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『姿隠しの姫君』〜お嬢様学校の聖域で、孤独な「最強お姉さま」に執着される【百合】物語〜  作者: 猫野 にくきゅう
第一章

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第19話 最終選定、届かない声

 学園中が熱に浮かされたような「選定期間」も、いよいよ最終日を迎えようとしていた。


 目に見える祝祭の裏側で、水面下では上級生の「フローラリア」と、私たち下級生との姉妹契約スール・エンゲージを巡る交渉が、甘やかな微笑と丁寧な言葉遣いに包まれながらも、静かに激化している。


 廊下ですれ違う視線、昼休みに交わされる何気ない一言、放課後の呼び出し――そのすべてが値踏みであり、布石であり、選別だった。


 そんな折、私のもとに一通の書簡が届いた。


 封蝋にはブラックリリーの紋章。

 重みのある紙質が、ただの連絡ではないことを告げている。内容は簡潔だった。ブラックリリーのサロンへ、出頭せよ、と。


 差出人は、派閥の頭脳にして冷徹な参謀、如月結衣さま。


 私は、鉛を詰め込まれたような足取りで寮を出た。

 それでも胸の奥底では、消え残った小さな火種が、かすかに燻っていた。


 昨夜、桃瀬百乃さんという「努力家」に、私の立場の正当性の欠如を突きつけられ、自分という輪郭が揺らいでいた。


 あのとき感じた、足場を失うような不安。

 だからこそ、この呼び出しは、もしかすると「公式なパートナーとしての追認」を意味するのではないか――そんな甘い幻想に、私は縋っていたのだ。


 月華さまの側にいる理由が、単なる「秘密の共有」という背徳的な契約ではなく、組織に認められた正当な「役割」であると定義されるのなら。

 この曖昧で、不安定で、いつ切り捨てられるか分からない立場に、最低限の根拠が与えられるのなら。


 私は救われるかもしれない。


 鏡の前に立ち、震える指先を叱咤しながらチェック柄のリボンを結び直す。

 ブレザーの襟を整え、乱れた前髪を押さえ、深く息を吸う。冷たい空気が肺を満たし、かすかな痛みを伴って現実を意識させた。


 そして私は、サロンの重厚な扉に手をかける。


 一歩、その空間に足を踏み入れた瞬間。

 肺が潰れるほどの圧倒的な「華」の暴力に、全身を晒された。


 * * * 


 凍てつくような空調の中、濃厚な紅茶と薔薇の香りが幾層にも重なり合って漂う広い室内。深紅の絨毯は足音を吸い込み、天井から吊るされたシャンデリアが、冷たい光を無数の粒に砕いて散らしている。


 そこに、結衣さまの他に二人の少女が待機していた。


 一人は、学園の「妹ランキング」で不動の一位に君臨する、一年三組の桜庭小鈴さん。


 もう一人は、二位に位置する剣道部の至宝、千葉夏凛さん。


 小鈴さんは、一四五センチほどのあどけない体躯に、天使の輪が浮かぶような栗色の髪をふわふわと揺らしている。

 白磁のような頬にかかる柔らかな光が、彼女の存在そのものを祝福しているかのようだった。彼女がただソファに腰かけ、大きな瞳を瞬かせるだけで、周囲の空気は蜜のように甘く、ぬるやかに溶けていく。


 抗いがたい、天性の愛らしさ。


 対照的に、夏凛さんは、濡れた鴉の羽のような黒髪を高い位置で結い、背筋を剣のように鋭く伸ばして座っていた。

 微動だにしないその姿勢には、無言の緊張が張り詰めている。


 静謐で、研ぎ澄まされた美しさ。

 触れれば切れるような気配が、空間の温度を一段階下げていた。


 二人は、三大派閥のトップたちから見初められるべくして存在している、「本物」だった。


 その二人と並んで革張りのソファに座らされたとき、私は鏡を見ずとも理解した。自分の、残酷なまでの凡庸さを。


 一五三センチの、これといって特徴のない容姿。

 自分では少しは可愛い方だと信じていた、その薄いメッキが、彼女たちの内側から発光する資質の前で、音もなく剥がれ落ちていくのを感じた。


 小鈴さんと夏凛さんは、新参者の私に敵意を向けることさえしなかった。


 視線さえ合わない。

 それは、私が最初から「競う価値のある対象」として認識されていないという、無関心の暴力だった。


 静寂の中、書類を手にした結衣さまが、音もなく私たちの前に立つ。

 漆黒のシルクドレスがわずかに揺れ、ボーンチャイナのカップが口元へ運ばれる。カチリ、とソーサーに置かれる乾いた音が、私の心臓を冷たく叩いた。


「さて。……選定期間の最終確認を行います」


 事務的な手つきでタブレットを操作し、感情の揺らぎを一切含まない声で告げる。


「桜庭さん、千葉さん。貴女方は、予定通りブラックリリーの最優先確保対象プライオリティ・ワンです。陽華さま、あるいは他の幹部との最終面談を控えておいてください」


 二人は淑やかに、しかし確固たる自信を宿した声で返事をした。

 その声色には、自分が選ばれる側であるという揺るぎない前提がある。


 直後、結衣さまの視線が、標本を観察するかのような冷徹さで、ようやく私に向けられた。


 そこに親愛はない。

 敬意もない。


 あるのは、管理者の眼差しだけ。


「小井縫さん。貴女についても、ブラックリリーは引き続き、その『身分』を保証します」


 一瞬、胸が緩む。

 息がこぼれそうになる。


 だが、その甘さを断ち切るように、結衣さまは冷ややかに続けた。


「ただし、勘違いしないでください。貴女をここに呼んだのは、他派閥……特にブルーローズの目を欺くための『にえ』として活用するためです」


 ――贄。


 その単語が、私の淡い期待を無残に踏みにじった。

 喉の奥が、瞬時に干上がる。


「月華さまが貴女を執拗に手元に置きたがる現状を、私たちは利用することにしました。ブルーローズ側が、月華さまの『弱点』が貴女にあると誤認してくれれば、本命である桜庭さんたちへの干渉を逸らすことができます」


 私は、自分が目眩ましのための消耗品に過ぎないことを、はっきりと突きつけられた。結衣さまは、私の蒼白な顔色など意に介さない。


「貴女の優先順位は、組織内では最下位ボトムです。もし万が一、他派閥が貴女を奪いに来るような事態になっても、私たちは貴女を確保するリソースを割くことはありません」


 一歩、近づく。

 視線が上から降りてくる。


「その時は、貴女自身の手で、月華さまが暴発しないよう上手くなだめてください。猛獣の爪を鈍らせるための『柔らかい土』……それが、貴女に求める最低限の機能です」


 鎖。

 玩具。


 それが、私の価値。


 月華さまが私に注ぐ、あの歪んだ執着でさえ、結衣さまにとっては「管理すべき獣の習性」に過ぎない。私はその習性を受け止め、吸収し、組織の均衡を保つための緩衝材として配置されているだけ。


「以上です。……解散なさい」


 興味を失ったように視線が書類へ戻る。


 小鈴さんと夏凛さんは、洗練された所作で一礼し、静かに退室していく。

 残された私は、分厚い絨毯を踏んでいる感覚さえ失い、奇妙な浮遊感に包まれながらサロンを後にした。


 豪華な調度品が並ぶ廊下は、墓所のように静まり返っている。歩を進めるたび、ウールのスカートが擦れる微かな音が、やけに大きく耳に響く。


 昨夜、百乃さんに指摘された通りだった。


 私には、この煌びやかな場所に立つための正当な資質も、権利も、最初から何一つなかった。たまたま秘密を知ったことで、猛獣の檻の中に放り込まれ、主をなだめるための「生きた精神安定剤」として利用されているだけ。


(私は、月華さまの何なの……? パートナーなんて、そんな対等なものじゃない)


 銀色に輝く、冷たい瞳を思い出す。


 あの巨躯が私を抱き寄せ、覆い隠すとき、確かに熱はあった。

 胸を焦がすような温度が、そこにはあった。


 けれど今、その熱さえも、組織の論理という冷水によって「管理コスト」という言葉に置き換えられてしまったように感じられる。


 届かない声。


 私がどれほど「私自身を見てほしい」と願っても、この学園という巨大なシステムの中では、私はリストの末端に記された代替可能な記号でしかない。


 渡り廊下で足を止める。

 西日に血のように赤く染まる校舎を見上げると、窓ガラスが炎のように光り、その中に映る自分の影が、ひどく小さく歪んでいた。


 昨日までの私は、自分が特別であると信じ込もうとしていた。

 だが今日、その幻想は粉々に砕け散った。


 私は、月華さまの側にいなければならない。


 けれど、そこにいる私に、人間としての価値はない。


 矛盾した二つの事実が、内側から私を引き裂いていく。

 私は自分が何者であるべきかを見失ったまま、亡霊のようにふらつく足取りで、暗い廊下の闇へと消えていった。

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