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『姿隠しの姫君』〜お嬢様学校の聖域で、孤独な「最強お姉さま」に執着される【百合】物語〜  作者: 猫野 にくきゅう
第一章

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第18話 鏡合わせの二人、月下の面会

 図書室での「宣戦布告」から、すでに数日が過ぎていた。


 あの静まり返った書架のあいだで交わされた百乃さんの視線と声音は、いまも私の胸奥に微熱のように残っている。


 あの時の彼女の執念は、単なる挑発ではなかった。

 自らの努力を証明するための、切実な覚悟そのものだった。


 百乃さんと同じ普通の生徒である私が、月華さまに目をかけられているのは――

 その秘密を「偶然」知ってしまったからだ。


 それに対して彼女は、努力だけで戦っている。


 後ろめたさがないとは言えない。

 日増しに大きくなっていった。


(あれから毎日、付きまとうんだもの……)


 根負けしたともいえる。


 私はその熱に背を押されるようにして、事務局を通じ、有栖川月華さまへの拝謁を願い出た。

 

 * * *


 フローラリア――それもブラックリリーの重要人物に会うという行為は、一般の生徒にとって神域を侵すに等しい。


 許可を求める書簡は一通では足りず、数度にわたるやり取りの末、ようやく形ばかりの審査が始まる。


 連絡先を渡されている私は、自身に与えられた「特権」を行使し、通常よりも簡素な手続きで面会することを許される。


 そして、放課後の三十分。

 私はその時間を与えられた。


 これこそが、百乃さんがどれほど努力を積み重ねようとも、決して辿り着けない「壁」の証明でもある。その事実を思うたび、胸の奥に甘やかな優越と、鈍い痛みが同時に滲んだ。


 夕闇に沈む特別棟の最上階。

 私たちは空中庭園へと足を踏み入れる。


 夜にしか開かない花々が、月光を浴びて白く浮かび上がり、肺を内側から圧迫するような濃密な甘い香りを漂わせていた。湿った石畳には昼間の熱がわずかに残り、風は冷たく、それでいて花の吐息だけが熱を帯びている。


「やっと私の真価を見せる時が来たわ」


 百乃さんはそう言って、期待に胸を膨らませ、自慢のツインテールを軽やかに揺らした。背筋は伸び、歩幅は均等、視線は真っ直ぐ。完璧な所作。彼女の積み重ねてきた努力が、ひとつの形としてそこにあった。


 だが、庭園中央に設えられた椅子を認めた瞬間、彼女の足が止まる。


「……ちょっと、南藻さん。誰も、いらっしゃらないけれど?」


 困惑に揺れる声。

 彼女の瞳には、ただの空虚な椅子しか映っていない。


 だが、私にはわかっていた。

 一九三センチという圧倒的な質量が、そこにあるはずなのに、誰の意識にも認識されない「姿隠しの姫君」の呪い。


 その不在は、在るという確信を伴って私の前に横たわっている。


 私は無言で一歩前に出た。

 月光に照らされた石畳を踏みしめ、その「虚空」へ向けて指先を伸ばす。


 触れた。

 ひんやりとしたシルクの質感。

 そして、死者のように冷たい肌。


 その瞬間。


「――っ!?」


 百乃さんが短い悲鳴を上げ、後ずさる。


 闇を押し退けるようにして、そこに「存在」が現れた。


 銀色の月光を吸い込む黒髪。

 シルク混紡のロングワンピースの滑らかな陰影。


 椅子に腰掛けているはずなのに、私たちと同じ高さにある視線。

 一九三センチの巨躯が、世界の輪郭を塗り替える。


 空気が、変わった。


「月華さま。……アポイントメントの通り、普通科の一年生――桃瀬百乃さんをお連れしました」


「……そう」


 氷を噛み砕くような、短い声。


 その瞳は百乃さんを捉えているようで、その実、彼女の背後の闇を透かし見ているようだった。視線に重みがあるのに、焦点はどこにも定まらない。その不安定さが、かえって圧倒的だった。


 百乃さんは震える膝を抑え込み、完璧な角度で一礼する。

 そこから始まった自己PRは、淀みなく整然としていた。


 毎朝の表情訓練。徹底した食事管理。古典文学への深い教養。発声法の矯正。歩行のリズム。彼女は、自分が月華さまの隣に立つ「機能」としていかに完成されているかを、論理と実績で証明していく。


 それは、かつての私が理想とした完成形だった。


 けれど、月華さまはその饒舌な言葉を、ただの雑音として聞き流している。

 月光の下で、百乃さんの努力は確かに輝いているのに、彼女の声は庭園の空虚な隅へと霧散していく。


 重みがない。


 月華さまを世界に繋ぎ止めるだけの「重み」が、そこには存在しない。


「……終わったかしら」


 静かな宣告。


 月華さまが立ち上がる。

 一九三センチの壁がそそり立ち、庭園の月光を遮る。


 百乃さんと私の二人が、巨大な影の内側へ完全に呑み込まれた。四十センチの身長差を見上げる私の首筋に、心地よい痛みを伴う緊張が走る。


「努力の形跡は認めます。貴女の費やした時間は、貴女自身の価値を……機能として高めているのでしょう」


 一歩、また一歩。


 シルクの衣擦れが、捕食者の足音のように響く。


「けれど。私が求めているのは、代わりが利く『完成品』ではないのよ」


 冷たく大きな手が、私の肩を抱き寄せる。


 音が、消えた。


 私は彼女の漆黒のドレスに顔を埋める形になる。鼻先が豊満な胸元の、シルクの滑らかな起伏に押し付けられ、甘く深い香りが肺を満たした。


「南藻。貴女は、黙って私の側にいればいい。貴女が私に触れている間だけ、私は私として存在できるのだから……それ以外の余計なことは、何も考えなくていいのよ」


 それは、百乃さんという「正しい努力」への、あまりに理不尽で、あまりに耽美な拒絶だった。


 私が彼女の側にいる理由は明確だ。私が彼女の「秘密」を知り、彼女を「認識」し、この世に繋ぎ止める唯一の依代だから。触れること。見ること。信じること。その行為そのものが、彼女の存在証明となる。


 百乃さんには、この泥濘のような共犯の重みは耐えられない。


「……分かりました。南藻さんのどこがそんなに良いのか――私には理解はできませんけれど、今日のところは、引き下がりますわ」


 月華さまの「眼」にさえ映ることが叶わなかった百乃さんは、唇を噛み締め、静かに踵を返す。去り際、彼女は私だけに見える角度で足を止めた。


「いいのよ、今は。……でも、南藻さん。貴女、いつかその身分不相応な結びつきが、貴女自身を壊すことを覚悟しておきなさいね」


 毒液のような囁き。

 その言葉は、私の心の最も柔らかい場所へ、鋭利な刃となって突き刺さった。


 もし、私が秘密を握っていなかったら。

 もし、この指先が彼女を「受肉」させる鍵でなかったら。


 答えは、火を見るよりも明らかだ。


 百乃さんが去った後、夜の庭園には私を抱きすくめる月華さまと、私の二人だけが残された。巨大な腕が細い背中を壊さんばかりに圧迫する。その力強さに、安堵と恐怖が同時に芽生える。


「……何を不安がっているの、駄犬。貴女は、私が選んだということだけを、その骨の髄まで信じていればいい」


 甘美で、どこまでも優しい声。


 けれど今の私には、その支配の言葉さえ、自分を繋ぎ止める鎖のきしむ音にしか聞こえなかった。


 私は彼女の胸に顔を埋め、シルクの香りに溺れる。外側では静謐な月光が庭園を照らし、内側では激しい嵐が吹き荒れている。


 月の光に照らされた、鏡合わせのような二人。


 正しい光で隣を求める百乃さん。

 昏い闇で繋がれた私。


 その境界線に立ちながら、私の自尊心は軋みを上げる。誇りと依存、選ばれた歓喜と選ばれた理由への恐怖が、胸の奥で複雑に絡み合う。


 砕けるのは、どちらなのか。

 それとも――すでに、砕けているのは私のほうなのか。


 月下の庭園で、私は彼女の鼓動に耳を澄ましながら、その答えを飲み込むしかなかった。

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