第28話 共犯者の夜、重なる鼓動
有栖川月華さまとの、魂すら削り取られるような過酷なダンス練習を終え、私が普通科寮の自室に戻ったのは、消灯時刻の直前だった。
革靴の中で酷使された足の指先は、熱を持ってジンジンと痺れ、感覚が麻痺しかけている。脳髄の奥底では、未だにワルツの三拍子と、月華さまの氷のような鋭い指示が反響し続けていた。
重い扉を押し開ける。
室内はすでに灯りが落とされ、深海のような静寂に満たされていた。
(柚月さん、まだ帰ってきていない……)
ルームメイトの柚月さんもまた、「白鳥の君」こと白鳥聖羅さまのパートナーとして、連日の特訓にその身を捧げている。
ここ数日、私たちは朝のわずかな身支度の時間以外、視線を交わすことさえ満足にできていなかった。
以前は当たり前だった、就寝前の他愛ないお喋りや、紅茶の香り。
それらが今の私たちからは奪われている。
私は暗闇の中で重い溜息を一つ吐き出し、制服を脱ぎ捨ててパジャマに着替えると、逃げ込むようにベッドへと潜り込んだ。
シーツのひやりとした冷たさが、衣類越しに肌を刺す。
それは一人でいることの孤独を、残酷なまでに強調するようだった。
私は目を閉じ、一九三センチの巨人の隣に立つために貼り付けた「完璧なパートナー」としての仮面を、ようやく剥がれ落ちるように脱ぎ捨てた。泥のような眠りが、足元から這い上がってくる。
――カタリ。
微かな扉の開閉音。
そして、忍び足でフローリングを軋ませる気配に、私は意識を水面へと浮上させた。柚月さんが帰ってきたのだ。彼女はルームメイトを起こさぬよう、吐息さえ殺して身支度を整えている。
衣擦れの音だけが、闇の中で妙に艶かしく響いた。
私は声をかけるべきか迷ったが、彼女も疲労困憊だろうと思い、そのまま寝たふりを続けることにした。
しかし。
その気配は、彼女自身のベッドの方へとは向かわなかった。
代わりに、私のベッドの端がわずかに沈み込む感覚があった。
* * *
「……南藻さん。起きているのは、分かっていますよ」
耳元で、甘く湿った囁き声が鼓膜を震わせた。
驚いて目を開けると、夜目が利くほどの至近距離に、パジャマ姿の柚月さんがいた。彼女は私の返事を待たずに、掛け布団を持ち上げた。冷たい外気が一瞬入り込み、すぐさま彼女の柔らかな体温が滑り込んでくる。
狭いシングルベッドの中で、私たちは身を寄せ合った。
「柚月さん? ……どうしたの、突然」
「……一人が、怖かったんです」
柚月さんの吐息が、私の首筋にかかる。
「連日、聖羅さまの完璧な世界に閉じ込められて、一人で部屋に戻って、南藻さんもいなくて。……なんだか、このまま自分が自分じゃなくなって、あの方の人形になってしまうような気がして」
普段は冷静で、私をリードしてくれることの多い彼女の口から漏れたのは、あまりにも脆弱で、素直な弱音だった。
私の腕に触れる彼女の肌は、驚くほど熱い。
彼女も私と同じように、フローラリアという圧倒的な「巨人」の影で、精神を摩耗させていたのだ。
聖羅さまのあの慈愛に満ちた、けれど逃げ場のない綿菓子のような支配に、溺れかけている。
「……私も、同じだよ」
私はシーツの中で彼女の手を探り、指を絡めた。
「ずっと、柚月さんの声が聞きたかった。この部屋だけが、冬の底みたいに寒かったから」
暗闇に目が慣れてくると、薄明かりの中に柚月さんの輪郭がぼんやりと浮かび上がった。
* * *
私たちは声を潜め、今日あった出来事を懺悔のように報告し合った。
月華さまが見せた不器用な嫉妬のこと。小鈴さんと踊った時の、裏切りのような安らぎ。そして柚月さんが直面している、聖羅さまの狂気的なまでの「愛の鳥籠」について。
外の世界では決して口にできない、主君への畏怖と、微かな不満。
それは、パートナーとしての忠誠を誓った私たちにとって、一種の冒涜に近い行為だ。けれど、この密閉されたリネンの内側でだけは、私たちはただの等身大の少女に戻ることができた。
「南藻さん、その首……見せてもらってもいいですか?」
不意に、柚月さんの視線が私の喉元に吸い寄せられた。
私は無言で頷き、顎を上げて首筋を晒した。
先ほどまで、月華さまが選んだ革のチョーカーが巻き付いていた場所。
一日中、頸動脈を圧迫していたその拘束具を外した今、そこには生々しい「痕跡」が残されているはずだ。
柚月さんの冷たい指先が、私の首筋に触れた。
熱を持った皮膚の上を、なぞるように這う。
「……赤くなっていますね。月華さまの印が、こんなに深く」
「柚月さんの方こそ……」
私もまた、彼女の首に指を伸ばした。
そこには、聖羅さまのチョーカーが残した、くっきりとした圧迫痕があった。
白磁のような肌に刻まれた、赤い帯状の鬱血。金具が食い込んでいた部分が、特に濃く残っている。
鏡越しに自分一人で確認するのとは違う。
互いの指先を通じて、他者の身体に刻まれた「所有の事実」を再確認する作業。
それは、自分たちが同じ痛みを共有し、同じ「枷」を嵌められた家畜であり、共犯者であることを決定づける儀式だった。
パートナーの前では、この跡は忠誠の証として、誇らしげに見せつけねばならない。
けれど、今この瞬間だけは、それは共に戦場を生き抜いた戦友の傷跡として、互いに労わり、舐め合うためのものだった。
* * *
「痛みますか?」
「……ううん。こうして柚月さんに触れてもらうと、なんだか……赦されたような気持ちになる」
私たちは、どちらからともなく手を繋ぎ直した。
指を強く絡め、掌から伝わる互いの脈動を感じ取る。
トクン、トクン、と重なり合う心音だけが、私たちの生存証明だった。
外の世界では、私たちは月華さまと聖羅さまという、異なる派閥の、異なる美学に従う駒でしかない。
来月のお披露目会では、互いに美しさを競い合うライバルとして、残酷な舞台に立つことになるだろう。
けれど、このベッドの中だけは、私たちは誰にも支配されない自由な連帯の中にいた。一九三センチの支配者たちが入り込めない、私たちだけの狭く温かい聖域。
「明日も、また朝から練習ですね」
「ええ。……でも、今夜はよく眠れそう」
柚月さんの声から、先ほどまでの悲壮感は消えていた。
一番素の自分を、醜い部分も含めてさらけ出せる相手が、すぐ隣にいてくれる。その確信が、冷え切っていた心を内側から溶かしていく。
どんなに月華さまに圧倒されても、どんなに「姿隠しの姫君」の不可解な情愛に振り回されても、帰ってくる場所がある限り、私は私でいられる。
重なり合う鼓動のリズムが、次第に穏やかなまどろみのリズムへと同期していく。
私たちはどちらからともなく目を閉じ、深い安堵の中に身を投げた。
明日、またあの重い革のチョーカーを首に巻き、カチリと金具を留める時、私たちは再び「完璧なパートナー」としての仮面を被るだろう。
けれど、その仮面の裏側に隠した「共犯者の誓い」は、何よりも強く私たちを支え続けるはずだった。
窓の外では夜風が静かに吹き抜け、身を寄せ合う二人の少女を包む沈黙だけが、部屋を優しく満たしていた。




