第十一話:野生の直感、あるいはサシャの咆哮
南方の大砂漠に位置する村『ナディ』は、かつての絶望が嘘のように、活気に満ち溢れていた。
井戸から絶え間なく溢れ出す水は、ニコラとジャックの手によって新設された物理配管を通り、村の隅々まで行き渡っている。ジャンが運び込んだ耐乾性の種子が蒔かれ、砂漠の土壌は物理的な灌漑システムによって少しずつ、しかし確実に再生の歩みを進めていた。
「聖女様、このお花あげる! 砂漠に一輪だけ咲いてたんだよ!」
「セリナ様、こっちの遊びも教えて! 鉄のお人形はどうやって動くの?」
要塞から降りたセリナ・アルスタインは、日除けの天幕の下で、大勢の子供たちに囲まれていた。
中身が六十五歳の老兵である彼女にとって、子供の純粋な攻勢は、教皇庁の魔導騎士団よりも対処が難しい。
「……。わしを拝んでも何も出んぞ。ほら、その花はイザベラにあげてくれ。……。鉄の人形……アーク・フェニールのことか? あれは魔法ではなく、魂の燃焼とギアの噛み合わせで動くのじゃ」
困惑しながらも、セリナは子供たちの差し出す砂の花を丁寧に受け取り、その頭を不器用な手付きで撫でた。その光景は、地上の民にとって、正に天から降り立った慈愛の聖女そのものであった。
一方、村の広場では、サシャが子供たちに英雄視されていた。
「サシャ姉さま、すごい! この大きなネジ、一人で回しちゃった!」
「あはは、これくらい簡単だよ! 私たちは物理を信じてるからね。みんなも、祈る暇があったら筋肉を鍛えなよ!」
サシャは故郷の子供たちに囲まれ、得意げに胸を張る。かつて「無魔力の不適合者」として村を出た彼女が、空飛ぶ要塞の精鋭パイロットとして帰還したことは、村の少年少女にとって最大の希望となっていた。
しかし、平和な時間は突如として、空の変貌によって終わりを告げた。
地平線の彼方、黄金色の砂漠が、一瞬にして漆黒の壁に飲み込まれた。巨大な砂嵐――スーパーセル。それは物理的な予測モデルを嘲笑うかのような速度で急速に発達し、村ナディを飲み込まんと迫っていた。
「あねご! 大変だよ、村への肥料と医療品を積んだ無人輸送機が、嵐の渦中に捕まった! このままだと墜落して、物資が全部砂に埋まっちゃう!」
サシャの叫びに、セリナは瞬時に「エース」の目に戻った。
空中要塞のブリッジでは、ポロとミリーが悲鳴のような報告を上げている。
「計算が合いません! 嵐の内部、局所的にマナの真空状態が発生し、空気密度が急激に変動しています。流速が時速一〇〇〇キロに迫る異常乱流……! 現在の物理モデルでは、突入後の生存ルートを算出できません!」
「アイゼン様、止めてください! 翼表面の境界層が完全に剥離し、レイノルズ数が臨界を超えています。今飛び込めば、機体は紙細工のように引き裂かれます!」
アイゼンが冷汗を流しながら、設計図を握り締める。
空気の粘性と慣性の比率を示すレイノルズ数 $Re = \frac{\rho v L}{\mu}$ が、砂の混入によって予測不能な値へと発散していた。計算上、そこは「死の空域」だった。
「理屈はいいよ! 私が行く!」
サシャが愛機『ケストレル』のエンジンを始動させた。アイゼンが無線越しに怒鳴る。
「無茶だ、サシャ! 航空力学が通用しない空間に飛び込むのは自殺行為だ!」
「サシャ姉さま、行かないで! 死んじゃうよ!」
子供たちの泣き声が響く中、サシャはコックピットの中で不敵に笑い、天幕の下にいるセリナを仰ぎ見た。
「あねご、許可を! 理屈で飛べないなら、私の鼻で飛んでやるよ!」
セリナは、舞い上がる砂塵の中で静かに立ち上がった。彼女の目には、サシャの背後に「風の道」が見えている野生の輝きが映っていた。
「……。……。理屈で飛べぬ空なら、野性に任せるしかあるまい。……。行け、サシャ。わしの茶が砂まみれになる前に、その『宝物』を連れ戻してこい」
「了解、あねご! 重力なんて、笑い飛ばしてくるよ!」
ドォォォォォォォォォン!!
ケストレルのアフターバーナーが咆哮し、サシャは真っ黒な嵐の壁へと突っ込んだ。
視界はゼロ。計器は異常な気圧変化で狂い、機体は数千トンの砂を孕んだ猛風に叩かれる。
「……見えた。こっちだ!」
サシャは計器を一切見なかった。彼女は、機体の震えと、砂が装甲を叩く音、そして空気の「匂い」だけで空を読んでいた。
乱流の渦中、翼の表面で境界層が剥離しようとする寸前、サシャは野生の直感でペダルを蹴り、フラップを極小単位で振動させた。
$$Re_{critical} \approx 5 \times 10^5$$
物理学が「翼の揚力が失われる」と定義する限界点。サシャは、風が牙を剥く瞬間に自ら機体を滑らせ、気流の「隙間」へと滑り込んでいく。それは、アイゼンの計算機では決して導き出せない、生命の躍動による変態機動だった。
嵐の中心で、激しく揺れる無人輸送機を視認する。
サシャは愛機のワイヤーを射出し、輸送機の主翼を強引に繋ぎ止めた。
「捕まえたよ、食いしん坊! さあ、帰るよ!」
二機分の重量を背負い、サシャは再び狂乱の気流へと挑む。
機体構造が悲鳴を上げ、断熱圧縮でキャノピーが熱を帯びる中、彼女は「咆哮」した。
その叫びに応えるように、ケストレルのエンジンがマッハを超えて唸りを上げ、嵐の壁を内側から食い破った。
……静寂。
嵐の壁を突き抜け、夕焼けに染まる南方の空へ、二つの影が飛び出した。
村ナディの広場に、ボロボロになりながらも誇らしげに舞い降りるケストレルと輸送機。
「あねご、ただいま! 肥料も薬も、全部無事だよ!」
コックピットから飛び出したサシャを、村の子供たちが「サシャ姉さま!」と叫びながら抱きしめた。
セリナは、砂まみれの機体に歩み寄り、サシャの肩を軽く叩いた。
「……。……。見事じゃった、サシャ。物理を説くわしが言うのもなんじゃが。お主の鼻だけは、数式でも解明できんわい」
「へへ、あねごに褒められるのが、一番のエネルギー源だからね!」
砂嵐が去り、星空が広がる砂漠の夜。
村には運び込まれた物資によって、新しい命の糧が届けられた。
南方拠点の青い光は、もはや単なる「点」ではなく、人々の想いと野生の力で結ばれた、強固な「線」へと変わっていた。
「……。……。イザベラ。次は北方へ戻るか、それとも西の工業地帯か。……。どちらにせよ、わしの茶に砂が入らぬよう、万全を期せよ」
セリナは夜空を見上げ、頼もしい部下たちの笑い声を聞きながら、静かに目を閉じた。
【後書き】
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次回「物理の学舎、あるいは灰色の教室」。
アイゼン教授による、魔法を粉砕する物理学の授業が始まります。お楽しみに。




