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『姿隠しの姫君』〜お嬢様学校の聖域で、孤独な「最強お姉さま」に執着される【百合】物語〜  作者: 猫野 にくきゅう
第二章

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第26話 浮気なワルツ、拗ねる支配者

 サロンに立ち込めていた、呼吸さえも憚られるような重苦しい沈黙。

 それを鋭利に切り裂いたのは、有栖川陽華さまの、あまりに無邪気な提案だった。


「お姉さま、教え方が硬すぎるわ。……見て、南藻ちゃんの足。もうパンパンに張って震えてるじゃない。ちょっと私に貸して?」


 陽華さまはそう言うと、月華さまの返答を待つことすらしなかった。  


 伸びてきた手が、私の手首を掴む。

 その掌は熱く乾いていて、バスケットボールで培われた薄いマメの感触が、彼女の生身の生命力を伝えてきた。


「陽華、勝手な真似はやめなさい。これは私と……私のパートナーの問題よ」


 月華さまが低く、地を這うような声で制止する。  

 しかし、陽華さまは軽やかに肩をすくめ、その太陽のような瞳で私を覗き込んだ。


「でも、このままじゃパーティまでに踊れるようにならないわ。お姉さまは天才すぎて、『できない人』の気持ちが分からないんだから。……ね、南藻ちゃん、一度私と踊ってみよう?」


 私は、憧れの陽華さまに手を引かれ、困惑の中でよろめいた。  


 恐る恐る振り返ると、そこには一九三センチの巨像が立っていた。

 月華さまは眉間に深い皺を刻み、不快感を隠そうともせず、私たちを睨み据えている。その瞳の奥には、自分の領域を土足で踏み荒らされた王の怒りが渦巻いていた。  


 けれど、最終的には妹の奔放さに折れたのか、彼女は「……好きになさい」と吐き捨て、その長い手足を折りたたむようにして壁際へと退いた。


 月華さまの冷徹な独占欲と、陽華さまの天真爛漫な強引さ。二人の巨人の間に挟まれ、私の心臓は早鐘を打ち、息をするのも苦しいほどだった。


 陽華さまが、私の腰に自然な手つきで手を添え、もう片方の手で私の右手を優しく包み込んだ。  


 ふわりと、汗と制汗剤が混じった、清潔で健康的な匂いが鼻腔をくすぐる。


「大丈夫、力を抜いて。……私の動きに合わせて動こうとしなくていい。私が君の動きに合わせてあげるから」


 音楽が、再び流れ始める。  


 陽華さまのリードは、月華さまのそれとは根本的に異なっていた。  

 月華さまのリードが、一寸の狂いも許さない、冷たく硬質な「鋼の檻」だとすれば、陽華さまのリードは、どこまでも自由で軽やかな「春の風」のようだった。  


 彼女はバスケットボール部で培った空間把握能力と、他者の呼吸を読み取る共感能力を、そのままワルツへと昇華させている。  


 私がステップを間違えそうになると、彼女はそれを予期していたかのように自身の歩幅をミリ単位で調整し、何事もなかったかのように流れを修正してくれた。


「そう、上手だよ。……君の重心、今ここにあるでしょ? 次はこっちに、体重を預けてみて」


 耳元で囁かれる明るい声。

 鼓膜を震わせるその響きに従ううちに、鉛のように重かった自分の足が、魔法にかかったように軽くなっていく。


(……すごい。踊れている。私、今ちゃんと……ダンスをしているんだ)


 月華さまとの、あの窒息しそうな練習では一度も感じられなかった、純粋な「楽しさ」が胸の中に広がっていく。  


 憧れの陽華さまと密着し、一つのリズムを共有しているという事実。互いの体温が混ざり合うような多幸感が、私を包み込んでいた。  


 壁際で見ている月華さまの視線が背中に突き刺さるのを感じながらも、私は陽華さまが作り出す心地よい流れに、罪悪感と共に身も心も委ねてしまっていた。


 一曲が終わる頃――

 私の動きは練習開始直後とは見違えるほどスムーズになっていた。


「ほら、完璧じゃない! 南藻ちゃん、あなたは不器用なんかじゃない。センスあるわよ」


 陽華さまが弾けるような笑顔で私の肩を叩き、惜しみない賞賛を送ってくれた。


 憧れの「推し」から向けられた、真っ直ぐな肯定。  

 私は一気に血流が巡り、顔が果実のように熱くなるのを感じた。


「あ、ありがとうございます……! 陽華さまが、教えるのがお上手なので……」


 私が上気した顔で陽華さまを見上げ、甘い高揚感に浸っていた、その時だった。


「……もう、十分でしょう」


 凍りつくような冷気が背後から迫ったかと思うと、強い力で二の腕を引かれた。  世界が反転する。  


 気づいた時には、私は月華さまの細く、けれど万力のように強い腕の中に、力任せに引き寄せられていた。


 背後から覆いかぶさる一九三センチの影。  


 月華さまは私の背中から抱きしめるような格好で、私という存在を物理的に「捕獲」し、陽華さまを鋭い眼光で威嚇した。背中に押し当てられた彼女の胸郭が、激しく上下しているのが伝わってくる。


「私が教えた時は……一度も、そんな顔を見せなかったわね」


 耳元で響く月華さまの声は、これまで聞いたことのないほど低く、掠れ、そして……どこか震えていた。  


 私の首筋に、彼女の乱れた吐息がかかる。


「お姉さま、顔が怖いってば。南藻ちゃんが怯えてるわ」


「黙りなさい、陽華。貴女はもう帰りなさい。……南藻、貴女もよ」


 月華さまの腕が、さらに強く私を締め上げる。

 痛いほどに。


「私が教えた時は、わざと手を抜いていたんでしょう? ……そうだと言いなさい」


 恐る恐る、月華さまの表情を盗み見る。  

 そこには、いつもの完璧な支配者の面影はなかった。  


 唇を血が滲むほどに噛み締め、悔しげに長い睫毛を伏せるその姿。

 それは、お気に入りの玩具を奪われそうになった子供のような、あるいは恋人に裏切られた乙女のような、剥き出しの「嫉妬」に染まっていた。


 あんなに恐ろしかったはずの「姿隠しの姫君」が、絶対零度の瞳を持つ巨人が、今、私一人の反応に一喜一憂し、露骨に拗ねている。


「あはは、お姉さまの嫉妬なんて久しぶりに見た。……南藻ちゃん、あんまりお姉さまを虐めないであげてね」


 陽華さまは愉快そうに笑うと、私にいたずらっぽいウィンクを残し、「またね」と軽やかに部屋を去っていった。  


 重厚な扉が閉まる音が、静寂の合図となる。


 残されたのは、陽華さまの残した熱の名残と、私を離そうとしない月華さまだけだった。  


 * * *


 月華さまは私を捕らえたまま、しばらく無言で立ち尽くしていた。  

 彼女の冷たい香水の香りが、再び私を支配していく。けれど、背中から伝わる彼女の体温は、驚くほどに熱かった。


「……陽華の方が、良かったのかしら」


 長い沈黙の後、ぽつりと落とされた言葉。

 その問いかけには、有栖川家の令嬢としての傲慢さではなく、ただの一人の人間としての、弱々しい不安が混じっていた。  


 私は、胸の奥で何かが弾けるような、甘く暗い感覚を覚えた。


 神聖不可侵な憧れの存在である陽華さまへの崇拝は、もちろん変わらない。  


 けれど、今目の前で無様に嫉妬し、なりふり構わず私を繋ぎ止めようと必死になっている月華さまの姿に、私は抗いがたい「愛おしさ」を感じていた。  


 そして同時に、この巨大な人を私が揺さぶっているという事実に、背筋がゾクゾクするような歓喜が走る。


「そんなことはありません」  


 私は努めて冷静な声を装い、けれど少しだけ熱を込めて答えた。


「……ただ、月華さまに嫌われているのではないかと思って、緊張していただけです」


 そう告げると、月華さまはふいと顔を背けた。  

 黒髪の間から覗く、形の良い真っ白な耳が、夕焼けのように赤く染まっているのが見えた。


(ああ、私、この人を……こんな風に乱すことができるんだ)


 絶対的な強者であり、完璧な支配者である月華さまを、自分の存在一つでここまで動揺させることができる。  


 それは、今までずっと「持たざる者」として生きてきた私の中に、初めて芽生えた甘美で加虐的な「優越感」だった。


「……練習を再開するわよ」


 月華さまが、私の身体をくるりと反転させ、向き合わせる。  

 彼女の指先が、微かに震えていた。


「今度は、絶対に足を踏まないで」


 月華さまは強がりの言葉を口にしながら、先ほどよりもずっと慎重に、まるで壊れ物を扱うように、けれど二度と逃がさないという執着を込めて、私の手を取り直した。  


 私は彼女の不器用で重たい独占欲を全身で受け止めながら、再びステップを踏み出した。  


 鏡の中に映る、巨大な黒い影と小さな私。その姿は、少しだけ、共犯関係にある「本当のパートナー」に近づいたように見えた。

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