第29話 静寂の猶予と、持たざる者の宣告
放課後を告げるチャイムの音が、けだるげな残響を伴って教室に吸い込まれていく。私はパブロフの犬のように、無意識のうちに席を立ち、フローラリア専用寮の方角へとつま先を向けていた。
けれど、踏み出した右足が空中で止まる。
今日から数日間、有栖川月華さまとの過酷なダンスレッスンは「休息日」となっていたのだった。
「……とりあえず、音楽に合わせて四肢が動くようにはなったわね。これ以上詰めても、貴女の貧弱な神経が焼き切れるだけだわ。本番までは少し、その身体を休めなさい」
昨日の練習の去り際、月華さまは私を見下ろしてそう告げた。
相変わらず氷のように冷ややかな声音だったけれど、その長い睫毛の奥には、わずかながら合格点を出したことへの安堵が揺らめいているように見えた。
雪菜さんも「南藻さま、本当に美しい姿勢になられました」と太鼓判を押してくれたことで、私はようやく、あの甘美な地獄のような特訓の日々から、一時的に解き放たれたのだ。
私は鞄を持ち直し、踵を返して、久しぶりに図書館へと向かうことにした。
パートナーに選ばれて以来、放課後の時間はすべて、一九三センチの支配者に捧げていた。古書独特の、埃とインクが混じった乾いた匂いに包まれる時間が、今の私には酷く懐かしい。
人気のない廊下を歩きながら、私はふと、無防備な首元に触れた。
指先に触れる、冷たい銀の感触。
特訓がないという事実に、肺が広がるような開放感を覚える一方で、胸のどこかに風穴が空いたような、寒々しい空虚さを感じている自分に気づく。
常に背中に浴びていた鋭い視線。
罵倒に近い指導。
それらが消失した今、私の皮膚は頼りなく震えている。
あんなに厳しく、理不尽なまでのプレッシャーを与えてくる月華さまとの時間が、いつの間にか私の日常を侵食し、不可欠な一部へと変質していたのだ。
(……贅沢な悩みだわ。せっかく飼い主様がくださった自由時間なんだもの)
私は首を振って感傷を追い払い、図書館の新刊コーナーに思いを馳せて、ウール混紡のスカートを翻した。
渡り廊下を抜け、西日が差す中庭が見える通路に差し掛かった時だった。
光の中に、華やかな笑い声の一団がいるのが見えた。
その中心にいるのは、桃瀬百乃さんだ。
彼女は『ルミナス・プリンセス・コンテスト(妹にしたい一年生ランキング)』で堂々の三位に入賞していた生徒だ。
私と同じく特筆すべき後ろ盾のない身の上ながら、計算し尽くされた愛嬌と、狙った獲物を逃さない巧みな社交術で上位にのし上がった努力家。しかし、今回の残酷なパートナー選定において、彼女の名前が呼ばれることはなかった。
彼女は今、二人の上級生――おそらくは裕福な家庭の令嬢たち――に囲まれ、その短いスカートから覗く足を可愛らしくクロスさせながら談笑していた。
「先輩のそのリボン、すっごく素敵ですぅ! やっぱり先輩のセンス、憧れちゃいます」
「そう? 百乃ちゃんこそ、今日も小さくて可愛いわね」
「そんなことないです。先輩たちと一緒だと、私なんて霞んじゃいますよぉ」
鈴を転がすような、糖度の高い声。
上目遣いで先輩たちを持ち上げ、巧みに懐に入り込んでいるその姿は、プロフェッショナルな「妹」のそれだった。
(まだ、営業活動を続けているんだ……)
私はわずかに眉を寄せ、視線を落とした。
パートナー契約の時期は過ぎたが、学園内での地位を確保するためには、有力な上級生に取り入ることは欠かせない。彼女は選ばれなかった屈辱をバネに、あるいは次善の策として、必死に自分の居場所を確保しようとしているのだろう。
それに引き換え、私はどうだろう。
ランキングは圏外。
愛嬌もなければ、媚びる術も知らない。
ただ偶然、有栖川月華という学園で最も気高い「怪物」の気まぐれに捕まり、こうして黒と銀のチョーカーを巻かれている。
血を吐くような努力をして自分を磨き上げている百乃さんと、何もせずに全てを手に入れてしまった私。
その対比があまりに残酷で、私は罪悪感に似た気まずさを覚え、彼女たちの視界に入らぬよう、息を潜めて通り過ぎようとした。
私が彼女たちの横をすり抜け、数メートルほど進んだところだった。
背後で、あんなに楽しそうだった談笑が、糸を切ったようにふつりと途切れた。
「先輩、ごめんなさい。……ちょっと、失礼しますね」
甘ったるい猫なで声がそう告げた直後。
カツ、カツ、カツ。
攻撃的な靴の音が、アスファルトを叩くように私を追いかけてきた。
「ちょっと。……待ちなさいよ、小井縫南藻」
呼び止められ、私は足を止めてゆっくりと振り返った。
そこには、先ほどまでの愛想の良い道化の笑顔を剥ぎ取り、能面のような無表情を浮かべた桃瀬百乃さんが立っていた。西日を背負った彼女の顔は影になり、ただ瞳だけが、暗い光を宿して私を射抜いていた。
「……なにかしら?」
私が努めて平静に尋ねると、彼女は何も言わずに一歩、私に詰め寄った。
鼻をつく、強烈に甘いバニラ系の香水の香り。
それが廊下の埃っぽい空気の中で異物のように漂う。
彼女の視線が、私の顔からゆっくりと下へ滑り落ち、そして――
私の首元で止まった。
月華さまが私に与えた、黒と銀のチョーカー。
彼女はそれを、親の仇でも見るかのような、あるいは汚物を見るかのような目で、じっと睨みつけていた。
「あんたのことが、生理的に気に入らないわ。……話はそれだけよ」
唐突で、あまりに静かな宣告だった。
具体的な文句でも、言いがかりでもない。
ただ「存在そのものが不快だ」という、拒絶の吐露。
彼女の指先が、怒りでわずかに震えているのが見えた。
「なんで、あんたなの? ランキング圏外で、地味で、何の取り柄もないくせに。……私がどれだけ努力して、どれだけ準備してきたと思ってるの」
彼女の声は低く、震えていた。
それは悲しみからくるものではなく、自らが信じて積み上げてきた「美の序列」を、異分子に汚されたことへの宗教的な憤りだった。
三位という高い評価を得ながらも選ばれなかった彼女にとって、私の存在は「運だけで聖域に土足で上がり込んだ冒涜者」のように映るのだろう。私の苦悩や、月華さまとの間に流れる血の通った時間など、彼女には想像もつかないのだ。
「お披露目のダンスパーティーで、せいぜい恥をかくといいわ。みんな見てるから。あんたが月華さまの隣で、無様に転んで泥を塗る瞬間を……全員が、楽しみにしてるんだから」
呪詛のようにそう吐き捨てると、彼女は鮮やかに踵を返した。
その瞬間、彼女は再び「可愛い後輩」の仮面を完璧に被り直し、「お待たせしましたぁ!」と、鈴の音のような声を張り上げて上級生たちの輪の中へ戻っていった。
残された私は、廊下の真ん中でしばらく動けずにいた。
周囲の生徒たちが、遠巻きに私を値踏みする視線を感じる。
皮膚の上を、冷たい羽虫が這うような感覚。
百乃さんの言葉は、単なる負け惜しみだと切り捨てることもできたはずだ。
けれど、彼女が放った毒は、鋭い棘となって私の胸の最も柔らかい場所に深く突き刺さっていた。
(……気に入らない、か)
それは彼女一人の感情ではないだろう。
この学園にはフローラリアに憧れ、パートナーに選ばれることを夢見ていた生徒が何百人もいる。その死屍累々の上で、何の取り柄もない私が選ばれた。
当然、祝福してくれる人などいない。
私の失敗を願い、私が「不釣り合いだ」と証明される瞬間を、観客席の暗闇で待ち望んでいる人間が大勢いるのだ。
ダンスパーティーは、単なるお披露目の場ではない。
そこは、私が月華さまの所有物として相応しいかどうか、数百の嫉妬と殺意の視線に晒されながら証明しなければならない、血の流れない「処刑場」なのだ。
急に、図書館へ向かう足取りが鉛のように重くなった。
浮足立っていた気分は、冷水を浴びせられたように消え失せている。
しかし、不思議と恐怖だけではなかった。
「恥をかけ」と言われたことへの反発心が、私の中で静かに、けれど熱く燻り始めていた。
(転んだりなんか、しない。……絶対に)
私は無意識に、掌に爪が食い込むほど強く拳を握りしめた。
微かな痛みが、脳を覚醒させる。
自分のプライドのためではない。
私を選んだ月華さまの審美眼が間違いだったと、誰にも言わせないために。
私は顎を少し引き、背筋を伸ばした。
重心を踵に、丹田に力を込める。それは、月華さまとのダンスレッスンで叩き込まれた、美しい姿勢だった。
身体が覚えている。
あの方の教えが、私の骨格と筋肉に染みついている。
百乃さんがくれた「悪意」は、私の中で冷たい「覚悟」へと形を変えた。
私は短く鋭い呼気を吐き出すと、当初の予定通り図書館へ向かって歩き出した。 読むべき本が変わった気がした。
物語を楽しむためではなく、心を研ぎ澄まし、来るべき戦いに備えるための静寂と知識を求めて。




