第二十八話:物理の魔女、あるいは自由の空
決戦の炎が消え、成層圏を焦がした黄金の破片が流星となって燃え尽きた翌朝。
空中要塞『アイアン・パレス・アルファ』の甲板は、冷たく、しかし清冽な朝露に濡れていた。昨夜の激闘を物語るように、随所に焦げ跡が残り、歪んだ装甲が朝日に照らされて鈍く光っている。
ガッツは巨大なレンチを肩に担ぎ、満身創痍で帰還したエグゾスフィアの翼を見つめていた。傍らには、煤けた白衣を翻し、複雑な数式が並ぶモニターを凝視するアイゼンがいる。
「……ひどい有様だな。あちこちの配管が熱でやられてやがる。だが、直してやるさ。嬢ちゃんたちが、今度は戦うためじゃなく、もっと遠くへ行くための翼にな」
ガッツが不器用な手つきで、へこんだ装甲を愛おしそうに撫でる。アイゼンは眼鏡をかけ直し、静かに頷いた。
「エネルギー保存の法則は、ついに証明された。奪い合う奇跡は終わりだ。これからは、太陽の熱を、風の力を、自らの知恵で変換し、正当な対価として未来を生み出す時代が来る。セリナが望んだのは、この『理の公平さ』だったのだな」
要塞の作戦室。セリナ・アルスタインは、豪華な祭服ではなく、油と汗に汚れたパイロットスーツ姿のまま、アラクネ・ネットワークの全回線を起動させていた。彼女の姿は、昨日の演説によってすでに全世界が知るところとなっていたが、これは「物理の魔女」としての最後の大仕事であった。
「聞け、世界の人々よ。空の偽りの都は墜ち、教皇庁の神話は幕を閉じた。……今日この時を以て、わしは聖女という立場を返上する。そして、お主らへ最後の贈り物を残そう」
セリナの指が、端末のキーを叩く。アラクネに蓄積されていた、前世の知識を含む膨大な物理学のデータベース。それを守っていた幾重もの暗号が、今、全世界に向けて開放された。
「祈ってもパンは降ってこぬ。病も魔法では治らぬ。……だが、絶望する必要はない。お主らには『知恵』がある。重力の厳しさを知る者は、それを跳ね返す翼を作れる。摩擦の熱を知る者は、凍える夜を越える火を熾せる。物理とは、魔法に代わる新しい奇跡ではない。己の足で立ち、己の頭で考え、この過酷で美しい世界と正対するための『道具』なのじゃ」
セリナの言葉は、かつて魔法の恩恵に縋っていた者たちにとって、あまりに厳しく、しかし目が覚めるような清涼感を持って響いた。
地上では、早くも変化が始まっていた。
教会の廃材を集め、水路を作るための巨大な水車を組み立てる若者たち。設計図を囲み、テコの原理を用いて瓦礫を退ける老人。かつて奇跡を待って跪いていた人々が、今は土にまみれ、額に汗して、自らの手で明日を形作ろうとしていた。
物理学という平等な力が、一部の特権階級のものではなく、理解し、汗を流す者すべてに等しく開かれたのだ。
要塞の格納庫では、航空団のパイロットたちが集まっていた。
レンは故郷へ戻り、物理学と飛行の基礎を教える学校を建てると言い、サシャは機甲の技術を平和的な運搬機械に転用する工房を開くという。クラウスはアイゼンと共に、世界の測量と通信網の整備に生涯を捧げる決意を固めていた。
「師匠、みんな立派な先生になりそうですね。あはは、私だけは一生『一番弟子』のままでいさせてもらいますけど!」
フェイが明るく笑い、整備の終わったエグゾスフィアのコクピットに飛び乗った。セリナは、自分がこの世界に転生した意味を、ようやく理解した気がしていた。それは、無双の力を振るうためではなく、この星に生きる人々へ「物理学という名の自由」というバトンを渡すためだったのだと。
夕焼けが空を茜色に染める頃、二機の銀翼がアイアン・パレスの甲板から舞い上がった。
もはや追撃してくる無人機も、迎撃してくる魔法騎士団もいない。ただ風を感じ、揚力を愛で、大気との対話を楽しむための、純粋な飛翔。
セリナはコクピットの中で、膝の上に置いたノートに最後の一行を記した。
F = ma
力は、質量と加速度の積である。シンプルで、あまりに無機質な数式。だが、これこそが、何ものにも縛られず、自らの意志で世界を加速させるための、新しい時代の合言葉。
「……さらば、魔法の時代。ようこそ、理の時代」
セリナは操縦桿を静かに引き、雲海を抜けてさらに高くへと機首を向けた。
かつて老兵だった少女は、今、心からの自由を感じていた。翼を叩く風の音、機体を押し上げる空気の重み、そして隣を飛ぶ弟子の笑顔。
「師匠、どこまで行きましょうか!」
「決まっておる。……風の向くまま、物理の導くままじゃ。この空は、どこまでも等しく、そして自由なのだからな」
夕闇の迫る蒼穹に、二筋の白い飛行機雲が長く、どこまでも美しく描かれていった。
それは、古い神話が消え去った後の空に刻まれた、新しい人類の、確かな歩みの軌跡であった。
完。




