第九話:寡黙な盾、あるいはレンの誓い
空中要塞『アイアン・パレス・アルファ』の夜は、独特の静寂に包まれる。高度二万五〇〇〇メートルの成層圏では、風の音すら希薄だ。聞こえるのは、要塞の心臓部である石炭ボイラーが刻む重厚な鼓動と、空気清浄機が発する一定のハミングだけである。
「……。今夜は一段と冷えるわい。レンの奴、まだ戻らぬのか」
セリナ・アルスタインは、観測デッキのベンチに座り、毛布にくるまりながら最後の一杯の茶を啜っていた。
「セリナ様、レン隊長なら先ほどまでサシャさんと共に第一訓練場で調整を行っていたようです。もっとも、内容は大分、物理的な衝突だったようですが」
影から現れたイザベラが、完璧な所作で空になったセリナの茶碗を受け取った。
その頃、第一訓練場の片隅では、第1小隊長レンが椅子に深く腰掛け、石像のように固まっていた。彼の向かいには、満足そうに口元を拭う第2小隊長サシャの姿がある。
「あねごも言ってたよ、レン! 南方の拠点を守るなら、現地の熱さに慣れなきゃダメだって。はい、最後の一口! 特製サザン・デス・ペッパー入りの肉まんだよ!」
「…………」
レンの表情は、相変わらず鉄仮面のように無機質だ。しかし、その額からは大粒の汗が流れ、首筋は見たこともないほど赤く染まっている。サシャが無理やり食べさせた南方の超激辛料理。そのカプサイシンは、物理的な破壊力を持ってレンの粘膜を蹂躙していた。
「サシャ。セリナ様の教えを、食生活にまで適用するのは非合理的だ」
「あはは! でも顔色一つ変えないのは流算だね! さ、冷めないうちに全部食べて!」
レンは震える手で茶を掴み、一気に飲み干した。彼の胃壁では今、南方流体工学拠点も驚くほどの熱交換が行われている。だが、彼が弱音を吐くことはない。それが、セリナに忠誠を誓った「盾」としての意地だった。
サシャが去った後、レンは一人、薄暗いハンガーで愛機『ケストレル・カスタム』を見上げていた。三年前、この世界に「セリナ」として現れたばかりの彼女に拾われた日のことを思い出す。
当時のレンは、聖教騎士団を追放されたばかりだった。無魔力。精霊の加護を受けられぬ者は「欠陥品」として、家名も誇りも奪われた。雨の降る王都の路地裏で、泥を舐めていた彼に声をかけたのは、可憐な少女の姿をしながら、中身は熟練の老兵そのものであるセリナだった。
「……。魔力がない? 結構なことじゃ。物理の世界では、魔力などという不安定な要素は、計算を狂わせる不純物に過ぎん」
その言葉が、レンに理という名の光を与えた。セリナは彼をガッツの元へ連れていき、彼専用の「物理の盾」を造り上げた。
目の前に鎮座する『ケストレル・カスタム』は、その名の通り、量産型のケストレルとは一線を画す。機体色は隠密性と重厚さを兼ね備えた「マット・スレートグレー」。そこに第一小隊を示すフォレストグリーンのラインが鋭く走っている。
最大の特徴は、全身を覆う「積層物理装甲」だ。魔法を受け流すのではなく、高密度のタングステン合金とセラミックを幾層にも重ねることで、物理的な質量密度 $\rho = \frac{m}{V}$ を極限まで高めている。
左腕には、巨大な物理シールド「イージス・ピラー」が装備されている。これはただの盾ではない。表面には「爆発反応装甲」が内蔵されており、着弾した魔導弾を爆風で物理的に弾き飛ばす。さらに盾の先端には、衝撃波を一点に叩き込む「物理杭」が仕込まれていた。
突如、要塞の警報が短く鳴り響いた。
「緊急警報。甲板部、第三エアロックより侵入者。識別信号、教皇庁特務審問官、ゴースト・ウォーカー」
ミリーの声がスピーカーから響く。侵入者は一人。魔法によって光を屈折させ、物理的な障壁すら透過して進む、対・要塞用の暗殺特化型魔導師だった。
「……。レンか。夜食の時間に無粋な客じゃな」
通信回線からセリナの声が届く。
「セリナ様、ご安心を。害虫の駆除は、私の役目です」
レンは既に、愛機のコックピットへと飛び乗っていた。要塞のメイン通路、光学迷彩に身を包んだ暗殺者が、音もなく進んでいた。彼の放つ魔法は、周囲の物質の原子間隙を僅かに広げ、扉や壁をすり抜けることを可能にする術式。だが、その先で、巨躯が通路を完全に塞いでいた。
レンのケストレルだ。
「馬鹿め、無魔力者の鉄屑が。物理的な壁など、私の透過魔法の前では無意味――」
暗殺者が影となって通り抜けようとした瞬間、彼の魔法が激しい不協和音を上げて霧散した。
「ぐ、あぁっ!? 何だ、この密度は! 原子が動かない!?」
ケストレルの超高密度装甲には、魔法が付け入る隙間など一ミクロンも存在しない。物理杭を内蔵した重厚な盾「イージス・ピラー」が、魔法の浸透をその質量で完封しているのだ。
「残念ながら。君の言う奇跡は、物理の重みの前では単なるノイズに過ぎない」
レンが操縦桿を押し込む。ケストレルの左腕、イージス・ピラーからパイルバンカーが射出された。火薬の爆発エネルギーを一点に凝縮した鋼鉄の杭が、魔法障壁ごと暗殺者を物理的に粉砕した。
ハンガーに戻ったレンを、セリナが待っていた。
「……。ご苦労じゃったな、レン。激辛の肉まんの次は、魔法の刺客か。忙しい奴じゃ」
「セリナ様。私は、かつて魔力がないという理由で世界に捨てられました。ですが今、この重たい装甲こそが、私の居場所です」
レンは機体から降り、セリナの前で深く頭を下げた。
「私はあなたの盾です。たとえ空が魔法で埋め尽くされようとも、私の質量だけは、一歩も退きません」
「……。わかっておるわい。……。……。さて、冷めぬうちにこれを飲め。イザベラが持たせてくれた、胃薬入りの茶じゃ」
「感謝します」
レンが茶を口にする。少しだけ胃の熱気が引き、代わりに温かい理の感覚が全身を満たしていく。彼は再び、静かに誓った。この銀色の少女が創り出す、誰もが自分の足で立てる世界。それを守るための重石であり続けることを。
【後書き】
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次回「砂漠の井戸、あるいは流体力学の奇跡」。
お楽しみに。




