第十話:砂漠の井戸、あるいは流体力学の奇跡
空中要塞『アイアン・パレス・アルファ』は、どこまでも続く黄金の海――南方の大砂漠へと進路を取っていた。
成層圏を飛ぶ要塞内は快適に保たれているが、外界のセンサーが示す地表温度は五十度を超え、地熱によって生じた陽炎が空を歪めている。
「……。南方か。鉄山よりも熱気が酷いわい。……。イザベラ、もっと氷の入った茶はないのか」
セリナ・アルスタインは、観測デッキのベンチで項垂れていた。中身が老兵である彼女にとって、この湿度のない乾いた熱波は、関節の節々に響く。
「お嬢様、これ以上の冷分摂取は物理的な体温調節機能を損なう恐れがあります。適度な塩分を含んだ常温の水分。これが正解です」
イザベラが差し出したのは、氷のない、しかし計算された電解質を含む水だった。セリナは「……。分かっとるわい」と呟き、それを一気に飲み干した。
「あねご! 見て、あそこの村……。私の知り合いがいる村なんだ。みんな、もう動けてないよ」
第2小隊長サシャが、モニターに映し出された地上の惨状を指差して声を荒らげた。
砂塵に埋もれかけた村『ナディ』。そこでは、干上がった井戸を囲み、骨と皮ばかりになった民衆が力なく跪いている。その中央では、煌びやかな法衣に身を包んだ精霊教会の司祭が、雨乞いの儀式と称して村に残った最後の家畜――痩せ細った山羊を没収しようとしていた。
「サシャ、落ち着きなさい。……。。イザベラ、フェイ。あの村の連中は、もう祈る気力すら残っておらんようじゃが。あそこで歌って、何の意味がある」
セリナの問いに、フェイが機体調整用のタブレットを叩きながら不敵に微笑んだ。
「意味は大いにあります、師匠。物理は結果を約束しますが、絶望した人間はその結果を受け取る力すら失うものです。偶像が歌うのは、彼らの死んだ瞳に『注目』という名の電気を流すため。意識をこちらに向けさせ、教会の洗脳を遮断する……。これこそが、アイドル・プロパガンダの戦術的必然です」
「……。理屈は分かった。……。わしの不名誉は、あの連中の命の対価というわけじゃな」
セリナは重い腰を上げ、ハンガーへと向かった。
※※※
熱砂の村ナディに、アイアン・パレスから巨大な金属製のコンテナが投下された。
地響きと共に着地したその装置を、村人たちは虚ろな目で見上げた。彼らにはもう、驚く気力すら残っていない。
「なんだ、あの不浄な鉄の塊は! 儀式を邪魔する者は精霊の罰を受けるぞ!」
司祭が叫ぶ中、コンテナのハッチが開き、砂色の外套を羽織ったセリナが姿を現した。
「……。……。南方、ナディの皆。……。神を呼ぶ叫びは、この熱風にかき消されたようじゃな」
セリナがゆっくりと外套を脱ぎ捨てる。
現れたのは、フェイとイザベラが砂漠仕様に設計した『ソーラー・ホワイト』のドレスだった。光を反射する特殊な銀糸が織り込まれ、各部に配された金色の装飾が、砂漠の強烈な陽光を反射して神々しい輝きを放つ。
「あ、あねご……! 無理しないで、まずは水を見せてあげて!」
小型機から降り立ったサシャが村人たちに駆け寄り、かつての知人の手を取る。サシャの切実な声と、場違いなほど美しいセリナの姿に、死にかけていた村人たちの視線が、わずかに、しかし確実にセリナへと集中した。
「……。今からわしが歌うのは、奇跡への祈りではない。……。物理という名の、揺るぎない理じゃ」
セリナが歌い始めたのは、重厚な低音から始まる鎮魂歌。だがその裏では、装置内の巨大なシリンダーが吸気音を上げ始めた。
アイゼンが設計したこの揚水ポンプは、ピストンの往復運動によってシリンダー内を真空に近い状態にする。
[attachment_0](attachment)
物理的な真空を作り出すことで、地上を覆う大気圧 $P_{atm}$ が、地下にある水を押し上げ、井戸を逆流させる仕組みだ。
$$P_{atm} = \rho gh$$
セリナの歌声が最高潮に達し、物理的な振動が地面を震わせる。
村人たちは、その歌の美しさに聞き惚れているのではない。あまりにも力強い、生命の鼓動のような機械音が、彼らの生存本能を揺さぶっているのだ。
司祭が「無駄だ! 供物なしに水が出るはずが――」と叫び、その声をセリナの最後の一節が塗り潰した瞬間。
――ドォォォォォォォォォン!!
歌の終焉と同時に、シリンダーが臨界を突破した。
干上がっていたはずの井戸から、爆圧と共に濁流のような水が天高く噴き出した。
太陽の光を浴びて、砂漠に巨大な水の柱がそびえ立つ。
降り注ぐ冷たい水しぶきに、村人たちは最初、それが幻覚かのように呆然としていた。だが、肌を叩く物理的な質量と冷たさが、彼らに真実を告げた。
「水だ……! 水が、空から……!」
「精霊が許してくれたのか!? いや、あの少女が、あの機械が……!」
村人たちが狂喜乱舞し、泥まみれになりながら水を啜る。サシャもまた、村の子供たちを抱き抱え、涙を流しながら笑っていた。
「……。……。司祭よ。……。水は精霊が隠したのではない。単に、物理の理を忘れたお主らが、大気の力を引き出せなかっただけじゃ」
セリナはステージの上で、腰を抜かした司祭を見下ろした。
「……。サシャ。この装置の管理を村の連中に教えよ。……。レバーを引けば、いつでも水は出る。……。それが物理という名の、絶対的な約束じゃ」
砂漠の村に、教会の支配を打ち破る「物理の泉」が完成した。
魔法という曖昧な奇跡ではなく、鉄の機械がもたらす確かな信頼。
セリナは、水しぶきの中で歓声を上げる民衆に背を向け、再びアイアン・パレスへと帰還した。
「……。……。イザベラ、次は本当に、氷の入った茶を用意せえ」
セリナはそう呟き、満足そうに瞳を閉じた。
【後書き】
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次回「野生の直感、あるいはサシャの咆哮」。
砂漠の砂嵐を舞台に、サシャが物理の計算を超えた「野生」を見せます。お楽しみに。




