第21話 二人の印、それぞれの選択
有栖川月華さまが教室という聖域を蹂躙し、私を強引に「妹」として略奪してから一夜が明けた。
翌朝、登校した私を待ち受けていたのは、昨日以上の熱を帯びた、粘りつくような視線の雨だった。
私の首には、隠しようのない事実が鎮座している。
呼吸をするたび、喉仏に触れる硬質な革の感触。ブラックリリーの最重要人物の「所有物」であることを示す、黒と銀のチョーカー。体温で温まった革が、まるで月華さまの指先のように私の頸動脈を甘く締め付けていた。
しかし、始業前の教室を揺らしていたのは、私個人の首輪のことだけではなかった。
掲示板と生徒たちのデバイスに一斉配信された「公式パートナー選定結果一覧」。
そこに記されたもう一つの名前が、一組の生徒たちに悲鳴にも似た衝撃を与えていたのだ。
「……信じられない。あの『聖母』聖羅さまが、特定のパートナーを囲うなんて」 「しかもこのクラスの……東雲さんを選んだの?」
クラスメイトたちの驚愕と嫉妬の入り混じった視線は、私の隣の席に座る東雲柚月さんに集中していた。
一組からは、私と柚月さんの二人がフローラリアのパートナーとして選出されたことになる。私の場合は、以前から月華さまとの背徳的な噂があったため、ある程度の予測は立てられていただろう。
けれど、柚月さんの件は完全な空白地帯からの急襲だった。
ブルーローズのトップ、三年生の白鳥聖羅さま。
彼女は「特定の一人を選ばず、下級生全員を慈しむ」という博愛主義を貫いてきた、学園の聖母だ。
その彼女が、この最終選定の土壇場で、たった一人の少女を「独占」した。
これは、学園の勢力図のみならず、信仰さえも書き換えるほどの事件だった。
好奇心に駆られたクラスメイトたちに詰め寄られ、柚月さんは少し困ったように、けれど、どこか陶酔したような優雅な所作で、さらりとした髪を耳にかけた。
その瞬間。
露わになった白磁の首筋に、ひとつの「色」が焼き付いていた。
深い海のような、青。
私の首を飾る攻撃的な漆黒とは対照的に、それはあまりに穏やかで――
しかし、一度沈めば二度と浮上できない深海のような引力を持ったベルベットのチョーカーだった。
「柚月さん、一体どういう経緯だったの? 聖羅さまからなんて言われたの?」
上気した顔で問う生徒の声に、柚月さんは長い睫毛を伏せ、昨日の密室での出来事を反芻するように、ほう、と熱い吐息を漏らした。
「……昨日のことよ」
呼び出しを受けてブルーローズのサロンへ赴いた柚月さんを待っていたのは、白檀の香りが漂う部屋で、扇子を手に微笑む聖羅さまだったという。
柚月さんは、自らの首元の青い布地を愛おしげに指でなぞりながら、夢見心地な声で語り始めた。
「聖羅さまはね、こう仰ったの。『今まで、特定の子を選ぶ気はなかった。どの子も等しく可愛かったから』……って」
教室中が息を呑み、静寂が満ちる。
柚月さんは潤んだ瞳を虚空に向け、聖羅さまの言葉を、一言一句、噛み締めるように紡いだ。
「『けれど、貴女と話しているうちに……他の誰にも触れさせたくない、自分のものにしたいと思ってしまったの』」
普段の慈愛に満ちた聖母が、仮面の下で煮えたぎらせていた、強烈な独占欲。
柚月さんはその重い愛を拒むどころか、聖羅さまの柔らかな腕の中で、自らその首を差し出したのだ。
彼女の表情には、私の抱いているような「理不尽に略奪された」という戸惑いよりも、自らの意志でその巨大な愛の深淵に身を沈めたような、静謐な覚悟が宿っていた。
私と柚月さん。
親友同士である私たちが、期せずして学園の二大巨頭のパートナーとなった。
視線を交わす。
互いの首にある「飼い主」の印が、私たちのこれまでの対等な友人関係に、背徳的で新しい色彩を加えようとしていた。
一方で、この選定劇の裏側では、別の「首輪」を選んだ者たちもいた。
今回の最終選定では、成績トップクラスが集まる一組から、三名の生徒が生徒会役員として選出された。
その中の一人が、学級委員長の高橋琴音さんだった。
「ベストではないけれど、私はこれでいいのよ」
琴音さんは、眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、手元の書類を綺麗に揃えながら事務的な口調で言った。
その指先には、感情の揺らぎなど微塵もない。
「もちろん、フローラリアの方々とコネクションを作るのが最善だったけれど、生徒会は実社会への直結路よ。本校の生徒会出身者は、政財界で成功している卒業生が多いわ。そこでの人脈は『仲間意識』として、将来大きな武器になる」
彼女の言葉は、まるで氷のように冷たく、極めて現実的だった。
フローラリアという一種の「疑似家族」的な湿った絆よりも、組織としての実利と将来のキャリアを見据えた選択。
琴音さんのような外部生にとって、それは感情を排した、最も賢明な学園での生存戦略なのだ。
そこへ、短いチェック柄のスカートを翻し、不機嫌そうに肩を怒らせて二階堂亜美さんが近づいてきた。
彼女は今回の選定で、誰からもパートナーとして指名されず、無所属のままだった。自称・私のライバルとして、彼女の高いプライドはズタズタに引き裂かれているはずだ。
「ふん、何よ。……あんな派手な首輪までつけられちゃって」
亜美さんは私と柚月を交互に睨みつけた。
その視線は、私たちの顔ではなく、首元のチョーカーに吸い寄せられている。
憎々しげな響きとは裏腹に、その瞳には「選ばれなかった者」の渇望が滲んでいた。
けれど、彼女はすぐにふいと顔を背け、腕を組んだ。
「……でも、まあ、おめでとうございますと言っておきますわ。それと――あなたたちが無様な姿を見せたら、選ばれなかった私の立場がありません。特に南藻さん! あなた、月華さまの隣で縮こまってたら承知しませんわよ」
それは彼女なりの、精一杯の祝福と、敗北宣言だった。
選ばれた者の責任、選ばなかった者の野心、そして選ばれなかった者の葛藤。
パートナー選定という儀式を通じて、一組のクラスメイトたちの人間模様はより残酷に、そして多層的になっていた。
私たちはもはや、単なる同じ教室の生徒ではない。
それぞれが異なる「所属」と「首輪」を背負った表現者として、この学園に立っているのだ。
放課後。
私と柚月さんは二人で中庭のベンチに座っていた。
西日が私たちの影を長く伸ばし、足元の芝生を黄金色に染めている。
お互いの首で鈍く光る、黒と青の印。昨日までの私たちにはなかった、重く、確かな「帰属」の証明が、そこにあった。
「南藻さん……大変なことになってしまいましたね」
柚月さんが、首元のベルベットに指を這わせながら、少しだけいたずらっぽく笑った。
「本当にね。……でも、柚月さんが一緒でよかった。一人だったら、この首の重さに、押し潰されていたかもしれないわ」
「私もよ。聖羅さまの愛は、とても深くて……少し気を抜くと、溺れてしまいそうなの」
柚月さんの言葉に、甘い溜息が混じる。
私たちは、来月に控えた「お披露目のダンスパーティ」について話し合った。
それは、新たに結ばれたパートナーたちが全校生徒の前で共に踊る、社交の場。
単なるイベントではない。
パートナーとしての品格、相性、そして背後にある派閥の威信が試される、真の「デビュー戦」である。
私には、一九三センチの月華さまのリードに合わせて踊りきるという、目眩がするほど高いハードルがある。
そして、月華さまが執筆しているという小説の手伝いも、パートナーとしての重要な「ご奉仕」になるだろう。
柚月さんもまた、聖羅さまの完璧な「妹」として、ブルーローズの象徴的な役割をこなさなければならない。
「練習、頑張りましょう。南藻さん」
「ええ、柚月さん。私たち、最高のパートナーだって……皆に認めさせましょう」
私たちはどちらからともなく、ベンチの上で手を重ね合わせた。
触れ合った手のひらから伝わる、微かな湿り気と体温。
黒と青。
異なる派閥に属しながらも、根底で繋がっている私たちの絆は、この「拘束」を共有することで、より強固で秘密めいたものへと変質していた。
六月のダンスパーティに向けて。
私たちはそれぞれの「お姉さま」の所有物として、そして自分自身の居場所を確かなものにするべく、新しい一歩を踏み出す決意を固めた。
首元の冷たい金属が、ふと、所有者の存在を主張するように肌を刺激した。




