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『姿隠しの姫君』〜お嬢様学校の聖域で、孤独な「最強お姉さま」に執着される【百合】物語〜  作者: 猫野 にくきゅう
第一章

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第12話 聖母の訪問、侵食される安息の地

 白鳥聖羅さまとの間に生じた、あの裂けるような緊張感を背負い、私はほとんど逃げるようにして寮へと戻った。


 胸の奥に刺さったままの視線の重みが、廊下の静寂よりもなお濃く、息をするたびに内側から私を軋ませる。


 自室のベッドに倒れ込み、思考を断ち切ってしまいたい衝動が喉元まで込み上げる。けれど、それをかろうじて理性が押しとどめた。


 ここで崩れてしまえば、あの場で耐えた意味が失われてしまう――そんな意地にも似た思いが、私の足を辛うじて前へと進ませていた。


 脳裏には、太ももをなぞった扇子の冷徹な感触が、まるで氷の刃のように何度も何度も蘇る。その軌跡を断ち切った月華さまの、鼓膜を震わせる低い声音もまた、波紋のように広がり続け、消えることなく私の内側を満たしていた。


 拒絶と救済。

 屈辱と安堵。

 その相反する感情が混ざり合い、澱のように沈殿していく。


 この部屋は、東雲柚月さんと私だけの、学園の序列から隔離された唯一の安息の地――サンクチュアリであるはずだった。扉を閉めれば、そこには序列も、視線も、評価もない。ただ穏やかな時間と、等身大の私が許される空間がある。


 そう、信じていた。


「おかえりなさい、南藻さん。……今日は少し、お疲れのようですわね」


 陽だまりのような穏やかな微笑みで迎えてくれた柚月さんの声が、張り詰めていた心の糸をそっと緩める。その柔らかな声音に触れた瞬間、私は自分がどれほど強く息を詰めていたのかを思い知らされた。


 だが、彼女の憧れの人である聖羅さまに呼び出されたことを、伏せ通すことはできなかった。言葉を飲み込もうとするたび、喉の奥が焼けつくように痛む。私は震える声で、事の次第を打ち明けた。


 理不尽な要求。

 あの冷たい扇子の軌跡。

 そして月華さまによる「回収」。


 話し終えた後、私は柚月さんの瞳を見ることができなかった。視線を合わせた瞬間、何かが壊れてしまうのではないかという予感が、指先を凍えさせる。


 彼女にとっての「理想の姉」を貶めるような告白だったのではないか。

 聖羅さまの姿を、ほんの少しでも歪めてしまったのではないか。


 もしそれが彼女の信仰を傷つけたなら、私たちの間に修復不能な亀裂が走るのではないか――そんな想像が、際限なく膨らんでいく。


 しかし。


 彼女が漏らしたのは、糾弾の言葉ではなかった。


「まあ……聖羅さまが、直接南藻さんを? それは驚きましたわ。でも、南藻さんがそれほど高貴な方々に目をかけられて、私は……自分のことのように嬉しいです」


 その瞳には、嫉妬の濁りは微塵もなかった。


 私が「選ばれた」ことを、まるで祝福の花束のように抱きしめる、あまりに無垢で――それゆえに、どこか狂気すら感じさせるほど純粋な悦びだけが宿っている。


 彼女のその光に、私は一瞬、眩暈を覚えた。


 私が感じた恐怖も、屈辱も、迷いも、彼女の中ではすべて「栄誉」に変換されている。その事実に安堵しながら、同時に、説明のつかない不安が胸の奥に芽生える。


 その夜、私たちはいつもより長く語り合った。


 互いの指先が触れ合う距離で、同じ毛布の温もりを分け合いながら、取り留めのない言葉を重ねていく。呼吸が重なり、鼓動がゆるやかに揃っていくにつれ、私の中に渦巻いていた緊張は、少しずつほどけていった。


 深い眠りに落ちる直前、私は確かに思った。

 この場所だけは、守られているのだと。


 だが、その確信はあまりに脆かった。


 * * *


 異変は、翌日の放課後に訪れた。

 授業を終え、柚月さんと連れ立って三階の自室へと向かっていた時のことだ。


 窓から差し込む夕暮れの光が廊下を斜めに切り取り、長く伸びた影が私たちの足元を追いかける。日常の延長線上にあるはずの帰路は、どこまでも穏やかで、何の予兆も感じさせなかった。


 階段を上り切り、見慣れた廊下へと踏み出した瞬間――

 鼻先をかすめた異質な香気に、私は足を止めた。


 本来ならば、石鹸の残り香や、淹れたての紅茶の甘やかな湯気が漂っているはずの場所。そこに、傲慢なまでに咲き誇る「青い薔薇」の香水が、生温い死臭のように充満していた。


 それは昨日、至近距離で嗅いだばかりの匂い。


 忘れようとしても忘れられない、あの支配の証。


「南藻さん……私たちの部屋から、何か……」


 柚月さんも異変を察し、喉の奥をかすかに鳴らして顔を強張らせる。私たちは言葉を交わさず、しかし同じ恐れを抱いたまま、ゆっくりとドアの前に立った。


 施錠されているはずのドアノブに手をかける。

 冷たい金属の感触が掌に伝わる。


 抵抗は、なかった。

 ドアは、持ち主を嘲笑うかのように、音もなく内側へと開かれた。


「あら、おかえりなさい。待ちくたびれてしまいましたわ」


 窓際の椅子――私が大切にしていた特等席に、まるで己の玉座であるかのように腰掛けている女性がいた。


 白鳥聖羅さま。


 夕陽を背に受けたその姿は、輪郭さえ眩しく、影と光の境界で静かに微笑んでいる。手にした扇子をパチンと閉じる無機質な音が、部屋の空気を二つに裂いた。


 驚愕で硬直する私たちへ向けられたのは、慈愛という名をまとった捕食者の笑みだった。


「ど、どうして聖羅さまがここに……。鍵は、かかっていたはずです」


 掠れた声が、自分のものとは思えないほど遠くに響く。問いかけるというより、現実を否定するための呟きに近かった。


 聖羅さまは小首を傾げ、長い睫毛をゆっくりと伏せる。その仕草一つが、あまりに優雅で、あまりに計算されている。


「フローラリアには、緊急時に一般生徒の居室を確認する権限が与えられていますの。わたくしは貴女の体調が心配で、様子を見に来ただけ。……不法侵入だなんて、人聞きの悪いことはおっしゃらないでね?」


 それは、優雅な言葉で包装された、暴力的な特権の行使だった。


 私たちのプライベートな空間は、彼女の「心配」という名目によって、無残に、そして容易く踏みにじられている。その事実が、遅れて胸を締めつける。


 聖羅さまは立ち上がり、音もなく私たちとの距離を詰めてくる。


 一七三センチの聖羅さま。


 一五三センチの私。

 一五八センチの柚月さん。


 数字としてはわずかな差でしかないはずの身長が、今は圧倒的な高低差として立ちはだかる。彼女の長い影が、私たちの小さな身体を完全に呑み込み、部屋の光を奪い去った。


 サンクチュアリは、もはや存在しない。

 ここは、すでに彼女の領域だ。


「昨日、お話ししましたわね。服装検査はまだ終わっていません。それに……隣の彼女、東雲柚月さんと言ったかしら。貴女も、なかなか素敵な素材をしていますのね」


 聖羅さまの視線が、獲物を吟味するように私から柚月さんへと移った。  


 憧れの人を至近距離で仰ぎ、柚月さんは緊張と困惑で硬直している。彼女の耳たぶは熟れた果実のように赤らみ、呼吸は目に見えて浅くなっていた。


「さあ、二人とも。そこに並びなさい。昨日の中断された分と、今日のご挨拶代わりの『検査』を行いましょう」


 拒否権など、初めから存在しない。

 私たちは命じられるまま、部屋の中央で横に並ばされた。  


 聖羅さまはまず、私の襟元に白い指先をかけた。


「小井縫さんは相変わらず、庇護欲をそそる格好をしていますわね。……でも、リボンが少し緩んでいますわ」


 指先が私の喉元を掠め、昨日感じた恐怖が背筋を駆け上がる。  


 しかし、私は気づいてしまった。

 隣で同じように震えている柚月さんの、衣擦れの音。荒い吐息の熱。  


 聖羅さまの手が、私のリボンを直すふりをしながら、そのままウエストのラインを執拗になぞり、そして――隣の柚月さんの肩へと伸びた。


「東雲さん。貴女はとても真面目な着こなしをしているけれど……その内側は、どうなっているのかしら?」


 柚月さんの肩が、大きく跳ねた。  


 彼女の大きな瞳が潤み、視線は行き場を失って彷徨う。

 憧れの人に触れられる法悦と、親友の前で辱められる羞恥。彼女の複雑な心理が、小刻みに震える指先から伝わってくる。  


 聖羅さまは、私たちのスカートの丈を計るように、扇子の先で交互に布地を撫で上げた。  


 私は、自分一人だけが蹂躙されていた昨日よりも、親友と一緒にこの背徳の淵に立たされている現在に、より深い悦びを感じていることに愕然とした。


「……ふふ、二人とも。とても良い反応をしますのね。校則違反はありませんけれど、貴女たちの可愛らしさは学園の宝だわ」


 一通りの「検査」を終えた聖羅さまは、満足げに私の私物であるティーカップを置いた。  


 彼女が立ち去る準備を始めると、部屋を満たしていた薔薇の香気が、わずかに希薄になる。


「今日はこれで失礼するわ。月華さんの秘密を探るつもりでしたけれど……それ以上に、思わぬ収穫があったわ。東雲さん、貴女のその純粋な瞳、もう少し近くで見てみたくなりました」


 聖羅さまは柚月さんの顎を扇子の先で軽く持ち上げ、艶然と微笑んだ。  

 それは、彼女の興味の矛先が私という「犬」だけでなく、柚月という新しい「獲物」にまで及んだことを明確に示していた。


「また、お会いしましょうね」


 聖羅さまは優雅な所作で部屋を出て行った。

 残されたのは、私たち二人の荒い息遣いと、消えない薔薇の香気だけだった。


「……南藻さん。私、どうしたらいいのかしら……」


 柚月さんは力なく床に座り込み、自分の震える手を抱きしめていた。

 その表情には、恐怖だけでなく、得体の知れない熱が混ざっているように見えた。  私は彼女の隣に座り、その細い、今にも折れそうな肩を抱きしめた。    


 聖羅さまの侵入によって、私たちの唯一の安息は終わりを告げた。  


 親友を守らなければならないという義務感。

 それと同時に、聖羅さまが柚月さんに向けたあの嗜虐的な視線を思い出し、私の胸の奥では、正体不明のどす黒いざわめきが広がっていくのを、止めることができなかった。

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