エピローグ:物理の魔女、あるいは星空のアンコール
魔導艦ゴルゴダが墜ち、天空都市エリュシオンが熱力学の鉄槌によって霧散してから、ちょうど一年。
世界は劇的な変転を遂げていた。魔法という不安定な奇跡に代わり、アラクネ・ネットワークを通じて開放された「物理学」が、人々の生活を支える新しい背骨となっていた。
そんな中、世界各地からアイアン・パレスへ、止むことのない熱狂的な要望が届いていた。
「もう一度、セリナ様の姿を見せてほしい」「あの日、極限の空で泥にまみれて戦った、あの『本物の人間』の歌が聴きたい」
最終決戦時、全世界へ配信されたセリナの無骨で、激しく、剥き出しの姿は、皮肉なことにリヒターが作り上げた虚飾の聖女時代を遥かに凌ぐ熱狂――「セリナ・フェバー」を巻き起こしていたのである。
「……嫌じゃ。絶対に嫌じゃ。わしは老兵だぞ。なぜ隠居して静かに機体の整備もさせてもらえんのじゃ」
空中要塞アイアン・パレスの自室で、セリナは深いため息をつきながら、山積みにされた招待状の束を睨みつけていた。だが、その背後には逃げ道を塞ぐように、二人の女性が立っていた。
「セリナ様、そう仰らずに。これはもはや政治的な要請でもあります。各地の復興を祝う象徴として、あなたの『物理の凱歌』を直接聴きたいという民衆の熱意は、もはや重力よりも強いのですよ」
イザベラが、かつての王女時代を彷彿とさせる優雅な、しかし有無を言わせぬ微笑みで詰め寄る。その隣では、一番弟子のフェイが目を輝かせていた。
「あはは、師匠! もう諦めてください。アイゼン閣下もガッツさんも、すでにステージ用の特設艤装を組み始めています。サシャさんなんて、新作のドレスを手に持って、あっちで鼻息荒く待機してるんですよ。さあ、世界中の『弟子候補』たちが、あなたを待っています!」
「……フェイ、お主。……。イザベラまで。……。はぁ、わかったわい。やる。やればいいんじゃろ。だがな、わしを誰だと思っている。やるからには、完璧に、理の極致を見せつけてやるから覚悟しろ!」
セリナが操縦桿を握る時のような鋭い視線を見せると、イザベラとフェイは顔を見合わせ、勝利の笑みを浮かべた。
***
一ヶ月後。王都の郊外に広がる広大な大平原は、数十万の観衆によって埋め尽くされていた。
そこには教会の信徒も、かつての騎士も、農夫も職人もいない。ただ、新しい時代の風を感じるために集まった「自由な人々」がいる。
開演の合図は、空からの咆哮だった。
「第1小隊、加速開始! 全機、セリナ様の露払いだ! 音速の壁を物理で突き破れ!」
レンの声と共に、四機の銀翼が極超音速で飛来し、会場上空で急上昇を開始した。
続いてサシャの第2小隊が、機体から特殊な化学反応による七色のスモークを排出し、空に巨大な「歯車」の紋章を描き出す。そしてクラウスの第3小隊が、高度な編隊飛行によって空域全体の気流を安定させ、完璧なステージの「土台」を空中に構築した。
それは、魔法による奇跡ではない。厳密な計算に基づいた、物理航空団による「航空ショー」という名の極限パフォーマンスであった。
「計測完了! 師匠、ドップラー効果による音響補正、完璧です! ステージ、リフトオフ!」
フェイの叫びと共に、アイアン・パレスの甲板から巨大な円形ステージが浮上した。
アイゼンが開発した「電磁誘導による浮揚システム」が、重力を嘲笑うかのようにセリナを空へと押し上げる。
ステージに立つセリナは、油の匂いが染み付いたような、しかし銀色に輝く耐熱ドレスを纏っていた。
彼女がマイクを握り、最初のフレーズを紡ぎ出した瞬間、世界が震えた。
『祈りは届かぬ! だが、わしたちの声は届く!』
爆音のドラムと、アイゼン自慢の真空管アンプが唸りを上げる。
セリナは歌いながら、エグゾスフィアのコックピットへと飛び乗った。ステージと機体をワイヤーで連結したまま、彼女は歌い、そして飛ぶ。
空中戦の動きを取り入れたダンス。旋回する機体のGに耐えながら、一切の乱れもなく響き渡る力強い歌声。かつての飾られた聖女の時とは違う、血管が浮き出し、汗が飛び散り、生命のエネルギーを物理的に燃焼させる、圧倒的なライブパフォーマンス。
セリナは空域を自在に駆け巡りながら歌う。
ある時はレンたちの小隊と交差し、後流渦を計算に入れたアクロバットを見せながら。
ある時は地上数メートルまで急降下し、観衆の頭上を衝撃波で震わせながら。
「見ろ、あんなに美しく躍動している!」
観衆の一人が叫ぶ。
セリナの歌声は、アラクネを通じて世界中の村々、街々へも届けられていた。
ミリーとポロが多地点同時中継を完璧に制御し、各地の広場では、アイゼンが設計した大型の投射機がセリナの勇姿を映し出している。
歌の合間に、セリナはエグゾスフィアのキャノピーを開き、風を全身に浴びて叫んだ。
『いいか、お主ら! 重力は厳しい! だが、それに抗う翼を持つことも、物理の理なんじゃ! 泣きたければ泣け、だが、その涙が地面に落ちる速度を計算して笑ってみせよ!』
会場では、ガッツが整備した特殊な排気ダクトから、色とりどりの火花(テスラコイルによる放電)が音楽のリズムに合わせて放たれていた。
f = \frac{1}{2\pi \sqrt{LC}}
アイゼンがノートに記した、共振回路の公式。ステージの照明、音響、そしてセリナの機体の制御。すべてがこの一瞬、完璧な「物理的な共鳴」を成し遂げていた。
ライブの終盤。セリナはエグゾスフィアを垂直に、成層圏の縁まで一気に突き上げ、そこから全エンジンをカットした「慣性飛行」へと移行した。
静寂が訪れる。
月の光を背に、ゆっくりと木の葉のように舞い落ちる銀翼。その中で、セリナは伴奏なしのアカペラで、最後の歌――「自由の空」を歌い始めた。
それは、魔法に縛られ、祈りに縋っていた過去への鎮魂歌であり、自分の足で歩き始めた人類への祝歌であった。
歌い終え、機体が静かにアイアン・パレスの甲板に着艦した時、世界は数秒の沈黙の後、地鳴りのような歓声に包まれた。
テントに戻ったセリナを、仲間たちが総出で出迎える。
「最高でした、師匠! これで、また世界中に弟子候補が増えちゃいましたね!」
「……。まったく、もう二度とやらんぞ。腰が痛いわい」
セリナは不平を漏らしながらも、その瞳には隠しきれない充実感が宿っていた。
ガッツが冷えた飲み物を手渡し、アイゼンが満足げにデータを記録している。サシャやレンたちも、心地よい疲労感の中で笑い合っていた。
「……セリナ様、次回の公演の要望が、すでに今の倍届いておりますが」
イザベラが手帳を開くと、セリナは仰天して椅子から立ち上がった。
「次などない! わしは明日から機体のオーバーホールに専念するんじゃ!」
セリナはそう言って、皆の笑い声を背に、一番弟子のフェイと共に夕闇の甲板へと歩き出した。
空には、偽りの光ではない、数式の通りに美しく輝く星々が満ちていた。
物理の魔女のアンコールは、もしかしたら二度とないかもしれない。
だからこそ、この夜の輝きは、人々の心の中に、消えることのない真実の火として、いつまでも燃え続けるのであった。
(エピローグ・完)
これまで長くお読みいただきありがとうございました。
100話目標でしたが若干足りなかったようです。
ただだらだら伸ばすのも違う気がしましたので今回はこれにて完了とさせていただきます。
またほかの作品でも会えることがあればよろしくお願いします。




