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『姿隠しの姫君』〜お嬢様学校の聖域で、孤独な「最強お姉さま」に執着される【百合】物語〜  作者: 猫野 にくきゅう
第一章

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第10話 湯煙の聖域と、乙女の休息

 寮の自室に帰還しても、黒崎結衣さまに宣告された「優先順位の低さ」という鋭利な言葉が、鉛のつぶてとなって胸の深淵に沈んでいた。


 それは一度沈んだはずなのに、わずかな呼吸のたびに底から浮かび上がり、冷たい光を放ちながら、内側から私を削っていく。部屋の空気は静まり返り、窓硝子に触れる夜気のかすかな震えさえ、やけに遠く感じられた。


 私はただの監視対象。


 その事実は簡潔で、容赦がない。名を持ちながら名を持たぬ者のように、役割だけを与えられ、意味を奪われた存在。


 月華さまという孤高の月にとって、私は消したくても消せぬ、不運な事故の痕跡に過ぎない。


 あの方の静謐な微笑の裏に潜む計算と距離。

 白く冴えた光に照らされるたび、私は自分の輪郭が曖昧になるのを感じていた。近づくことも、離れることも許されぬ位置に、ただ置かれているだけの存在。


 その事実が、胸の内側でひび割れのように広がっていく。


「……南藻さん。今夜こそ、この時間に大浴場へ向かいましょう?」


 私の陰鬱な気配を察したのか、柚月さんが、柔らかなバスタオルを胸に抱いて手招きをしていた。彼女の瞳には、湿り気を帯びた慈愛が宿っている。


 灯りに照らされたその瞳は、薄く揺れる水面のように静かで、私を急かすでもなく、ただ隣に立つことを許す温度を湛えていた。彼女の指先がわずかに動くだけで、張りつめていた室内の空気が、ほんの少しだけほどける。


「ええ……。そうね、お願いするわ」


 自分の声が思いのほか掠れていることに、言い終えてから気づく。


 拒絶でも強がりでもない。

 ただ、沈みきらないための選択。


 今の私には、何かに浸る時間が必要だった。


 今の私には、一人きりでシャワーの冷徹な飛沫を浴びるよりも、何者でもなくなるための「湯」が必要だった。肌を打つ水滴の鋭さではなく、全身を包み込み、境界を溶かしていく温もり。


 名も役割も評価も、いったん棚上げにして、ただ体温だけを感じる時間。思考がほどけ、胸に沈んだ鉛が、わずかでも軽くなることを願って。


 脱衣所にて、私は高品質ながらもどこか重苦しいウール混紡の制服を脱ぎ捨てた。


 指先に伝わる布地の感触は滑らかで、仕立ての良さを主張しているはずなのに、今日はやけに重たい。肩から滑り落ちる瞬間、わずかな解放感と同時に、守られていた外殻を失う心細さが走る。


 規律と格式を象徴するその制服は、私をこの学園に繋ぎ止める鎖でもあるのだと、改めて思い知らされる。


 ブラウスのボタンを外すたび、露わになる肌が浴室から漏れ出す湿った熱気に撫でられ、粟立つ。一年生の入浴時間に訪れた大浴場は、昼間の喧騒が嘘のように、深い白濁の湯煙に包まれていた。


 白大理石の床に響く、己の足音の反響。


 高く取られた天井から滴り落ちる雫が、水面に小さな同心円を描く。そこは、俗世の序列を霧の向こうへ追いやる、乙女たちの静謐なる聖域であった。


 足元に整えられたタイルはひんやりと冷え、裸足の裏に現実を突きつける。遠くから聞こえる湯の流れる音と、誰かの控えめな笑い声が、壁越しに柔らかく響く。


 その音の向こうには、私と同じように今日という一日を終えようとする人々がいる。


 私は深く息を吸う。


 胸の奥に沈んだ礫は、まだそこにある。

 だが、今はそれを抱えたままでいい。


 湯気に満ちた空間へと歩み出すために、私は一歩を踏み出した。


「あら、小井縫さん。ようやくお部屋の檻を抜け出す気になったのかしら?」


 湯煙の奥、視界を遮るヴェールの向こうから、聞き覚えのある高飛車な声音が響いた。


 二階堂亜美さんと高橋琴音さん。

 彼女たちは優雅に髪をまとめ上げ、瑞々しく濡れた肢体を晒して洗い場にいた。


「あ、二階堂さんに、高橋さんも……」


 私は身を縮め、柚月さんの影に隠れるようにして立ち尽くす。  


 二人の視線が、無遠慮に私の身体をなぞった。

 眼鏡を外した琴音さんの焦点の合わぬ瞳は、かえって獲物の質感を指先で探るような危うい官能を孕み、亜美さんは湯気に濡れた鎖骨を誇らしげに突き出している。


「……ふん。脱いでしまえば、やはり『普通』ですわね」


 亜美さんが、自身の豊かな輪郭を誇示するように、挑発的に肩を揺らした。

 琴音さんも、ぼやけた視線を私の腹部に留め、冷淡に頷く。


「ええ。肉体の造作に関しては、私の計算通りのようね。少し安心いたしました」


 普通。


 そう、私は救いようもなく、普通なのだ。  

 派閥の頂点に君臨する者たちが奪い合うような、特別な磁力などどこにもない。  

 けれど、その冷酷な評価が、今の私には温かいゆるしのように感じられた。


 特別な人間にならなくていい。

 ただの平民として、この豪奢な湯を享受することを許されたのだ。


「さあ、南藻さん。背中を流してあげますね」


 柚月さんに促され、私は小さな椅子に腰を下ろす。  

 温かな湯が肩を伝い、柚月さんの白く柔らかな指先が、石鹸の泡を介して私の背に触れた。  


 それは、友情と呼ぶにはあまりに独占的で、慈しむような手つき。


「……南藻さん、最近、ずっと吐息が重かったから。心配しておりましたのよ?」


 柚月さんの吐息が耳元を掠める。

 石鹸の清潔な香りと、彼女自身の体温が混じり合う。


「……気づいていたのね。ごめんなさい、柚月さん。ちょっと、自分の居場所を見失いそうになって」


 彼女の掌が、私の背骨の起伏を丁寧に辿っていく。クラスメイトたちの賑やかな語らいが天井で反響し、現実味を失った子守唄のように降り注ぐ。


「大丈夫ですわ。誰が何を査定しようと、今、南藻さんの肌に触れているのは私なのですから」


 その言葉と共に、背中に加わった微かな力。

 それは私をこの場に繋ぎ止める、確かな所有の印のようでもあった。


「はぁ……。極楽だわ……」


 身体を清め終え、私は広い湯船へと滑り込んだ。  

 首筋まで熱い湯に浸かり、柚月さんと並んで、ゆらゆらと揺れる水面の波紋を見つめる。  


 長い沈黙。


 言葉は湯気に溶け、ただ心臓の鼓動だけが共鳴する。


「元気、出ましたか?」


 柚月さんが、上気した頬をこちらに向け、微かに唇を湿らせて微笑んだ。

 湯気に濡れた彼女の笑顔は、この迷宮のような学園で私を救う、唯一の光のようであった。


「ええ。おかげで……明日も、歩けそうだわ。ありがとう、柚月さん」


 私たちは顔を見合わせ、声に出さぬまま笑みを交わした。  

 月華さまとの倒錯した契約も、派閥の冷徹な査定も、零票の屈辱も。すべてをこの熱い湯に溶かし、排水口の彼方へと流し去ってしまいたかった。


 今はただ、この包み込むような温かさと、隣にいてくれる少女の柔らかな体温に、私のすべてを委ねていた。

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