第16話 旧校舎の怪談、震える夜の逃避行
放課後の寮、ロビーの一角。
磨き上げられた床に西日が長く射し込み、ソファの縁にかかったレースの影が、ゆるやかに揺れていた。
その静かな空間で、私は陸上部の佐々木怜奈さんと、茶道部の石田千里さんを前に、ある「遊戯」を提案した。
先日、柚月さんと交わした「お休みのキス」以来、私たちの距離は急速に縮まっている。唇が触れ合ったあの一瞬の熱は、言葉よりも雄弁に、互いの境界を溶かしてしまった。
けれど、張り詰めた学園生活の糸をただ緩めるだけでは足りない。
緊張を共有し、恐怖を分け合い、同じ秘密を抱える――そうした「共犯者としての結束」こそが、私たちをより深く結びつけると、私は半ば確信していた。
「旧校舎……。あそこ、夜になると『出る』って有名だよ。いいじゃん、面白そう!」
怜奈さんが不敵に唇の端を吊り上げる。
短く切り揃えた前髪の奥で、挑戦的な瞳がきらりと光った。その声音には、恐怖よりも好奇心が勝っている。
「わ、私は……その、お役に立てるかどうか」
一方で、千里さんは湯呑みを持つ手をわずかに震わせ、小動物のように肩をすくめている。白い指先がかすかに赤くなり、視線は落ち着きなく床をさまよっていた。
それでも、皆と一緒なら、と涙目で承諾してくれたとき、彼女の中にもまた、恐怖と同量の期待が芽生えているのを感じ取った。
学園の最果てに位置する旧校舎は、最新鋭の空調管理がなされた現校舎とは対照的な、蔦に覆われた木造建築だ。壁板はところどころ色褪せ、窓枠の塗装は剥がれ、長い年月がその身を侵食している。
密かに人気のレクリエーションスポット。
事前に見学の申請を済ませ、探索へと赴く。
夕闇が藍色から漆黒へと変わる頃、私たちは懐中電灯を手に、軋む玄関の扉を押し開けた。
* * *
一歩足を踏み入れた瞬間、外界の気配がふつりと断ち切られる。
そこに横たわっていたのは、現校舎では決して味わえない「死んだ静寂」だった。
空気は澱み、古いワックスの酸化した臭いと湿った埃の匂いが混じり合い、粘膜にねっとりと張り付く。窓硝子から差し込む月光が舞い踊る埃を照らし、長い廊下に死人の指のような影を落としていた。
私たちは四人一組の隊列を組んだ。
先頭は、「私がみんなを守ってあげる」と意気込む怜奈さん。
その後ろに、恐怖で足をもつれさせている千里さん。
私は三番目に立ち、殿を柚月さんが務めるはずだった。
――その隊列は、即座に崩壊した。
「……南藻さん。離れないで、ください……。本当に、闇の底から何かが……」
柚月さんは私のウール混紡の制服の袖を、指先が白くなるほどの力で握りしめ、背中にぴたりと身を寄せた。
一五八センチの彼女は、一五三センチの私より背が高いはずだ。それなのに、今の彼女は恐怖に身を縮め、私よりも遥かに小さく、儚い存在に感じられる。
背中越しに伝わる体温。
速すぎる心臓の鼓動。
吐息が私のうなじをかすめるたび、私は怪談への恐怖とは別の理由で、喉の奥が熱く疼くのを自覚した。それは甘やかな動揺であり、同時に、彼女を守る者として立つことへの奇妙な昂揚でもあった。
ミシミシと悲鳴を上げる床板。
隙間風でガタガタと鳴る窓枠。
些細な物音のたびに千里さんは短い悲鳴を上げ、怜奈さんは「――ッ!? 誰かいるの?」と闇を切り裂くように光を走らせる。そのたびに柚月さんは私の腕に自分の腕を絡め、もはや抱擁に近い形でしがみついてくる。
彼女の柔らかな胸の感触が、私の二の腕に押し付けられる。
私は息を整え、平静を装った。
「大丈夫よ、柚月さん。……ただの風の音だから」
冷たく震える彼女の手を、自分の掌で包み込む。
月華さまや聖羅さまの前では決して許されない、「守る者」としての立ち位置。私の腕の中で震える彼女を独占しているという背徳的な悦びが、じわりと胸の奥に広がり、恐怖をゆっくりと凌駕していく。
その感情の正体を、私はまだ言葉にできない。
ただ、確かに甘美だった。
探索の目的地である二階の音楽室に差し掛かった時、不意に無人の室内からピアノの旋律が流れ出した。
調律の狂った、不協和音混じりのショパン。
それは静まり返った夜の校舎に、神経を逆撫でするように響き渡る。
「ひっ、で、出たぁぁっ!」
怜奈さんが叫び、千里さんはその場に崩れ落ちた。
柚月さんはあまりの恐怖に私の首筋に顔を埋め、全身を痙攣させるように震わせている。
彼女の熱い呼吸が直接肌に触れ、私は思考が白く飛びそうになるのを必死で堪えた。恐怖と昂揚が混ざり合い、意識の輪郭が曖昧になる。
ギギィ、と重い扉が開く。
闇の中から人影が現れた。
「あら。……誰かと思えば、一年生の可愛らしい子羊たちじゃない。こんな時間に何をしているのかしら?」
懐中電灯の逆光の中に浮かび上がったのは、音楽科の教師だった。眼鏡のレンズが光を反射し、冷ややかな輝きを放つ。
「少し、演出が過ぎたかしら? 見学の申請があったから、肝試しを盛り上げようと思って……つい、悪戯心が騒いでしまったのよ」
怪談の正体は、教師による過剰な、しかし茶目っ気を含んだ悪戯だった。
安堵の空気が、重く澱んだ廊下をゆっくりと満たしていく。怜奈さんは「先生ぇ、勘弁してくださいよー!」と膝に手をつき、千里さんも目尻に涙を浮かべて深く息を吐いた。張り詰めていた緊張が、ようやくほどけたのだ。
しかし、一人だけ様子の違う者がいた。
柚月さんだ。
正体が判明してもなお、一度限界まで引き絞られた彼女の緊張の糸は切れず、私の腕を強く掴んだまま、顔を上げようとしない。
肩は小刻みに震え、指先の力は緩まない。その震えは、単なる恐怖の残滓ではなく、心の奥底に触れられた余韻のようにも感じられた。
私は彼女の背中を、子供をあやすようにゆっくりと撫で続ける。温もりを確かめるように、何度も。やがて彼女の呼吸が少しずつ整い始めたのを感じ取り、そのまま彼女を抱えるようにして寮へと戻った。
夜風は思いのほか冷たく、火照った頬を静かに冷やしていく。それでも、腕の中にある確かな重みと体温だけは、いつまでも消えなかった。
* * *
寮の自室に戻り、パジャマに着替えた後も、柚月さんの怯えは続いていた。
消灯時間が訪れ、主照明が落ちる。
青白い月光だけが部屋を満たしたその時、彼女は自身のベッドから起き上がり、枕を胸に抱いて私のベッドの横に立った。
「南藻さん……。今日は、一人のベッドが広すぎて……怖くて。……その、ご一緒しても、よろしいですか?」
逆光に透けるパジャマ姿の彼女。
その瞳は潤み、唇は何かを堪えるように微かに震えている。
断る理由など、どこにもなかった。
私は無言で布団をめくり、彼女を招き入れるための僅かなスペースを作った。
寮のベッドは、規律正しいシングルサイズだ。成長期の少女二人が身を横たえるには、あまりに狭く、密接すぎる。
柚月さんがシーツの中に滑り込むと、私たちの身体は必然的に、溶け合うように密着することになった。
「……っ」
彼女の肩が私の胸元に押し当たり、コットンのパジャマ越しに、滑らかな脚と脚が絡まり合う。
布団という閉鎖空間の中で、彼女から漂う清潔なミルク石鹸の香りと、上気した体温が濃厚に充満し、私の肺を満たしていく。
「南藻さん、ありがとうございます。……こうしていると、やっと、息ができます」
柚月さんは私の腕の中に収まるようにして額を押し付け、私のパジャマの胸元をぎゅっと掴んだ。トク、トク、と速いリズムを刻む彼女の心臓の音が、私の肋骨を通して直接響いてくる。
正直に言えば、物理的には息苦しいほどだった。
寝返りを打つ隙間もなく、彼女の体重が片腕に乗り、痺れを感じ始めている。
けれど、私の精神は、それ以上の甘やかな充足感で満たされていた。
この学園の冷徹な支配構造の中で、誰かにこれほどまで無防備に身体を預けられ、その熱を独り占めにする。
それは「月華さまのパートナー」という役割を超えた、私たちだけの真実の絆であり、共犯の証だった。
私は痺れる腕で柚月さんの頭を引き寄せ、髪を優しく撫でた。
やがて、彼女の震えが止まり、寝息が規則正しくなり始める。
「……おやすみなさい、柚月さん」
狭いベッドの中、私たちは一つの生き物のように絡まり合い、深い眠りの淵へと落ちていった。
旧校舎の冷たい闇の記憶は、いつしか私たちの皮膚と皮膚の境界を融かすための、熱く甘い触媒へと変わっていた。




