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『姿隠しの姫君』〜お嬢様学校の聖域で、孤独な「最強お姉さま」に執着される【百合】物語〜  作者: 猫野 にくきゅう
第二章

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第24話 鏡の中の異邦人、銀の採寸

 その日の朝、ホームルームの空気は、湿った重りを含んだような独特の緊張感で張り詰めていた。  


 担任の志保先生が教卓に立つなり、他の誰でもない、私の名を呼んだからだ。


「小井縫さん。……有栖川月華さまから、預かっています。放課後、指定の場所へ向かうようにとのことです」


 差し出されたのは、指先が沈むほどに上質な、クリーム色の封書だった。  


 封蝋にはブラックリリーの紋章が、血のように赤く焼き付けられている。  

 私が震える手でそれを受け取ると、クラスメイトたちの視線が一斉に突き刺さった。そこにあるのは単なる驚きではない。


 フローラリアの最上位生から直接の召喚を受ける者への、畏怖と嫉妬、そして隠しきれない好奇の熱だった。


(デバイスの連絡先を交換しているのだから、それで呼び出せばいいのに――古風というか、格式高いというか……)


 放課後。

 私は一人、喧騒を背にフローラリア専用寮へと足を向けた。  


 * * *


 そこは普通科の生徒が立ち入ることを許されない、学園内の聖域。  

 入り口には天を衝くような重厚な鉄格子の門が閉ざされ、制服姿の警備員が彫像のように立っている。  


 私が近づくと、警備員の視線は私の顔ではなく、その下――

 首元へと吸い寄せられた。


 月華さまの手によって嵌められた、黒い革に銀の月が輝くチョーカー。  

 それが、この閉ざされた門を通過するための通行証だった。  


 革の感触を確かめるように私が首に触れると、警備員は無言のまま深く一礼し、重々しい音を立てて扉を開け放った。


 一歩足を踏み入れると、そこは重力さえも異なる別世界だった。  


 手入れの行き届いた英国風庭園には、計算された静寂が満ちている。

 大理石の回廊を歩くたび、私のローファーの音がコツ、コツ、と硬質に響き渡り、吸い込む空気さえも冷たく澄んでいるように感じられた。  


 歴史の重みと、選ばれし者だけが許される静謐な圧力が、私の華奢な肩にのしかかる。


 指定された部屋――月華さまの私室の前に立ち、私は一度深く呼吸を整えてから、震えを押し殺してドアをノックした。


 * * *


「……入りなさい」


 中から響いたのは、背筋が凍るほどに美しく、冷徹なアルト。  

 私は意を決して重い扉を開けた。


 その瞬間。  

 私の網膜に、信じられない光景が焼き付いた。


 部屋の奥、逆光となる窓際に、彼女は立っていた。  


 これまでの月華さまは、そのあまりに希薄すぎる存在感ゆえか、あるいは「姿隠しの姫君」という二つ名の通りか、直接肌に触れていなければ輪郭が滲んで見えるような、霞がかった感覚があった。  


 しかし、今は違う。


 一九三センチメートルという、見上げるような巨躯。  

 そこから伸びる手足の長さ、黒いシルク混紡のロングワンピースが描くドレープの陰影、腰に結ばれたリボンの張り、そして切れ長の瞳の奥に宿る氷のような光。  


 ピントが極限まで合った写真のように、彼女の存在が、恐ろしいほどの解像度を持って私の視界に「固定」されていた。


(……見える。まだ触っていないのに、月華さまの全てが……こんなにはっきりと)


 パートナーとして選ばれ、彼女の所有印を首に刻んだことで、私の認識機能そのものが彼女と同調し、深く繋がったのだ。  


 その事実に戦慄すると同時に、身体の奥が熱くなるのを感じた。


「よく来たわね。……こちらにいらっしゃい」


 月華さまが、ゆったりと歩み寄る。  


 近づくにつれ、彼女の影が私を完全に覆い隠していく。

 私は首が痛くなるほど見上げなければ、彼女の顔を見ることができない。


 視界いっぱいに広がるのは、気高く尖った顎のラインと、優美な喉元だけ。  

 その圧倒的な「高さ」の暴力に、私は思わず息を呑んだ。


 * * *


 彼女の隣には、一人の女性が静かに控えていた。  


 白のレースがあしらわれた黒地のクラシックなメイド服に身を包んだ、二十歳くらいの女性だ。彼女は春の日差しのような穏やかな微笑みを浮かべ、私に対して恭しく膝を折った。


「お初にお目にかかります。小井縫南藻さま。有栖川家でお世話をさせていただいております、木下雪菜と申します」


 雪菜さんの物腰には、冷たいこの部屋の中で唯一の温かみがあった。

 大財閥の令嬢である月華さまに仕える身でありながら、彼女からは威圧感ではなく、母性にも似た柔らかな包容力が漂っている。


 月華さまは私の前に立つと、骨董品の状態を確認するかのような、冷ややかな視線を向けた。


「雪菜、この子の採寸をしてもちょうだい」


「かしこまりました。お嬢様」


 雪菜さんがポケットから巻尺メジャーを取り出す。  

 私は状況が飲み込めず、困惑したまま、遥か頭上にいる月華さまを見上げた。


「あの、採寸……ですか?」


「『結花の披露会ブルーム・デビュタント』に決まっているでしょう」  


 月華さまは、私の愚問を切り捨てるように吐き捨てた。


「来月、新しく結ばれたパートナーたちが全校生徒の前でお披露目される、伝統あるダンスパーティよ。……今のままの貧相な貴女では、私の隣に立たせるにはあまりに不恰好だわ」


 月華さまは、長い睫毛を伏せ、ため息交じりに続けた。


「……雪菜、なんとか見れるようにしてちょうだい。私の所有物として、最低限の体裁は整えさせる必要があるから」


 その突き放すような物言いに、心臓を冷たい手で握られたような痛みが走った。  

 「なんとか見れるように」――それは、今の私が彼女にとって、欠陥のある素材でしかないという宣告。


 月華さまはそのまま背を向け、部屋の中央にある革張りのソファに深く沈み込み、分厚い洋書を開いた。  


 私は雪菜さんの静かな指示に従い、着慣れたウール混紡のブレザーを脱ぎ、ブラウスのボタンを一つずつ外していく。  


 床に脱ぎ捨てられた茶色いチェックのスカートと、安価な既製品のシャツ。  

 豪奢な調度品に囲まれた広い室内で、下着に近い姿になった私は、あまりに惨めで、場違いな異物だった。


 唯一、首元のチョーカーだけが、銀色の輝きを放ちながら私の存在をこの部屋に繋ぎ止めている。


「失礼いたします、南藻さま」


 雪菜さんが、私の背後に回る。  


 する、と。  

 冷たい蛇のようなメジャーが、私の素肌を這った。  


 思わず肩が跳ねる。  


 温かい肌に触れる、無機質なテープの感触。

 雪菜さんの手際の良い指先が、バストトップ、アンダー、そしてくびれた腰へと滑り、私の身体の数値を淡々と読み上げていく。


 ソファの方から、ページをめくる音が聞こえない。  


 視線を感じる。  

 本を読んでいるふりをして、月華さまのあの冷たくて熱い瞳が、無防備な私の肢体を、首輪の嵌まった首筋を、じっと観察している気配が肌に突き刺さる。


(私……月華さまにとっては、ただの着せ替え人形なのかな。不釣り合いな雑草を、無理やり温室に飾ろうとしているだけ……)


 鏡に映る自分は、あまりに頼りなく、白磁のような首だけが浮いて見えた。

 採寸が終盤に差し掛かった頃、月華さまがふと立ち上がった。


「……資料を忘れていたわ」  


 何かを誤魔化すような早口で言い捨てると、彼女は逃げるように隣の書斎へと姿を消した。


 重厚な扉が閉まり、部屋に二人きりになる。  

 雪菜さんは私のウエストからメジャーを巻き取りながら、ふっと表情を緩め、私の耳元で共犯者のように囁いた。


「……南藻さま。あまりお嬢様の言葉を、額面通りに受け取らないで差し上げてくださいね」


「えっ……?」  


 私が顔を上げると、雪菜さんは慈しむように目を細めた。


「お嬢様はああ仰っていますが……南藻さまの衣装のデザインについて、もう何日も前から、何度も書き直されていたんですよ」


 雪菜さんの言葉が、とぷん、と私の胸の奥に落ちた。


「……書き直して、いた?」


「ええ。採寸前から、南藻さまに最も似合うシルエット、肌の色に映える生地、そしてご自身との身長差のバランス……。あの完璧主義のお嬢様が、ご自分のデザインに納得がいかず、幾枚もの図面を破り捨てていらっしゃいました」


 雪菜さんは、書斎の方をちらりと見て、くすりと笑った。


「お嬢様にとって、南藻さまは『なんとか見れるように』する対象ではなく……『世界で一番美しく完成させたい』大切な作品なのですよ」


 胸の奥が、じんわりと熱を帯びていく。  


 月華さまのあの冷徹な言葉は、彼女なりの不器用な照れ隠しであり、同時に自分でも制御しきれないほどの、深い執着の裏返しだったのだ。  


 あの巨大で美しい人が、小さな私のために、夜更けまでペンを握りしめ、苦悩している姿を想像する。  


 そのいじらしさに、愛おしさがこみ上げた。


 再び扉が開き、月華さまが戻ってきた。

 私が上気した頬で自分を見つめているのを不審そうに眉をひそめたが、何も言わず、ただ短く告げた。


「終わったのなら、さっさと着替えなさい」


「……はい」  


 私は制服を身につけ、最後に襟元を整えた。


「雪菜さん、ありがとうございました」  


 帰り際、私は雪菜さんにだけ聞こえる声で礼を言い、部屋を後にした。


 月華さまの私室を出て、回廊を歩きながら、私は無意識にチョーカーの銀細工を指先でなぞっていた。  

 先ほどまでは冷たく感じた金属が、今は体温を吸って生温かく、私の脈動に合わせて鼓動しているように感じる。  


 「不器用な所有者」の隠された愛情を知った今、この首輪は屈辱の証ではなく、誰よりも愛されているという誇らしい証明に変わっていた。


 来月の「結花の披露会」。

 

 私は、彼女が描く理想の「妹」になるために、そして彼女の隣で最も美しく咲くために。明日から始まる過酷なダンス練習に、全てを捧げる覚悟を決めた。

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