第20話 月夜の略奪、そして愛の告白
「パートナー登録日」の朝。
凰華女学院を包む空気は、かつてないほどの湿度と熱を帯び、甘く浮き足立っていた。公式な関係へと昇格する、その記念すべき瞬間を待ちわびる吐息が、学園中に充満していた。
通常、こうした結びつきには水面下での入念な根回しがあるものだが、稀に「サプライズ」として一方的な指名がなされることもある。
誰にでもチャンスがある。
――という希望が、生徒たちを浮足立たせていた。
一組の教室も、その例外ではなかった。
優秀な成績を収める生徒たちの多くは、たとえ事前の接触はなくとも、心のどこかで「ひょっとしたら自分が選ばれているかも」という淡い期待に頬を紅潮させていた。
そんな喧騒の中、私はただ一人、世界の底に沈んでいた。
重い、あまりに重い足取りで自分の席に座る。
ウール混紡のスカートが、鉛のように下半身に纏わりついている気がした。
前日、ブラックリリーのサロンにて如月結衣さまから宣告された「優先順位は一番下」という言葉が、毒のように、呪いのように私の心臓に張り付いて離れない。
月華さまが私を指名することは分かっている。
しかし、私は月華さまのパートナーとして、ふさわしい存在などではない。
単なる「デコイ(囮)」であり、彼女という美しい猛獣が暴走せぬよう繋ぎ止めておくための「管理備品」に過ぎないのだ。
今日の公式な登録手続きにおいて、私の名前が「月華さま以外のフローラリア」から、呼ばれることなど万に一つもないだろう。
私は誰にも選ばれないまま、ただ月華さまの「秘密」という名の鎖を抱え、影のように彼女の側に侍るだけの透明な存在として、これからの三年間を空虚に過ごすことになるのだ――。
「南藻さんは、月華さまが選ぶはずですから」
隣の席の柚月さんは、曇りのない真っ直ぐな瞳で私を見つめ、元気のない私を励ましてくれた。
私はその無垢な信頼に応える言葉を持たず、ただ、剥がれ落ちそうな乾いた笑みを力なく返すことしかできなかった。
* * *
授業は形ばかりのもので、誰もが教師の言葉を上の空でやり過ごしている。
小休止の合間にも、成立予定の「カップル」たちの噂話が、さざ波のように教室を駆けていく。
そこには先日顔を合わせた桜庭小鈴さんや千葉夏凛さんの名も、当然のように含まれていた。それを耳にするたびに、私の胸には冷たい空洞が広がっていくような感覚に襲われた。
(……やっぱり。私の名前は、どこにもないんだわ)
結衣さまの言葉通り、私を選ぶ者など、この学園には存在しない。
私は、いわば月華さまの「個人的な所有物」。
その領域に敢えて手を伸ばそうという物好きなど、一人もいなかったらしい。
六限目のチャイムが鳴り響くまで、あと数分。
西日が差し込む教室の前方では、志保先生が早々に授業を切り上げようとノートを閉じている。宙を舞う埃が、光の帯の中でキラキラと踊っていた。
「――今日の授業は、ここまでですね」
志保先生がそう締めくくろうとした、その瞬間だった。
私の世界が、唐突に閉ざされた。
両頬が不意に背後から伸びた冷たい両手によって、強い力で包み込まれた。
あまりの衝撃と、肌を伝う冷気に息が止まる。
その直後。
目の前の空間がぐにゃりと歪み、虚空を裂くようにして、圧倒的な質量が「そこ」に出現した。
* * *
――ッ!
教室の空気が、瞬時にして凍りつく。
何もないはずの場所に突如として発生した「重力」が、逃げ場のない波となって教室内へ広がっていく。
その人は、何の躊躇も、何の予告もなくそこに現れた。
眼前に立っていたのは、有栖川月華さまだ。
普段の彼女は、その特異体質ゆえ、誰の目にもその姿を捉えることができない。
「姿隠しの姫君」。
だが今、私と接触したことで、彼女の存在は世界へ「受肉」した。
教室にいるすべての人間が、その一九三センチの巨躯を、漆黒のシルクドレスが放つ威圧感を、はっきりと目撃することとなったのだ。
彼女は、大勢の生徒が集まる場所には姿を現さない。
初めてその姿を拝む生徒も少なくないはずだ。
けれど、彼女はブラックリリーのトップである陽華さまの双子の姉であり、その容貌は瓜二つ。
誰もが即座に、この超越的な美貌を持つ主の正体に気づき、息を呑んだ。
あの有栖川月華が、衆人環視の教室に、あえてその威容を晒している――。
その事実だけで、室内は水を打ったような静寂に支配された。
月華さまは、教室内の他の誰にも視線を向けることはない。
ただ一直線に、私だけを凝視している。
長い睫毛の奥にある瞳は、獲物を決して逃さない猛禽類のように、私だけを深く、執拗に射抜いていた。
「月華、さま……。どうして、ここに……っ」
私が困惑し、震える膝で椅子から立ち上がろうとすると、彼女は大きな手で私の華奢な肩を掴み、強い力でその場に押し留めた。
四十センチの身長差。
私を見下ろす彼女の影が、私の全身を完全に覆い尽くす。
「捕まえたわ、南藻」
その声は低く、けれど静まり返った教室の隅々にまで届くほど、残酷に明瞭だった。私は、頭の片隅で結衣さまの冷たい宣告を思い出し、干上がった喉の奥から必死に言葉を絞り出した。
「あの……公式な手続きは、サロンの方で行われると聞いています……。もし、手続きでしたら、そちらへ……」
本来、ここからは三大派閥の代表者三人が、順番に下級生を指名し、欲しい一年生を確保していく手順になっている。
噂話に私の名はなかったが、それでも「月華さま以外から指名される可能性」はゼロではない。
もしそうなれば、今の月華さまの振る舞いは、ルールを完全に無視した「略奪」に他ならない。
言いかけた私の唇を、月華さまの人差し指が塞いだ。
彼女は、鼻で笑うようにして、冷たい笑みを深める。
「手続き? そんなもの、待つ必要はない――早い者勝ちよ。他に指名する者がいるかどうかなんて、私には関係ないわ」
無茶苦茶だ。
なんて身勝手なのだろう。
彼女は、私の耳元に唇を寄せ、熱い吐息と共に囁いた。
その湿った声が、鼓膜を甘く震わせる。
「……それに、南藻。貴女のことなんて、私以外に選ぶ人なんて、いなくてよ」
その言葉は、冷酷な事実の突きつけであると同時に。
世界で唯一、彼女だけが私を必要としているのだという、暴力的なまでの愛の告白でもあった。
月華さまは懐から、一つの小さな箱を取り出した。
磨き抜かれたベルベットの箱は、明らかにこの日のために、特注で作られた品だった。彼女は、箱の中から一本の「チョーカー」を恭しく取り出す。
ブラックリリーを象徴する、なめらかな漆黒の革。
その中心には、月華さまの印である「銀の月」の意匠が妖しく光っている。
それは、単なる装飾品というにはあまりに重く――
逃れられない拘束具のような重厚感を放っていた。
「……あ」
声にならない吐息を漏らす私の首に、月華さまの細長く冷たい指先が回される。
革の冷たさと、指先が項の産毛を逆撫でする感触に、背筋がゾクリと粟立った。彼女は私の髪を優しくかき上げると、そのまま背後で、金具を固定した。
――カチリ。
小さく、けれどあまりに決定的な金属音が、静まり返った教室に響き渡った。
それは、私の人生が書き換えられた音だった。
首元に感じる、ずっしりとした革の重み。
脈打つ頸動脈を直接圧迫する、銀の冷たさ。
それは、私がもはや一人の自由な生徒などではなく、有栖川月華という巨人の「所有物」に堕ちたことを示す、物理的な刻印だった。
「これで、貴女は名実ともに私のものよ。……貴女はどうも、下らないことを考えていたようだけれど。私が確保したいのは、貴女よ。……分かったかしら?」
月華さまは私の顎を持ち上げ、逃げ場を奪うようにして無理やり視線を合わせさせた。
その瞬間――
教室中から、堰を切ったように割れんばかりのどよめきが沸き起こった。
「嘘、あの有栖川さまが……!?」
「南藻さんを、そこまで求めていたなんて!?」
周囲から突き刺さる、驚愕と嫉妬が入り混じった無数の視線。
しかし、今の私にとって、そんな雑音はどうでもよかった。
首を締め付けるチョーカーの感触が、不思議なほどに、私の荒んだ心を安息させていたのだ。
自分は無価値だ。
誰からも選ばれない――そう思い詰めていた私の魂は、この「銀の首輪」によって奈落から救い上げられた。
たとえそれが、自由を永久に奪われる略奪であったとしても。
この首輪がある限り、私は彼女のものだという証明なのだから。
「……はい。月華、さま」
私は誘われるまま、恍惚とした安堵と共に、彼女の広い胸に身を預けた。
一九三センチの巨大な檻の中に、自ら閉じ込められるように。
こうして、私にとっての選定期間は、唐突に幕を閉じた。
首筋に、「月華の所有物」という重く、甘美な事実を刻み込んで。
私は「素敵なお姉さまと恋がしたい」と思い、この学園にやってきた。
そして、素敵なお姉さまの「所有物」となった。
これから始まるのは、私と月華さま――
私たち二人の物語だ。




