私は二人を見て、羨ましいというよりは、冷水を浴びせられたような衝撃を受けていた。  


 パートナーの形は一つではない。  

 絶対的な主従だけが、正解ではないのだ。


(私も、いつか……)


 月華さまをあんな風に、だらしなくさせることは想像もできないけれど。  

 あの方の「重み」を、ただ怯えて受け取るのではなく、この腕でしっかりと支えられるようになりたい。  


 たとえあの方が、その完璧な鎧を脱ぎ捨てて私に体重を預けてきたとしても、微動だにせずに支えきれるだけの「器」になりたい。  


 それは、「小者」からの卒業を意味する、初めての能動的な渇望だった。


「ありがとう、怜奈。……なんだか、すごく勇気が出た」


「え? 何もしてないけど……まあ、お互い本番頑張ろうね!」


 怜奈とハイタッチを交わす。

 バチン、と乾いた音が、湿った部屋の空気を弾いた。  


 楓さまの部屋を後にし、廊下を歩く足取りは、来る時よりもずっと軽くなっていた。私のドロドロとした不安を、楓さまの底なしの怠惰さと、怜奈の強引な生命力が、笑い飛ばしてくれたようだった。

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