第23話 湯煙の誓い、素肌の境界線
夕食後の重たい沈黙を連れ添い、私たち四人は夜の帳が下りた普通科寮へと戻ってきた時のことだ。
パートナー選定という名の「審判」を終えたばかりの夜。
本来ならば、独り自室に籠り、鏡の中に映る見慣れぬ首元のチョーカーを見つめながら、その重みに身を震わせるべき刻であった。
しかし、自室の扉を前にして、柚月さんが不意に足を止めた。
彼女が振り返った瞬間、廊下の暗がりに彼女の瞳が仄白く光る。
「ねえ、皆さん。……これから四人で、一緒にお風呂へ参りませんか?」
その唐突な誘いに、私は思わず喉を鳴らした。
寮の共同大浴場へのお誘いは珍しくはない。
けれど、彼女の提案にいつもの無邪気さは微塵もなかった。
戸惑う私の視線を、柚月さんは逃がさない。
その瞳には、彼女のパートナーである白鳥聖羅さまが宿す、あの慈愛に満ちた、しかし抗うことを許さない「静かな支配」の影が、確かな色を持って混じり始めていた。
「パートナーに選ばれた私たちは、これから絶えず人目に晒されることになります。来月のお披露目、あの広いホールで……そんなに項を強張らせていては、月華さまの隣に堂々と立つことは叶いませんわよ」
「そ、それは……」
「これは『お風呂特訓』です。次の段階へ進むために、私たちは互いの素肌を隠さない関係にならなくては。……よろしいですね?」
柚月さんの声は、ベルベットのように滑らかで、それでいて有無を言わさぬ重圧を含んでいた。
怜奈さんが「皆でお風呂か、いいね!」と快活に、けれどどこか緊張を隠すように笑い、千里さんは熟れた果実のように頬を赤らめて「柚月さんが……そう仰るなら」と、消え入りそうな声で頷いた。
私は、逃げ場のない「裸の連帯」へと、静かに引きずり込まれていった。
それぞれが自室から着替えを抱え、一階の大浴場へと向かう。
脱衣所の重い扉を開けると、そこには石鹸の香りと、幾人もの生徒たちの吐息が立ち込めていた。
私たちは空いているロッカーを見つけ、儀式のように無言で制服を脱ぎ始めた。
この「特訓」における最初の試練は、首元の「枷」を外すことにあった。
私は鏡の前で、首の後ろにある冷たい金具に指をかけた。月華さまの大きな手によって嵌められた、重厚な黒と銀の印。
――カチリ。
小さな金属音が、やけに重々しく鼓膜を叩く。
チョーカーを解いた瞬間、首筋に過剰なまでの解放感が訪れ、それと同時に、魂の拠り所を失ったような剥き出しの不安が襲ってきた。
鏡の中の私は、どこまでも無防備だった。そして、チョーカーが触れていた場所には、生々しく、うっすらとした「赤み」が帯状に残っている。
それは、布地を脱ぎ捨ててなお、私が誰かに所有されているという事実を、肌の体温をもって主張し続けていた。
隣では、怜奈さんが迷いのない動作で黒いチョーカーを外していた。
陸上部で鍛え上げられた、無駄のないしなやかな肢体。
その首筋にも、やはり楓さまの執着の跡が色濃く残っている。
一方の千里さんは、折れてしまいそうなほど華奢な身体を丸め、震える指先で赤いチョーカーを解いていた。透けるような白い肌に、その赤い跡はあまりに痛切で、倒錯的な美しさを放っている。
そして、柚月さん。
彼女は青いチョーカーを、神聖な布を扱うように丁寧に畳んでロッカーに置くと、穏やかな微笑みを湛えたまま、私たちの「跡」を観察するように見つめていた。
「さあ、参りましょうか」
四色の「意志」をロッカーに預け、私たちは白い湯煙が渦巻く浴室へと、一歩を踏み出した。
浴室の中は、濃密な湿気と石鹸の匂いで満ちていた。
湯気によって視界は朧げになり、聞こえてくるのは反響する水音と、少女たちの秘めやかな囁きだけ。
私たちは洗い場に並び、互いの背を流すことになった。
なるべく視線を伏せていた私だったが、柚月さんに「南藻さん、ちゃんとこちらを見て」と促され、観念して顔を上げた。
怜奈さんの背中は、躍動する筋肉の線が美しく、健康的な生命力に溢れている。
対照的に千里さんは、水滴を弾くその肌さえもが壊れ物を思わせるほどに儚い。
お湯が肌を叩く感触、石鹸の泡が滑り落ちる微かな音。
身体を洗い終え、私たちは大きな湯船に、深く肩まで浸かった。
熱いお湯が全身の毛穴に染み込み、凝り固まっていた羞恥が少しずつ解けていく。
けれど、その安寧を破るように、波紋が広がった。
「……あら、南藻さん。それに柚月さんも。四人揃ってなんて、珍しいことですわね」
湯船の向こう側から、クラスメイトの冷ややかな声が響いた。
それを合図に、浴室内の生徒たちの視線が、一斉に私たちへと注がれる。湯気越しであっても、その視線が私の裸体を舐めるように這い回るのが分かった。
「本当だわ。噂の『選ばれた方々』が勢揃いなんて」
「……ねえ、ご覧になって。あの首筋の跡……」
剥き出しの状態で浴びる視線は、服を着ている時よりもずっと残酷で、鋭利だった。私はたまらずお湯の中に顔を半分沈めたが、柚月さんは違った。彼女は豊かな髪をかき上げ、湿ったうなじを堂々と晒しながら、背筋を凛と伸ばした。
「こんばんは。……明日のレッスンに備えて、皆で英気を養いに来たのですわ」
その振る舞いには、すでにフローラリアに付き従う者の気品――
選ばれた者だけが持つ、傲慢なまでの優雅さが宿っていた。
「よろしいですか、南藻さん」
柚月さんがお湯の中で、私の指先を優しく、けれど強く握った。
「私たちはもう、『見られる側』の人間になったのです。裸であろうと、ドレスを纏っていようと、有栖川月華さまのパートナーとしての品格を問われ続ける。……今のうちに、この視線に慣れておかなくてはなりません」
柚月さんの言葉は、熱いお湯よりも深く、私の芯に突き刺さった。
この「お風呂特訓」は、単なる馴れ合いではない。
どんな屈辱の下でも、どんな視線の暴力に晒されても、己の帰属を肯定するための、精神の鍛錬。私はゆっくりと顔を上げ、クラスメイトたちの好奇の視線を真っ向から受け止めた。
恥じらいは消えない。
けれど、隣で同じように身体を晒し、同じ「所有の印」を誇る友人たちがいる。
その連帯感が、私の足の震えを止めてくれた。
十分に身体を温めた私たちは、浴室を出て脱衣所へと戻った。
火照った肌をタオルで押さえ、再びロッカーからチョーカーを取り出す。
一度外したそれを、再び自らの首に巻き付ける。
湿り気を帯びた肌に冷たい革が触れた瞬間、それはもはや単なる「枷」ではなく、この過酷な学園で戦い抜くための「装具」へと、その意味を変えていた。
「ぷはぁ……生き返った!」
怜奈さんが、腰に手を当てて快活に笑う。
「……私も。少しだけ、勇気が出た気がします。咲夜さまに相応しい自分に、ならなくては」
千里さんも、頬に朱を差しながらも、その瞳には静かな光が宿っていた。
自室へと戻る廊下を歩きながら、私は自らの首元に触れた。
鏡を見ずとも、そこに刻まれた「黒と銀」の存在が、今の私を形作っていることを確信できる。
未熟さも、羞恥も、すべてを晒した上でもう一度、あの月華さまの前に立つ。
その覚悟が、熱いお湯の余熱とともに、背骨の奥に居座っていた。
「南藻さん。明日からは、いよいよダンスのレッスンが始まりますよ」
柚月さんが自室の前で足を止め、私を深く見つめた。
「ええ。月華さまにリードを任せきりにしないくらい……私も、必死に食らいつくわ」
部屋に戻り、窓を開けて夜風を招き入れる。
明日は今日よりもさらに厳しい、愛の試練が待っているだろう。
けれど、今夜四人で共有した、あの重苦しくも甘美な湯気の記憶が、私を支えてくれるはずだ。
私は銀色の月に指を這わせ――
その冷たさを慈しみながら、深い眠りへと沈んでいった。




