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『姿隠しの姫君』〜お嬢様学校の聖域で、孤独な「最強お姉さま」に執着される【百合】物語〜  作者: 猫野 にくきゅう
第一章

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第1話 乙女の聖域、最下位の野望

 その、あまりにも広すぎる校門を抜けた瞬間だった。


 私は、圧倒的な世界に飲み込まれるような感覚に襲われた。重厚な香油に全身を浸されたかのように、濃密で、甘やかで、しかし確実に逃げ場を塞ぐ芳香が、肺の奥へと満ちてくる。


 不思議な酩酊。理性の輪郭がやわらかく溶け、代わりに胸の奥で、熱を帯びた何かがゆっくりと目を覚ます。


 ここは私立凰華おうか女学院。

 日本屈指の名門お嬢様学校であり、百合という概念を愛する私にとっては、まさに現世に顕現した「聖域」そのものだった。


 深く濃い緑の森に囲まれた敷地は、約五十ヘクタール。東京ドーム十個分という広大な丘陵地に建てられた学園の全容は、入り口に立つ者へ決して全貌を明かさない。


 専属のドローンによって一枚の葉の乱れもなく整えられた並木道には、初春の湿り気を帯びた風が静かに流れ、私たち外部入学生エトランゼの革靴が踏みしめる砂利の規則的な音だけが、遠慮がちに響いていた。


「今日から、ここに住むんだわ……」


 こぼれた吐息は、まだ冷たい空気に溶け、すぐに見えなくなる。けれど胸の内に芽生えた高揚は、決して消えなかった。期待と、ほんの少しの背徳感。その混じり合った感情が、制服の下の鼓動を確かに速めている。


 私は熾烈な受験勉強を勝ち抜き、この選ばれし者だけの狭き門を潜り抜けた。

 それもこれも、すべては私の内側、その一番深い場所に秘めた「壮大な野望」を叶えるため。


 ――私はこの学園で、『素敵なお姉さまと恋がしたい』のだ。


 そんな、身の程知らずで、しかし誰にも譲れない願いを抱いている。

 そして、あわよくば。理想のお姉さまたちに囲まれた『ミナモハーレム』を築き上げたいとさえ思っていた。


 それが私の秘密。

 清らかなクラスメイトには決して知られてはならない、センシティブで粘着質な情熱だった。


 凰華女学院に入学してから、二週間が経過した頃のことだ。


 私の配属された一組は、成績上位者が集められた「普通科」のエリートクラスである。(もっとも、私の成績順位は一組の中でも後ろの方。崖っぷちに指をかけている状態だが)


「……はぁ。今日も皆様、なんてお美しいのかしら」


 授業中、私は真面目にノートを取り続けていた。黒板に走るチョークの乾いた音、規則正しくページをめくる気配、静かに漂うインクと紙の匂い。その整然とした空気の中で、ペンを持つ私の手だけが、わずかに震えている。


 視界の端で揺れる乙女たちの、白磁のような横顔。

 伏せられた睫毛の影。

 真剣な眼差し。


 どうしようもなく、陶酔していた。


 だが、このクラスに浮ついた空気は一切ない。一組と二組の外部生は、成績が落ちれば容赦なく退学の危機に晒される。窓から差し込む陽光さえも凍てつくように感じられる、この峻烈しゅんれつな緊張感。甘美な妄想に浸る私の胸を、容赦なく現実へと引き戻す冷気。


 これこそが、S文学の伝統……!


 私は身の引き締まる思いで、震える指先にぐっと力を込め、カリカリとペンを走らせた。恋も野望も、まずはこの成績を守り抜かなければ始まらない。


 午前の授業が終わる。

 昼休みを告げる鐘の音が、厳かに校舎へと響き渡った。


南藻みなもさん、一緒に食堂に行きましょう」


 絹糸のように柔らかな声が、私の鼓膜を撫でる。振り返れば、ルームメイトの東雲しののめ柚月ゆづきさんが、穏やかな微笑みを浮かべて立っていた。


 彼女は幼稚舎からこの学院に通う生粋の「内部生」。右も左もわからない私のナビゲーター役を引き受けてくれている。おしとやかで、少し守ってあげたくなるような、硝子細工のように繊細な美人さんだ。


「ええ、喜んで。柚月さん」


 声が弾むのを抑えきれないまま、私は立ち上がる。


 壮麗な装飾が施された学生食堂は、まるで小さな宮殿のようだった。高い天井からは柔らかな光が降り注ぎ、壁一面の巨大な窓の向こうには、手入れの行き届いた庭園が広がる。食器が触れ合う軽やかな音と、少女たちのさざめきという名の静かな喧騒が、空間をやわらかく満たしていた。


 しかし、その食堂には、残酷なまでに明確な「境界線」が存在する。


「……やはり、あちら側は別世界ですね」


 自然と、声のトーンが落ちる。


 二階席は、選ばれし特権階級『フローラリア』の専用スペース。一階の私たちを見下ろすような構造。制服も、私たちの機能的なブレザーとは異なり、踝まで届く優雅なロングワンピースだ。


 建築物の構造そのものが。

 衣服の布地までもが。


 埋めがたい身分の差を、無言のうちに突きつけてくる。


「ええ。あそこにいらっしゃるのが、この学園の『華』ですから」


 柚月さんは紅茶のカップを優雅に傾け、長い睫毛を伏せた。


「……南藻さんは、どなたがお好きなのかしら?」


 試すようでいて、どこか甘やかな問い。その一言で、私の頬は瞬時に熱を帯びる。話題は、私の大好物である「好みの上級生」へと移った。


「私は、『有栖川ありすがわ陽華ようか』さまのことが素敵だなって……」


 二階席の中央。そこに、一際まばゆい光を放つお方がいた。


 遠目にもわかる、一九〇センチを超える高身長。手すりに預けられた腕からは、バスケ部で鍛えられたしなやかな筋肉の躍動が感じられる。そして何より、太陽のように明るく、すべてを照らす笑顔。


 まさに、私の夜ごとの妄想の中で、何度もお姉さまになっていただいた理想の体現者だった。


「そういえば、今日は『妹コンテスト』の結果発表がありますよね」


 私はテーブルの下、膝の上で密かに拳を握りしめる。


 通称『妹コンテスト』。

 正式名称『ルミナス・プリンセス』。


 上級生たち(フローラリアと普通科の生徒)が、新入生の中からお気に入りの「パートナー」候補を選ぶ人気投票だ。これに上位入賞すれば、雲の上の存在であるフローラリアのお姉さまたちの目に留まる可能性が、飛躍的に高まる。


 私の『素敵なお姉さまとの恋愛』計画。その第一歩。


 自分で言うのもなんだが、私の容姿は悪くない。小柄な身長に童顔。守ってあげたくなるような「妹属性」を、十分に備えているはずなのだ。


 そして、運命のホームルーム。


 担任の斎藤志保先生が、ふわふわとした癒やし系の笑みを浮かべて教壇に立つ。教室の空気が、期待と不安で張り詰める。


「えー、それではコンテストの上位者の名前を掲示します。……残念ながら、一組からは誰も入りませんでしたが、皆さん落胆しないでくださいね?」


 掲示板に貼られた十名の名前を、私は穴が開くほど見つめた。


 けれど。


 そこに私の文字はなかった。


 ……嘘。

 一位どころか、ランク外?


 放課後のチャイムが無情に鳴り響く。私は居ても立っても居られず、志保先生のもとへ駆け寄った。


「先生、お聞きしたいことが……あの、私の得票数は……?」


 すがるような視線を受け、志保先生は困ったように眉を下げる。その瞳には、うっすらと憐れみの色が浮かんでいた。


小井縫こいぬいさん。……残念ですが」


 先生の唇が、無慈悲な事実を紡ぐ。


「…………えっ? ゼロ票」


 ヒュウ、と冷たい風が、頭の中を吹き抜けた。


 一票も、入らなかった。

 この、あふれんばかりのお姉さまだらけの楽園で。

 私は誰の視界にも入らなかったのだ。


 透明人間ですらない。

 ただの風景。背景の一部。


「あの、小井縫さん。そんなに落ち込まないで? 外部生はまだ認知されていませんし、他にもゼロ票の子はたくさんいるんですから……」


「……いいえ、先生。お気遣いありがとうございます。勉強、頑張りますわ」


 顎を引き、丁寧にお辞儀をする。声が震えないよう、必死に整えながら。


 一人、夕暮れの廊下を歩く。西日が長く影を引き延ばし、床に映る自分の輪郭をやけに細く、頼りなく見せていた。


(落ち着け、小井縫南藻。これは……これを単なる敗北にしてはいけない。輝かしい勝利への第一歩とするのよ!)


 今年の優勝者は、三組の桜庭小鈴さん。

 同じ外部生で、同じく小柄。


 私と彼女の決定的な差は何?


 顔の造作?

 いえ、それならば私も負けていないはず。


 では、何が違うというの。


 ……そうか。分かったわ。


「――髪、よ」


 肩の上で勝手に跳ねる焦茶色の天然パーマを、私は指先で弾いた。湿気を含んだ縮れ毛が、くるんと絡みつく。


 桜庭小鈴さんの髪も、天然パーマだった。けれどそれは、お菓子細工のようにふんわりと柔らかく、光を透かす亜麻色で、腰まで豊かに届いていた。お姉さまたちの視線を吸い寄せ、思わず指を差し入れたくなるような神聖な「愛らしさ」。


 片や、私の髪はどうだろう。


 湿気で広がり、艶を失った無骨な縮れ毛。触れることを躊躇わせる、まとまりのない野暮ったさ。


 素材の差ではない。

 圧倒的な「質量」と「余裕」の差。


 お姉さまたちが求める「妹」の象徴。

 私に決定的に足りなかったのは、白魚のような指が迷い込み、優しくきほぐすための、芳醇な「髪の長さ」だったのだ。


「ふふ……わかったわ。つまり、この暴れ馬のような髪を伸ばし、重みで従わせさえすれば、私は理想の妹になれるのよ!」


 瞳の奥に、新たな野望の火が灯る。


 ゼロ票。

 それは、伸びしろしかないということ。


 最下位からの逆転劇を誓い、私はさらなる「未知の百合」を求めて、噂に聞く禁断の『地下迷宮』へと足を踏み入れることにした。


 この先に、学園の「太陽」である有栖川さまとは対照的な、誰もが畏怖する冷たい「月」が待ち受けているとも知らずに。

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