第十二話:物理の学舎、あるいは灰色の教室
南方拠点の村ナディ。かつて精霊教会の司祭が「神罰」を説いていた古びた石造りの礼拝堂は、今や全く別の目的で使われていた。
祭壇の前には巨大な黒板が置かれ、並べられた長椅子には、砂漠の太陽に焼かれた少年少女たちが、期待と不安の入り混じった表情で座っている。
「……。わしの顔に知恵は書いておらんぞ。ほら、前を向けい」
最後列で腕を組んでいたセリナ・アルスタインが、自分を振り返る子供たちを促した。
今日は記念すべき第一回「物理特別講義」の日である。子供たちは「聖女様が魔法の極意を教えてくれる」と期待していたが、教壇に立ったのは気難しい顔で眼鏡のブリッジを押し上げる老人、アイゼンだった。
「静かに。……。これから教えるのは、奇跡の起こし方ではない。この世界の『ルール』だ。精霊におねだりするのではなく、理屈を叩きつけて世界を従わせる方法だ」
アイゼンの冷徹な第一声に、子供たちがしんと静まり返る。アイゼンはまず、天秤に載せた透明なガラス瓶を取り出した。
「皆。空気には『重さ』があると思うか?」
「ないよ! 空っぽだもん!」
「あるわけないじゃん、触れないし」
子供たちの元気な答えに、アイゼンは不敵に微笑み、真空ポンプのスイッチを入れた。
シュゴォォォ……という音と共に、瓶の中から空気が抜かれていく。すると、均衡を保っていた天秤が、ゆっくりと空の瓶の方へと傾いた。
「な、なんだ、これ……!? 何も入ってないはずなのに!」
「……。空っぽではない。お主らの周りには、常に膨大な量の空気が詰まっておる。……。それがお主らの体を押し、井戸の水を押し上げているのじゃ」
セリナが後ろから補足する。子供たちの瞳に、魔法の光とは違う、初めて見る「知的好奇心」という火が灯った。
アイゼンは次に、透明なアクリル製のシリンダーを取り出し、その中に小さな綿屑を入れた。
「次は熱だ。魔法の火なしで、これを燃やしてみせよう」
アイゼンがシリンダーのピストンを、全体重をかけて一気に押し下げた。
パッ、と一瞬だけ鮮烈な火花が散り、中の綿が赤々と燃え上がる。
「わあぁぁっ!? 今、魔法使ってないよね!?」
「ただ押しただけだぞ!」
「これが断熱圧縮だ。空気をギュッと押し潰せば、熱が逃げる暇もなく一箇所に集まる。……。ポンプの手摺が熱くなるのは、精霊の怒りではない。物理的な必然なのだ」
アイゼンが黒板に、理想気体の状態方程式をさらさらと書き記していく。
$$PV = nRT$$
「これは呪文ではない。圧力を上げれば(P)、温度は上がる(T)……。それを予測するための地図だ」
子供たちが一斉にノートを取り始める。かつて「魔力がないから無能」と蔑まれてきた少年レオは、アイゼンの言葉を一言も漏らさぬよう食い入るように見つめていた。
その頃。学舎の裏手では、別の意味で熱い「取引」が行われていた。
「へっへっへ……。おっと、一人一枚までだぞ。こいつは第一小隊のレンが撮った、お嬢様の『超希少・寝起きの不機嫌顔』だ。光の加減が絶妙だろ?」
ジャンが、外套の裏に隠した大量の「セリナ・ブロマイド」を広げていた。そこには、普段の「聖女」としての姿からは想像もつかない、髪が跳ねたまま欠伸をするセリナや、苦いお茶を飲んで顔を顰める瞬間、さらにはドッグファイト中の、射貫くようなエースの眼光を放つ表情などが並んでいた。
「ジャン君、ちょっと。……。その、お嬢様がイザベラさんに怒られて、こっそり舌を出しているやつ。……。いくらかしら?」
列の中に混じっていたのは、オペレーターのミリーだった。
「おっ、ミリー、お目が高い! こいつは一枚金貨一枚……と言いたいところだが、身内価格でまけてやるよ!」
「あ、私も! その操縦桿を握ってガチギレしてるあねごのやつ、一枚ください!」
サシャまでもが軍資金を握りしめて並んでいる。
ジャンは「お守り」などという建前は使わなかった。この銀髪の少女の中に宿る、圧倒的な「人間臭さ」こそが、今やアイアン・パレスの全乗組員と拠点の人々を惹きつける最強のコンテンツであることを、彼は熟知していた。
だが、その熱狂も長くは続かなかった。
「ジャン……。また私の許可なく、お嬢様の肖像権を物理的に切り売りしていますね?」
背後から、氷点下の声が響いた。
振り向くと、そこには暗黒のオーラを纏ったイザベラが立っていた。
「い、イザベラさん! これは、その、学校の運営資金をですね……!」
「没収です。全て」
イザベラの手が目にも留まらぬ速さで動き、ジャンの抱えていたブロマイドを全て物理的に回収した。
「……。イザベラさん。私の分は?」
こっそりミリーが尋ねるが、イザベラは「後で私の部屋に来なさい。……。検品済みのものを渡します」と、無表情のまま、自分の懐(一番安全な場所)にブロマイドの束をしまい込んだ。
講義が終わった後。
セリナは、夕焼けに染まる砂漠の地平線を、レオという名の少年と一緒に眺めていた。
「聖女様……。僕、魔力がないから、一生この村で砂を噛んで死ぬんだと思ってました。でも、アイゼン先生の言った通りなら、僕の手でも、機械を動かして火を起こせるんですね」
「……。当たり前じゃ。物理は差別をせん。……。理屈さえ知れば、誰の手の上でも石炭は燃え、水は噴き出す。……。お主のその手は、欠陥品などではないぞ。未来を造るための、精緻な道具じゃ」
レオは、自分の汚れを拭った小さな手をじっと見つめ、力強く頷いた。
「……。さて、わしも戻るとしようかの。アイゼンの理屈を聞きすぎて、知恵熱が出そうじゃわい」
セリナは伸びをしながら、空中要塞へと繋がるリフトに乗り込んだ。
灰色の教室で蒔かれた種が、いつか魔法という名の幻想を塗り替え、世界中に物理の火を灯す。
それは、どんな魔法よりも確かな、未来への航跡であった。
「……。……。ジャン、お主の売っていたもの、わしにも一枚見せてみい。……。……。なんじゃこの面は! 没収じゃ、物理的に焼き捨ててくれるわい!」
要塞内に、セリナの怒鳴り声と、それをなだめる仲間の笑い声が響き渡った。
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次回「精霊の沈黙、あるいは真空の理」。
高度三万メートル以上の極限。そこには精霊のささやきすら届かない「物理だけの世界」が待っています。お楽しみに。




