第二十四話:銀色の閃光、あるいは空中戦の極致
高度二万五〇〇〇メートル。
そこはもはや、鳥のさえずりも雲の輝きも届かぬ、漆黒と蒼穹の境界線であった。見上げれば虚無に近い宇宙の闇が広がり、見下ろせば地球の輪郭が青い光の帯となって、この星の命の証を刻んでいる。空気が地上の一割にも満たないこの極限の領域において、アーク・フェニールⅣ『エグゾスフィア』の銀翼は、太陽の光を反射して鋭く輝いていた。
「……。静かじゃな。……。フェイ。ここから先は。音すら。わしたちを。追い越せぬわい」
セリナ・アルスタインは、耐圧服越しに機体の微細な震えを感じ取っていた。これほどの超高度では、翼が捉えるべき大気はあまりに希薄であり、通常の操縦桿の操作は意味をなさない。だが、セリナは指先の感覚を研ぎ澄ませ、機体表面を流れる数少ない空気の分子一つひとつと対話するように、機首の向きをミリ単位で調整していた。
その前方に、異形が姿を現す。
教皇庁総帥リヒターの専用機『ゲイレルル』。それは物理的な航空力学を嘲笑うかのような、鋭角的な突起に覆われた禍々しい姿をしていた。
『……操縦などという野蛮な行為に執着するとはな。セリナ、私はただ、この空間の座標を「望む」だけでいい。私の意志は瞬時に魔法へと変換され、この機体を次の真実へと導くのだ』
リヒターの声が、ノイズのない精神通信を通じて直接脳内に響く。
ゲイレルルが動いた。それは「加速」ではない。リヒターが移動したいと「思考」した瞬間に、機体がその座標へと不自然に、そして瞬時にスライドしたのだ。慣性も重力も魔法によって中和された、空を飛ぶ生き物としての脈動を一切感じさせない無機質な飛翔。
リヒターの思考に呼応し、ゲイレルルから放たれた魔導熱線がエグゾスフィアの直近を掠める。セリナはそれを、流れるような円運動で回避した。
「……。悲しい。飛翔じゃな。……。リヒター。お主。そんなに。長く。空を飛んでおいて。まだ。わかっておらんのか。……。お主の空には。風が。吹いておらんわい」
『風だと? 笑わせるな。この死の世界に風など存在しない。あるのは真空と、私の意志を阻む物理という名のガラクタだけだ』
リヒターは思考を加速させる。彼の殺意に従い、ゲイレルルは物理的にはあり得ない「直角の転舵」を繰り返し、セリナの死角へと執拗に回り込む。魔法による自動制御は完璧だった。機体は計算された最短経路でセリナを追い詰め、逃げ場を奪っていく。
だが、セリナは微かに微笑んでいた。
彼女の目には、リヒターの自動制御が「無視」している真実が見えていた。どんなに希薄であろうと、そこには流体としての法則が生きている。リヒターの機体が不自然な機動を繰り返すたび、無視された大気の分子がわずかな「乱れ」となって、真空に近い空間に波紋を描いている。
「フェイ。全エネルギーを。可変翼の。超高周波駆動へ。……。アイゼン。……。希薄流体の。算式を。回せ」
『了解です、師匠。……。敵機の移動後の「揺らぎ」、捕捉しました。……。魔法の計算から漏れた端数、私たちが拾い上げます!』
フェイが冷静にデータを処理する。
物理学において、高度二万五〇〇〇メートルであっても動圧はゼロではない。魔法の自動操縦が「大気などない」と判断して切り捨てている僅かな抵抗を、セリナはエグゾスフィアの可変翼を微細に振動させることで、確かな「手応え」として掴み取った。
極小の密度 であっても、超音速の速度 $v$ を極大に維持し、迎え角を精密に制御すれば、物理の翼は奇跡すらも捉えることができる。
「行くぞ。……。リヒター。……。理を。侮った。報いじゃ」
リヒターが次の座標へ移動しようと念じた瞬間、その進路上に銀色の閃光が躍った。
エグゾスフィアは、リヒターの思考同期が予期せぬ「大気の抵抗によるわずかな遅延」を読み切り、先回りしていたのだ。座標移動という「点」の飛翔に対し、セリナは風の道を滑る「線」の飛翔をぶつけた。
キィィィィィィィン!
成層圏に、物理的な接触音が鳴り響いた。
セリナの振動剣がゲイレルルの装甲を掠め、物理的な衝撃が思考同期回路を通じてリヒターの精神を直接打つ。
『な……!? 私の思考よりも早く……いや、あり得ない! なぜ私の機動を予測できた!? 物理のゴミが、私の奇跡を捉えるなど……!』
「……。お主の。思考は。速いが。……。空と。対話して。おらん。……。自動化。された。奇跡は。……。一粒の。大気の。重みを。知らんのじゃ。……。物理とは。……。誠実なもの。じゃぞ。……。リヒター」
漆黒の宇宙を背景に、青白いプラズマを引き連れたエグゾスフィアが、ゲイレルルの周囲を滑らかに舞う。それは魔法でねじ伏せる力ではなく、世界の理に寄り添うことで得られる、真の自由の姿であった。
衝撃を受けたリヒターの精神同期に激しいノイズが走る。
完璧だと思っていた彼の神域は、一人の少女――かつての老兵が操る、泥臭い手動の操縦によって物理的に解体され始めていた。
「風……。これが、君の言う、理の風か……!」
崩れるゲイレルルの機動。銀色の閃光は、ついに傲慢なる神の代弁者を、真実の空へと引きずり下ろそうとしていた。
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次回お楽しみに。




