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『姿隠しの姫君』〜お嬢様学校の聖域で、孤独な「最強お姉さま」に執着される【百合】物語〜  作者: 猫野 にくきゅう
第二章

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第30話 王子様の降臨、交錯する理想

 図書館で借りた数冊の古書が、腕の中でずしりとその重みを主張している。  


 桃瀬百乃さんとの対峙でささくれ立った神経を、インクと紙の乾いた香りが優しく宥めてくれていた。しかし、その束の間の平穏は、食堂へと続く渡り廊下の先――西日に焼かれた中庭の光景によって、無残に引き裂かれることとなった。


 噴水の傍ら、三つの影が一つの小さな影を囲んでいる。  


 中心に立ち尽くしていたのは、一年の内部生、石田千里さんだった。  

 おかっぱ頭の毛先を震わせ、垂れた目尻に涙を溜めた彼女は、まるで捕食者に睨まれた小動物のような危うさでそこにいた。


 茶道部の風呂敷包みを、白くなるまで指先を食い込ませて抱きしめている。


 彼女を囲むのは、普通科の短いチェック柄のスカートを翻すクラスメイトたち。

 彼女たちの放つ、洗練されていながらも鋭利な悪意は、夕暮れの静寂を切り裂いてこちらまで届いた。


「……ねえ、千里さん。あまりに分不相応だとは思いませんこと? レッドピオニーの頂点、朱雀院咲夜さまの隣に並ぶのが、貴女のような……その、何一つ秀でたもののない矮躯わいくの方だなんて」


 リーダー格の少女が、嘲るように唇を歪める。


「そうよ。咲夜さまは陸上のエースとしても、その肢体の美しさでも、学園の至宝。貴女が隣に立つだけで、その完璧な調和が濁ってしまうのが分からないの?」


 千里さんは風呂敷の布地をギュッと握り締め、肩を竦めて震えていた。


「あ、あの……ご、ごめんなさい……」  


 震える呼気が、謝罪という形をとって零れ落ちる。それが余計に、囲む者たちの嗜虐的な愉悦を煽っていることに、彼女は気づいていない。


「謝って済む問題ではないわ。貴女の無様は、そのまま咲夜さまの審美眼を疑わせることになるのよ」

「辞退なさったらどう? それが唯一の、あの方への献身ではありませんこと?」


 選ばれなかった者たちが放つ、静かで執拗な精神の蹂躙。  

 その光景は、先ほど百乃さんに向けられた毒と等質のものだった。この学園の優雅な規律の裏側に、膿のように溜まった嫉妬。


 見て見ぬふりをして通り過ぎる。

 それが、今の私にできる最善の保身だった。  


 けれど、西日に透ける千里さんの細いうなじを見た瞬間、私の指先が勝手に動き、首元の銀のチョーカーに触れていた。  


 皮膚の一部と化した冷たい金属の感触が、月華さまの氷のような視線を思い出させる。


(……私たちがここで屈辱を甘んじて受けることは、私を選んだあの方の誇りを汚すことと同じだわ)


 私が無様を晒せば、月華さまの瞳に泥を塗ることになる。  


 その背徳的なまでの忠誠心が、震えそうになる膝を叱咤した。

 私は深く息を吸い込み、月華さまに教え込まれた「重心の置き方」を意識して、背筋を真っ直ぐに伸ばした。


「……ごきげんよう、皆様。何やら熱心なお話し合いの最中のようですけれど」


 努めて静かに、けれど教室に響くピアノの音のように凛とした声を投げた。  

 三人の少女たちが弾かれたように振り返り、次いで千里さんが、溺れる者が救いの手を見つけたような瞳で私を見た。


「あ、南藻、さん……」


「あら、小井縫さん。有栖川さまのパートナーになられたからといって、少し……出過ぎた真似ではありませんこと?」  


 リーダー格の少女が、短すぎるスカートの裾を気にする風もなく、私を鋭く射抜く。私は彼女たちの視線の矢面に立つように、一歩、千里の前へ歩み出た。


「ご心配、痛み入ります。けれど、千里さんも私も、お姉さまたちの審美眼に泥を塗らぬよう、一刻一刻を血の滲むような修練に捧げております。……ですから、外野の皆様がその美しさを案じられる必要はございませんわ」


 精一杯の微笑。

 けれど、喉元までせり上がる心臓の鼓動を隠すことはできなかった。  


 案の定、私の介入は火に油を注いだ。

 彼女たちの敵意の温度が、一気に跳ね上がる。


「……何よそれ。有栖川さまの気まぐれで拾われただけのくせに」

「随分と高い場所から物をおっしゃるのね」


 三人が私を包囲するように、ジリジリと距離を詰めてくる。

 彼女たちが放つ石鹸の混じった香水の匂いが、重圧となって私の呼吸を浅くさせた。言葉の暴力が四方から降り注ぎ、視界がチカチカと揺らぎ始めた。


 ――その時。


「――私の、可憐なパートナーに。何か、特別な御用かな? 君たち」


 夕暮れの空気を震わせる、重厚でいて涼やかな、舞台俳優のような声。  


 圧倒的な質量を持った「熱」が、その場の空間を瞬時に支配した。  

 女子生徒たちが氷を浴びせられたように硬直して道を空けると、そこには一人の「王子様」が降臨していた。


 朱雀院咲夜さま。  


 百七十六センチという、女性としては類まれな長身。

 陸上部で極限まで研ぎ澄まされたその肢体は、フローラリア専用の黒いシルクワンピースに包まれ、夕日を反射して妖しく光沢を放っている。


 赤みの強い茶髪が風に踊り、そこから漂うのは、沈丁花の香りに似た、芳醇で熱い残香。


「す、朱雀院さま……!」

「きゃっ……咲夜さま……っ」


 先ほどまで残忍な顔をしていた少女たちが、一瞬にして上気した顔の乙女へと変わり、唇を震わせた。  


 咲夜さまは彼女たちを責めるのではなく、ただ困ったような、けれど明確な拒絶を秘めた、大人の余裕を感じさせる苦笑を浮かべた。


「君たちの熱心な忠誠は嬉しいけれど、あまり私の『所有物』を怖がらせないでほしいな。千里も、こちらの南藻ちゃんも。彼女たちへの不敬は、そのまま、私への挑戦として受け取るよ?」


 甘い、けれど逃げ場のない熱を孕んだ声音。  

 それは、月華さまの「氷」の支配とは異なる、全てを焼き尽くし包み込むような「火」のカリスマだった。


「も、申し訳ありませんでした……!」

「ごきげんよう、失礼いたします……っ!」


 彼女たちは逃げるように、けれど何度も後ろ髪を引かれるように咲夜さまを振り返りながら走り去っていった。  


 後に残されたのは、私と千里さん、そして圧倒的な存在感を放つ王子様だけだった。


「やあ、久しぶりだね、南藻ちゃん。助けてくれてありがとう。君の勇気、とても凛々しかったよ」


 咲夜さまが屈託のない微笑みを私に向ける。  

 私は、その眩しさに目を伏せるのが精一杯だった。


「い、いえ! 私は何も……咲夜さまがいらっしゃらなかったら、どうなっていたか」


「そんなことはない。君が立ち上がったという事実が、私には何より嬉しいんだ」


 咲夜さまは優雅にウィンクをすると、今度は崩れ落ちそうな千里さんの前で膝をつき、視線を合わせた。


「千里、怖かったね。……遅くなって、ごめん」


「さ、咲夜さま……っ。うあ、ああ……」

「もう、大丈夫だよ。君のひたむきな努力を、私が誰よりも信じているから」


 咲夜さまは、刺繍の施された柔らかなハンカチを取り出すと、千里さんの涙を、壊れ物に触れるような手つきで優しく拭った。そして、彼女の小さな掌を温かな手で包み、立ち上がらせる。  


 安堵のあまり、千里さんの身体が咲夜さまの胸へと預けられた。

 咲夜さまはそれを当然の権利のように受け入れ、彼女の背を大きな手でゆっくりと、あやすように撫でる。


「さあ、行こうか。私の部屋に、温かいお茶と甘いお菓子を用意させてあるんだ。まずは心を満たしてから、少しだけ、ステップを合わせよう」


「……はい。はい……っ!」


 千里さんは、涙に濡れた顔に、とろけるような幸福の笑みを浮かべて頷いた。  


 二人は私に優雅な会釈を遺すと、夕日に縁どられた廊下を、慈しむように並んで歩いていった。千里さんの歩幅に合わせて、ゆっくりと黒いシルクの裾を揺らす咲夜さまの背中は、どこまでも温かく、頼もしそうだった。


 私はその光景を、胸の奥が熱くなるような奇妙な疼きと共に、ただ見送っていた。  


 月華さまとの関係とは、あまりにも違う。  


 月華さまは私を導いてくれる。

 けれど、それは常に「支配」と「命令」という、鋭い刃を突きつけられた緊張感の中にある。


 失敗は許されず、常に完璧という頂を求められる孤独な行軍。


 でも――

 あんな風に。  


 優しく守られ、涙を拭われ、「大丈夫だ」という甘美な麻薬に浸らせてもらえる関係があるのだとしたら。


「……いいなぁ」


 喉の奥から、熱い溜息と共に本音が零れ落ちた。  


 その瞬間、首元の銀のチョーカーが、いつもより冷たく、そしてズシリと重く感じられた。まるで、月華さまの氷の指先が、私の不貞ふていな羨望を咎めるために、喉元を締め上げたかのような錯覚。


 胸の中に生まれた、主君への罪悪感にも似た小さなひび割れを抱えたまま、私は再び、先ほどよりも重くなった足取りで食堂へと向かった。

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