第11話 聖母の微笑と、禁断の検査
放課後の沈黙が、長い廊下に薄く澱のように漂っていた。
授業を終えた生徒たちの気配はすでに遠く、磨き上げられた床に差し込む斜陽だけが、静かに伸びた影をいくつも重ねている。
その静寂のただなかで、私は担任の志保先生に呼び止められ、一輪の青い薔薇と、厚手のボタニカル紙に綴られたカードを、両手で恭しく手渡された。
指先に触れた紙はわずかに温もりを帯び、薔薇は冷たい。淡く青みを含んだ花弁は、触れれば崩れてしまいそうなほど繊細でありながら、その存在は不思議なまでに確固としていた。
美しいカリグラフィーで記されていたのは、学園三大派閥の一翼。
――『ブルーローズ(青薔薇会)』のサロンへの招待状。
送り主の名は、三年生、白鳥聖羅さま。
学園の「聖母」と称えられ、全生徒の羨望と慈愛を一身に浴びる、気高きお方。
(どのような御用で、私のような者を……)
胸の奥に生まれた微かなざわめきは、やがて思考の波となって広がっていく。
脳裏をよぎるのは、参謀・黒崎結衣さまの冷徹な警告。あの方の声は常に低く、澄んでいて、感情を削ぎ落とした刃のように正確だ。他派閥の動向は、私という存在を通して月華さまへと繋がっている――その事実は、今この瞬間も変わらない。
私一人の振る舞いが、誰かの立場を揺らし得る。
その自覚が、喉元にひやりとした空気を残した。
私は寮へ戻る前に、手洗いへ立ち寄った。白い陶磁の洗面台と、曇りひとつない鏡。水栓から落ちる雫の音が、やけに澄んで響く。
私は鏡の前に立ち、入念に己を点検した。
茶色のチェック柄をしたウール混紡のスカートの皺を、掌で丁寧に伸ばす。リボンの結び目を数ミリ単位で修正し、左右の長さを揃える。そのわずかな差異が印象を左右することを、私は経験で知っている。
湿り気を帯びて微かに跳ねる焦茶色の髪。指で梳き、流れを整える。鏡の中に映るのは、一五三センチの小柄な骨格と、過度に主張しない目鼻立ち。守られるべき弱者としての完成された造形。私はそれを、客観と計算をもって観察する。
そして、自覚的な満足を覚えた。
この無垢に見える外殻こそが、武器。
幼い野心が、胸の奥で静かに息をする。このかたち、この温度、この視線の置きどころ。それらが、フローラリアの高貴なお姉さまたちを惹きつける毒になることを、私はどこかで確信していたのだ。
甘やかしたくなる存在。
庇護したくなる存在。
そう思わせることは、決して偶然ではない。
北東の果て、フローラリア専用寮の敷地内に佇むサロンは、夕刻の薄紫の空を背に、静かにその輪郭を浮かび上がらせていた。石畳を踏むたびに、靴音が乾いた音を立てる。外気はひんやりとし、頬に触れる風はほのかに花の匂いを含んでいる。
重厚な扉に手をかけると、掌に伝わる冷たさが、私の鼓動を一瞬だけ強く打たせた。
扉を開く。
そこには、時間の流れが凍結されたかのような静謐が横たわっていた。
選び抜かれたアンティーク家具が整然と配置され、磨かれた木肌からは微かな木の香りが立ち上る。壁には名画が飾られ、柔らかな照明が額縁の金装飾を淡く照らしている。
音はない。
ただ、紅茶の湯気だけが、かすかに空気を揺らしていた。
その中心で、白鳥聖羅さまは静かに微笑んでいた。
「ようこそ、小井縫さん。……写真で拝見するよりずっと、可愛らしいわね」
その声は、耳に触れた瞬間から甘やかで、けれど芯に低い響きを宿している。
聖羅さまは、淡い茶髪を完璧な縦ロールにまとめ、慈愛に満ちたたれ目の奥に、逃れられぬ捕食者の光を湛えていた。その視線は柔らかい。だが、逸らすことを許さない強度を持っている。
彼女が立ち上がる。
一七三センチというしなやかな長身が、ゆるやかに近づき、一五三センチの私を柔らかな影で包み込む。距離が縮まるごとに、上質な香水の淡い香りが鼻先をかすめ、視界の端に縦ロールが揺れる。
私は自然と、呼吸を浅くした。
バイオリンの低音を思わせる心地よい声音で紅茶を勧められ、私は彼女の正面に腰を下ろす。椅子のクッションがわずかに沈み、カップの縁から立ちのぼる湯気が頬を撫でた。
「貴女のような愛らしい方を、ブラックリリーの無骨な影の中に置いておくなんて。少し勿体ないわね」
その言葉は穏やかで、否定も非難も含まない。
ただ、事実を述べるように静かだ。完璧な淑女の所作でカップを持ち上げながら、聖羅さまは私に問いを投げかける。その一挙手一投足に無駄はなく、優雅でありながら隙がない。
自分のような外部生が、この高潔な空間で「妹」として扱われること。
その可能性を示唆されただけで、指先が微かに震えるほどの高揚感が、胸の奥から込み上げてくる。
私はそれを必死に抑え込みながら、視線を伏せ、慎ましやかな微笑を浮かべた。
聖羅さまは、あまりに聖らかで、包容力に満ちている。
……会話が、ふっと途切れるまでは。
「ところで南藻さん。……本日は、どのような下着を召しているのかしら?」
一瞬、耳を疑った。
聖羅さまの微笑は、一切の崩れを見せていない。
しかし、その瞳には獲物を追い詰め――
その反応を愛でるような鋭い光が宿っていた。
「えっ……あの、聖羅さま……?」
「知っている? 普通科のスカート丈がこれほど短いのは、私たちフローラリアの目を楽しませるためなのよ」
彼女の指先が、卓上に置かれた扇子に触れる。
「意中のお姉さまの気を引こうと、装いに余念のない子もいるわ。けれど、規律を疎かにしていい理由にはならないの。……さあ、こちらへいらっしゃい。校則を遵守しているか、わたくしが直々に確認してあげましょう」
聖羅さまは閉じた扇子の先で、自身の膝元を静かに指し示した。
逆らうことのできない、甘やかな圧迫感。
フローラリアの命令は、平民の私にとって絶対的な福音であり――
断罪であった。
私は指示されるまま、彼女の膝元へと歩み寄る。
至近距離で見上げる聖母の横顔は、恐ろしいほどに美しく、慈悲深い。
聖羅さまは扇子の先端を、私の短いスカートの裾へと滑り込ませた。
太ももの柔らかな境界線をなぞる扇子の感触。
「検査を拒むということは、何かやましい不潔なことがあると見なします。さあ、御自分の手でめくってみせて。……それとも、わたくしの手伝いが必要かしら?」
屈辱が頬を赤く染め、呼吸が浅くなる。
しかし、絶大な権力者に蹂躙されることに、抗いがたい悦びが内側から溢れ出すのを止められなかった。
自ら背徳の淵へと踏み出そうとした、その時。
サロンの空気が、一瞬で凍りついた。
青薔薇の香りを強引に塗りつぶすような、重厚なチューベローズの香り。
「――この子の検品なら、私が行いますわ」
地を這うような低く冷徹な声音。
気づけば、私の背後に圧倒的な絶望――
いいえ、希望が立ちはだかっていた。
一九三センチという学園随一の巨躯を持つ双子の片割れ、有栖川月華さま。
いつの間にか現れた彼女は、私の肩を後ろから力強く、所有を主張するように鷲掴みにした。
聖羅さまは扇子を止め、ゆっくりと、二十センチもの高みにいる月華さまを仰ぎ見た。
「……あら、月華さん。挨拶もなしに私のサロンへ押し入るなんて、ブラックリリーの作法も随分と野蛮になったものね」
「作法を論じる前に、他人の飼い犬に手を出す無作法を省みるべきではありませんか、聖羅さま」
月華さまは私を引き寄せ、ご自身の長いワンピースの巨大な影の中に、完全に隠蔽した。
一九三センチの魔王と、一七三センチの聖母。
二人のフローラリアが火花を散らす中、私は月華さまの体温と、彼女の影がもたらす強烈な安心感に身を委ねていた。
「……随分とご執心なのね。ますます、この子に興味が湧いたわ」
聖羅さまは再び穏やかな微笑みを浮かべたが、その視線は私の首元を射抜くように冷たい。月華さまはそれに応えることなく、私を連れて無言でサロンを退出した。
帰り道。
夕日が差し込む廊下を、月華さまは大きな歩幅で進んでいく。
私は彼女のシルク混紡の袖を必死に掴み、早足で追いかけながら、震える声で口を開いた。
「……あの、月華さま。……もっと早く助けて下さると思っていました。ひょっとして、私の醜態を、見物なさっていたんですか?」
月華さまは突如として立ち止まった。
振り返る彼女の銀色に輝く瞳には、苛立ちと、それを上回るほどの昏い独占欲が渦巻いている。
彼女は私の顎を強く持ち上げ、上から冷たく見下ろした。
「私に手間をかけさせておいて、生意気な口を利くのね。……誰にでもしっぽを振って、無防備についていくような駄犬には、もっと厳しい躾が必要かしら?」
「ご、ごめんなさい……っ」
私は顎を引き、肩をすくめて謝罪した。
叱責に身体が震えるはずなのに、心臓は狂おしいほどに高鳴っている。
月華さまは、私の濡れた瞳をじっと見つめると、ふん、と鼻を鳴らして再び歩き出した。
私は、自分を所有し、支配しているのはこの人なのだと、改めて深い満足感と共に噛み締めていた。




