第17話 あざとい少女、桃瀬百乃の襲来
昨夜、旧校舎の闇の中で分かち合った熱——
それは単なる体温の交換ではなく、互いの孤独を溶かし合わせるような、濃密で逃れがたい契約にも似たものだった。
そして、シングルベッドの窮屈な抱擁の余韻は、朝を迎えた今なお、私の肌の裏側に甘やかな重みとして沈殿している。
目覚めた瞬間、鼻腔をくすぐったのは柚月さんのシーツに残るミルク石鹸の淡い残り香だった。その匂いは、夢の名残のように柔らかく、しかし確かな現実として私の内側に触れてくる。
私は、この美しくも残酷な学園という檻の中で、ただ一人、指先を絡めて体温を分け合える「所有物」を手に入れたのだ——。
静かで、けれど疑いようのない優越が、胸の奥に淡く灯る。
それは罪悪感にも似て、同時に甘美だった。
* * *
放課後。
一日の学問を終えた私は、重い革の鞄を手に、学園の中心部に位置する共用図書館へと足を向けていた。
広大な敷地を横切ると、木々の合間から石造りの建築物が姿を現す。
陽光を浴びたその威容は静謐で、まるで沈黙そのものが形を成したかのようだ。大ぶりな硝子窓は西日を鋭く反射し、知と調和の象徴として設計されたその建物は、学園の理知を監視する巨大な瞳のようにも見える。
石畳を踏むたび、靴底から微かな振動が伝わる。
空気は昼の熱をわずかに残しつつ、すでに夜へと移ろう冷たさを孕んでいた。
そのとき、視界の端に「桃色」の影が映った。
数人の上級生に囲まれ、完璧な角度で首を傾げながら、鈴を転がすような声で談笑している少女。
一年生、桃瀬百乃。
学園内で行われた「妹コンテスト」——ルミナス・プリンセスで三位に食い込んだ猛者だ。
名家の子女でもなければ、圧倒的な美貌を持つわけでもない。それでも彼女は、投票権を持つ上級生一人ひとりに積極的に話しかけ、自分の名前を売り込んだ。
ただ、何もしないで「選んでもらえる」と信じていた私に、欠けていた――
政治家のように泥臭いまでの営業努力を重ね、その座を掴み取った策士である。
今も、上級生のブレザーの袖を拒絶されない絶妙な加減で指先で摘まみ、長い睫毛を揺らしながら憧憬の眼差しを向けている。
その仕草の一つひとつは計算され尽くしており、笑顔の裏では筋肉の動きさえ寸分違わず制御されていることが、遠目にも伝わってくる。
——努力家。
だが同時に、狩人。
私は冷ややかに、その様子を見つめていた。
* * *
彼女は上級生たちを見送ると、吸い寄せられるように私の後を追い、図書館の重厚なアーチを潜った。
一歩足を踏み入れれば、そこは外界の喧騒を吸い込む冷ややかな静寂の空間である。高い天井は声を拒み、足音さえも厳かに響かせる。
一階には「フローラリア」専用カフェが併設されており、芳醇な珈琲の香りが静けさの中にほのかな温度を与えていた。
重い本の匂い。
磨かれた床の冷気。
ページをめくる微かな擦過音。
百乃さんは図書室のルールを乱さぬよう、音もなく私の隣へと歩み寄る。
傍目には、仲睦まじい友人同士が内緒話をしているように見えるだろう。
だが——。
彼女が私の耳元に寄せた吐息は、氷のように冷たかった。
「……見つけたわ。貴女が、小井縫南藻ね?」
至近距離で見る彼女の顔は、一分の隙もなく作り込まれている。
瞳の粘膜は執拗に潤ませ、唇は微かな湿り気を帯びて可憐な形に固定されていた。その完成度の高さが、かえって生々しい。
「誤魔化さなくていいわ。……貴女が、有栖川月華さまや、白鳥聖羅さまに特別に目をかけられていることは、もう調査済みよ。……特別に、私のファンクラブ『モモの園』の一桁会員証をあげてもいいわ。取引をしましょう?」
優雅な微笑みを貼り付けたまま、喉の奥で鋭い言葉を紡ぐ。
その声音は甘いのに、内容は刃物だ。
私は瞬きもせず、彼女を見返した。
「単刀直入に言うわ。……私、貴女には負けない自信があるの――私の『可愛さ』に対する情熱は、貴女のような幸運に甘えた天然とは次元が違うのよ。私は寝る前のパックも、毎朝の鏡の前での表情練習も一日たりとも欠かさない。すべては、この学園の頂点に立つ『フローラリア』に認められるため……」
彼女の指先が、私のブレザーの袖に触れる。
それは柚月さんのような依存の震えではない。獲物を品定めするような、冷徹で乾いた感触だった。
「だから……私に相応しい上級生を紹介しなさい。特に、ブラックリリーやブルーローズの上位の方。私にその機会を与えてくれれば、貴女なんかすぐに追い越せる。――特権を独占するなんて卑怯な真似……しないわよね?」
その目には焦燥と渇望が宿っている。
可愛さという武器を研ぎ澄ませば、どんな扉も開くと信じて疑わない瞳。
私は、寒気にも似た同情を覚えた。
彼女は、自ら進んで猛獣の檻に飛び込み、玩具として消費される未来を夢見ている。月華さまという深淵を、単なる「攻略対象」だと思っているのだ。
「……桃瀬さん。あの方々は、貴女が想像しているような、単純な『素敵なお姉さま』ではないわ」
声のトーンを落として告げると、百乃さんは一瞬だけ眉を寄せた。
しかしその揺らぎは瞬時に消え、再び完璧な微笑みが貼り付く。
「ふーん、断るんだ――いいわよ、今日はこれくらいにしてあげる。でも覚えておきなさい。……フローラリアの隣に相応しいのは、貴女ではなく、私よ」
規律を乱さぬ淑やかな足取りで、けれど確かな野心をスカートの揺れに滲ませながら、彼女は去っていった。
残されたのは、静寂。
私は図書室のひんやりとした空気を肺の奥まで吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
百乃さんのような存在が現れたことで、否応なく再認識させられる。
私が立っているのは、誰かが喉から手が出るほど欲しがる「特権」の舞台であり、同時に一歩踏み外せば深淵に呑み込まれる薄氷の上の聖域だということを。
優越も、独占も、すべては危うい均衡の上に成り立っている。
重い本の匂いに包まれながら、私は机に手を置いた。
冷たい木の感触が、掌の熱を吸い取っていく。
——この舞台は、奪い合いだ。
甘いだけでは、生き残れない。
胸の奥に芽生えた昏い予感を押し殺すように、私はもう一度、深く息を吐いた。




