第十五話:偽聖女の烙印、あるいは断絶の壁
王都、聖ミカエル大広場。
数万の民衆が詰めかけたその場所には、かつてないほどの緊張と、冷たい沈黙が支配していた。
昨日、全世界の魔導モニターをジャックし、高度三万メートルの「真実」を映し出した光景は、人々の価値観を根底から揺さぶっていた。しかし、その動揺を力ずくで押さえつけるべく、教皇庁は最速の「回答」を用意した。
「……。迷える羊たちよ。悪魔の囁きに耳を貸してはならない」
巨大モニターに映し出された教皇の姿は、神々しいまでの光に包まれていた。だがその言葉は、冷徹な死刑宣告に等しい。
「昨日、君たちが見たものは精霊の加護を否定し、世界を崩壊へ導く『物理』という名の毒が生み出した幻覚である。アルスタイン家の娘、セリナは、かつての聖女の皮を被り、人々の魂を地獄へ引き摺り込もうとする魔女である」
広場にどよめきが広がる。教皇の手が、セリナの指名手配書を象徴的に指し示した。
「今日この時より、セリナ・アルスタインを『物理の魔女』と定義し、公式に指名手配する。また、彼女に付き従う物理航空団の拠点は、精霊の慈悲から切り離された『聖絶の地』とする。……。祈らぬ者に、パンは与えられない。物理という砂を噛んで生き延びるがいい!」
それは、南方拠点に対する完全なる経済封鎖の布告であった。
王国全土からの食料、燃料、そして生活に不可欠な「マナ水」の供給を完全に遮断する。教皇庁の目的は明確だ。物理学という「理屈」が、空腹という「現実」の前にいかに無力であるかを、世界に見せつけること。
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一方、南方拠点『アイアン・パレス・アルファ』。
作戦会議室では、窓の外を埋め尽くす聖騎士団の軍勢を眺めながら、セリナがいつものように紅茶を啜っていた。
「……。魔女、か。……。聖女よりは。わしに。似合って。おるわい。……。名など。記号に。過ぎん」
セリナは、ティーカップから立ち昇る湯気の向こうで、不敵な笑みを浮かべた。
その隣で、フェイが満面の笑みを浮かべながら、テキパキとコンソールを操作している。
「あはは! 師匠、ついに指名手配ですよ! 世界中が師匠に注目してるって証拠ですね。魔女だなんて、むしろ格好いいじゃないですか。ね、師匠!」
フェイは、重苦しい空気を一瞬で吹き飛ばすような明るい声を上げた。彼女にとって、師匠が何を呼ばれようと関係ない。師匠が進む道が正しく、そして自分がそれを一番近くで支えているという事実こそが、彼女のエネルギー源なのだ。
「でも、お嬢様」
イザベラが、無表情ながらも厳しい口調で割って入った。
「笑い事ではありません。教皇庁の封鎖は完璧です。周辺の村々からの納入は止まり、備蓄は通常稼働で一ヶ月を持ちません。……。特に『水』と『熱源』が死活問題です。魔法による浄化と加温が使えない以上、ここは数週間で極寒の飢餓地獄と化します」
「……。……。イザベラ。心配。しすぎじゃ。……。祈って。パンが。出るなら。……。農家は。苦労。せんわい」
セリナが立ち上がると、扉を蹴破らんばかりの勢いでジャンが飛び込んできた。背中には、ゴミ拾いで集めたとは思えないほど巨大な、錆びついた金属の塊をいくつも背負っている。
「師匠! 待たせましたね! 教会が道を塞いだんなら、俺たちが自分らで道を作ればいいだけだ。……。見てくださいよ。軍の廃棄場から拾ってきた、古い潜水艦用の『大容量循環ろ過ユニット』と、高圧コンプレッサーの残骸です!」
ジャンが床に放り出したのは、魔法の刻印など一つもない、剥き出しの鉄と油の塊だった。
「これと、ポロたちがハッキングで手に入れた工業用の熱交換スケジュールを組み合わせれば、拠点は一つの『宇宙』になります。……。精霊の施しなんて、もういりませんよ!」
「……。よし。……。Fクラスの。底力を。見せて。やれ」
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その日の午後から、拠点全体が巨大な「建設現場」へと変わった。
かつての落ちこぼれたち、今は物理学の専門家となった面々が、それぞれの持ち場を駆け巡る。
「ハンス! その太い配管を垂直に立てろ! ジャック、ニコラ、溶接箇所から空気が漏れたら一巻の終わりだぞ、気合を入れろ!」
地下格納庫。ジャンとハンスが汗まみれになりながら、巨大な水槽とパイプを組み上げていく。魔法を使わずに植物を育てる「物理的垂直農場」の建設だ。
その横では、エレーナとアイゼンが計算盤を囲み、狂ったように数式を書き殴っていた。
「アイゼン閣下、光合成の効率を最大化する波長の計算、終わりました。太陽光を鏡で集光し、光ファイバーで地下へ導きます。……。足りない分は、ナトリウムランプの人工光で補います。光の強度 $I$ は入射角 $\theta$ に依存しますが、鏡の自動追尾で常に $90^\circ$ を維持させます!」
$$I = I_0 \cos \theta$$
エレーナが示した公式に基づき、ジャックが反射板をミリ単位で調整する。
魔法による「豊作の奇跡」ではない。植物が必要とする光子の数、二酸化炭素の濃度、水の循環速度を、物理学で完全に支配しようという試みだ。
さらに拠点の最深部では、ルミエが青い液体を巨大なタンクに流し込んでいた。
「師匠! アンモニア・ヒートポンプのサイクル、同調開始します! 外部の冷たい空気から熱を汲み上げ、地下の農場と居住区を温めます。魔法の暖房石なんて、もう過去の遺物です!」
ルミエは物理冷却液と熱媒体の循環を見守りながら、誇らしげにバルブを開いた。
熱力学第二法則。エネルギーを効率よく移動させるその仕組みこそが、凍てつく封鎖の中で拠点を「常夏の楽園」に変える鍵となる。
$$COP = \frac{Q_H}{W} = \frac{Q_H}{Q_H - Q_L}$$
アイゼンがかつて提唱したヒートポンプの理論が、ルミエの手によって実機として結実する。魔法に依存していた「温もり」を、自分たちの計算で手に入れる瞬間だった。
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封鎖から二週間が経過した。
拠点を包囲する聖騎士団の陣営には、奇妙な焦りと困惑が広がっていた。
食料も水も絶たれたはずの物理航空団。本来なら、とっくに空腹と寒さに耐えかねて降伏してくるはずだった。しかし、夜になれば拠点の窓からは、魔法の松明を凌駕するほど眩い「物理の光」が漏れ出し、要塞の煙突からは力強い蒸気が立ち昇っているのだ。
「……。おい、見ろ。あの要塞の屋上だ」
監視の騎士が、震える手で双眼鏡を覗き込んだ。
そこには、真冬の寒風が吹く中でも、青々と茂る野菜を抱えて笑い合うサシャとレンの姿があった。
サシャは、収穫したばかりの巨大なトマトをその場でかじり、レンに差し出している。
「あねごー! 今日のトマトも最高だよ! 物理の味は、教会のパンより甘いね!」
「レン、次は小麦の脱穀だ。ジャンが拾ってきたあの脱穀機、めちゃくちゃ早いぞ!」
若者たちの笑い声が、静まり返った包囲網に響き渡る。
包囲している騎士たちが、配給の干し肉を噛み締めながら、その豊かな光景を信じられない思いで見つめていた。魔法という「奇跡」に縋る自分たちが飢えと寒さに凍えている中で、物理という「理屈」を信じる者たちが、自らの手で楽園を築き上げている。
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拠点の特設サロン。
セリナは、拠点で採れたばかりの小麦で作られたスコーンに、自家製のジャムをたっぷり塗って口に運んだ。
「……。美味い。……。アイゼン。……。計算通り。じゃな。……。重力は。裏切らんが。……。土も。裏切らん。……。物理的に。正しい。養分は。……。嘘を。つかん」
「まったくだ。セリナ、君の言う通りだ」
アイゼンも、老骨を揺らして満足げに笑った。
「魔法で無理やり成長させた野菜は、どこか精霊の味がする。だが、これは純粋な光と水の味だ。……。リヒターも、まさか我々が、封鎖された室内で自給自足のコスモスを完成させるとは思わなかっただろう」
フェイが、セリナのカップに新しくお茶を注ぎながら、弾けるような笑顔を見せた。
「師匠、見てください。さっきポロがハッキングした王都のニュースでは、『魔女の拠点は自食(共食い)を始めた』なんてデマが流れてますよ。……。あはは、こんなに美味しいスコーンを食べてるのに!」
フェイはセリナの隣に腰掛け、自分もスコーンを一口齧る。
「世界が師匠を魔女と呼ぶなら、私がその魔女の一番の騎士になります。……。この壁の中の豊かさを、いつか世界中に見せつけてやりましょう。祈るよりも、計算する方がずっとお腹が膨れるんだって!」
「……。……。フェイ。……。お主。……。頼もしい。わい」
「えへへ、師匠に褒められた! 今日は最高の日ですね!」
セリナは、フェイの明るい笑顔にわずかに目を細めた。
封鎖という「壁」は、教皇庁が彼らを孤立させるために作ったものだった。しかし、その内側で物理学という共通の言語を持つ若者たちは、かつてないほど強固に結びついていた。
教皇庁の深部。
リヒターは、監視カメラ(魔法の水晶球)から送られてくる、拠点の「光り輝く夜景」を冷めた目で見つめていた。
「パンがなければ計算すればいい……か。セリナ・アルスタイン、君はついに人間を『神への依存』から物理的に切り離し始めた。……。これはもはや、戦争ではなく『存在の定義』を巡る戦いだ」
リヒターは、チェス盤の上の黒いクイーンを静かに倒した。
「よかろう。冬を越す知恵があるなら、次は『内部』からその知恵を腐らせることにしよう。……。クラウス、君の教え子がどこまでその理を貫けるか、見極めさせてもらうよ」
物理航空団の拠点は、断絶の壁を「物理の城壁」へと作り替え、次なる嵐に備えていた。
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次回「異端の戦術家、あるいはクラウスの冷徹」




