第十六話:異端の戦術家、あるいはクラウスの冷徹
教皇庁が放った「情報の鉄鎖」は、飢餓よりも残酷に民衆の心を縛り付けていた。
王国全土に設置された魔導モニターには、目を覆いたくなるような惨状が映し出されている。それは南方拠点『アイアン・パレス・アルファ』の内部とされる映像だった。
「……見よ。神の加護を捨てた愚か者たちの末路を」
モニター越しに響くリヒターの声は、五十年以上の歳月をかけて練り上げられた、真理を装う甘美な毒であった。
画面の中では、ボロボロの服を着た若者たちが互いにパンを奪い合い、虚ろな目で泥水を啜っている。ミリーやポロに似た顔の少年少女が、絶望に顔を歪めてセリナを呪う言葉を吐く。もちろん、それはリヒターが最高位の幻術師に命じて作らせた、物理的に存在しない「虚像」である。
「物理という名の呪いに魂を売った魔女セリナは、今や眷属すらも救えず、闇の中で孤独に震えている。羊たちよ、祈るがいい。奇跡こそが、君たちの飢えを癒やす唯一の光なのだ」
王都の民衆は、恐怖に震えながら地面に跪いた。昨日見た「丸い大地」の感動は、リヒターが演出した「地獄の光景」によって、瞬く間に塗り潰されていく。大衆にとって、遠い空の真実よりも、目の前の絶望の方が遥かに重いのだ。
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だが、その「地獄」の当事者である南方拠点の食堂は、異様なほどの活気と熱気に包まれていた。
「あははは! 師匠、見てくださいよこれ! 私、こんなに酷いクマ作ってませんってば! ミリーなんて、角が生えてるじゃないですか。教皇庁の演出担当、ちょっとセンスなさすぎですよ!」
フェイが腹を抱えて笑いながら、王都のプロパガンダ映像をタブレット端末で指し示す。彼女の明るい声は、ともすれば不安に傾きがちな空気を見事に弾き飛ばしていた。
一番弟子としてセリナの隣に座るフェイは、昨日収穫したばかりの瑞々しいトマトを丸かじりしながら、不敵に笑う。
「でも、あんなデタラメを信じ込まされるのは癪ですね。師匠の理が、あんな汚い幻術で汚されるなんて……。ねえ、師匠。そろそろ、こっちの『本物』を見せてやりましょうよ!」
「……。フェイ。……。お主。……。食い意地が。張っておるな。……。だが。嘘は。いつか。摩擦係数に。負ける。……。クラウス。準備は。よいか」
セリナは静かに紅茶を啜り、作戦室の奥に控える男に視線を送った。
電脳戦の責任者、クラウス。三十三歳となった今の彼は、かつての教官時代よりもさらに冷徹で、研ぎ澄まされた機械のような雰囲気を纏っていた。
「……セリナ様。いつでも可能です」
クラウスの瞳には、かつてないほどの鋭い光が宿っていた。
彼は知っている。このプロパガンダを仕掛けている主、リヒターの正体を。かつてクラウスが軍学校の若き天才としてその門を叩いた時、リヒターはすでに戦術理論の頂点に君臨する怪物であった。
『クラウス、人は計算では動かんよ。大衆が求めるのは正しい解ではなく、自分たちを肯定してくれる心地よい嘘なのだ。戦場とは、その嘘をどれだけ美しく描くかというキャンバスなのだよ』
二十年以上前、リヒターが彼に授けた教え。クラウスはそれを拒絶し、物理学という名の「一切の嘘を許さない冷徹な理」へと逃れたのだ。
「リヒター様……。あなたは今も、世界を自分の筆で描けると思っている。……だが、物理学には『位相』という概念がある。あなたの描く嘘の波を、私は物理的に打ち消してみせる」
クラウスの号令の下、第3部隊が動き出した。
ジャンが廃棄場から発掘してきた「巨大な電力増幅器」と、ルミエが特別に調合した冷却液で冷やされた「水冷式真空管」。それらが物理航空団の心臓部で唸りを上げる。
「師匠! 俺が拾ってきたこの真空管、まだ現役ですよ! マナの流れを電気信号に変換して、増幅してやりました!」
ジャンが調整した物理アンテナが、要塞の頂部から空へと突き出す。
魔法通信は、マナの振動によって映像を伝達する「波」である。クラウスの狙いは、その魔法の波形と「完全に逆の位相」を持つ物理信号をぶつけることだった。
[attachment_0](attachment)
物理学において、同じ振幅で位相が $\pi$ (180度)ずれた二つの波が重なると、干渉によってその振幅はゼロになる。
$$y_1 = A \sin(\omega t)$$
$$y_2 = A \sin(\omega t + \pi) = -A \sin(\omega t)$$
$$y_{total} = y_1 + y_2 = 0$$
「ポロ、敵の魔法信号のサンプリングを開始。位相を完全に反転させた物理パルスを射出せよ。……魔法という名のノイズを、無に還す」
クラウスの冷徹な声が響き、ポロがキーを叩く。
その瞬間、王国中の魔導モニターに映し出されていた「地獄の光景」が、突如として激しい砂嵐へと変わった。
「な、なんだ!? 聖なる映像が消えたぞ!」
「魔女の呪いか!?」
王都がパニックに陥る中、クラウスは一歩も引かずに命令を続けた。
「空いた帯域に、こちらの『物理信号』を流し込め。ミリー、フェイ。……お前たちの出番だ」
「了解! さあ、世界の皆さーん! 師匠の理、ライブ配信スタートですよ!」
フェイが明るい笑顔でカメラの前に躍り出た。
映し出されたのは、ドロドロの泥水を啜る姿ではない。太陽光を集光して輝く温室の中で、サシャが獲れたての大きなカブを掲げて笑い、ハンスが焼き立てのパンを運んでいる、生命力に満ち溢れた光景である。
「見てください! これが魔女の拠点の『日常』です! 祈らなくても、計算すればパンは膨らむし、お腹はいっぱいになるんです! 教会の嘘に騙されないで。重力は、誰のことも裏切りませんよ!」
フェイの眩いばかりの明るさが、物理的に増幅され、王国の隅々まで届けられた。
民衆は呆然とした。先ほどまで見ていた「絶望」と、今目の前にある「豊かさ」。どちらが真実か。その答えは、画面の中でフェイがかじりついたトマトの、弾けるような瑞々しさの中にあった。
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教皇庁、総帥執務室。
ノイズだらけになった魔導モニターの前で、リヒターは静かに椅子に深く身を沈めていた。
彼の深い皺が刻まれた顔に、初めて微かな亀裂が走る。
「……位相反転か。魔法そのものを消すのではなく、物理的な波動で相殺させるとはな」
リヒターは、かつて自分が教え込んだ、しかし決して「数式」までは教えなかった愛弟子の名を呟いた。
「クラウス……。君はついに、私の描く『美しい嘘』を、ただの数値上の『ゴミ』として処理するようになったか。……素晴らしい。実に物理学らしい、無慈悲な解答だ」
リヒターは立ち上がり、背後に控える騎士たちに冷たく告げた。
「電脳戦での敗北は認める。だが、計算でパンを作れても、計算で『死』を避けることはできない。……聖騎士団を出せ。物理学という名の盾が、神の鉄槌を前にどこまで耐えられるか、試してやろう」
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南方拠点の司令室。
配信を終えたフェイが、セリナに駆け寄って肩を抱いた。
「師匠! 王都の通信網、完全にジャックしましたよ! クラウス小隊長、凄すぎます!」
「……。クラウス。……。よく。やった。……。嘘は。摩擦に。負けて。止まったな」
セリナは、クラウスに視線を向けた。
クラウスは短く一礼したが、その顔に歓喜の色はない。
「……まだ、序盤に過ぎません、セリナ様。リヒター様は、自分の理論を否定されたことを何より嫌う。……次は、理屈の通じない『物理的破壊』を仕掛けてくるでしょう」
「……。よし。……。受けて。立とう。……。物理は。逃げも。隠れも。せん」
セリナは最後の一滴まで紅茶を飲み干した。
情報の封鎖を物理パルスで打ち破った物理航空団。だが、その勝利は、教皇庁の本気を引き出す「宣戦布告」でもあった。
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