第七話:空中空母の日常、あるいは高度二万五千の祝杯
絶対零度の虚空を、鉄の巨躯が滑るように進んでいく。
空中要塞『アイアン・パレス・アルファ』の観測デッキは、機内の暖房システムが発する微かな振動と、外界の猛烈な気流が防弾ガラスを叩く風切り音に満たされていた。
セリナ・アルスタインは、いつものように展望用の手すりに寄りかかり、手にした茶碗から立ち昇る湯気を見つめていた。
「……。ありがたくいただくわい、ガッツ。高度二万五千の冷気で飲む茶は、格別の味がするわい」
背後で無骨なスパナを腰に差したガッツが、鼻を鳴らしながら自分用の茶を啜った。
「へっ、嬢ちゃんにそう言ってもらえると、ボイラー室で煤塗れになって茶葉を煎った甲斐があるってもんだぜ。だがよ、さっきの無人機……。ありゃあ、胸糞悪かったな。俺たちがニコラたちに教えてる基礎が、あんな『電池』にされてるのを見ると、胃が焼けそうだぜ」
「……。教皇庁の古狸どもも必死なのじゃろう。魔法という名の奇跡に陰りが見え始めた。……。わしらの理を盗んででも、その地位を守りたいというわけじゃ」
「盗めるもんなら盗んでみやがれだ。本物の物理は、ただ形を真似りゃいいってもんじゃねぇことを、次はたっぷり教えてやるよ」
ガッツは大きな手で自分の頭を乱暴に掻いた。その瞳には、かつての落ちこぼれ整備兵としての卑屈さは微塵もなく、物理の先端を走る職人としての誇りが燃えていた。
場所を変えて、艦内第一整備ハンガー。
そこでは、かつて「不適合(F)クラス」と呼ばれ、魔法の恩恵を受けられずに社会の底辺を這いずっていた少年少女たちが、狂気的な熱量で作業に没頭していた。
「ジャック! このクランクシャフトの偏心、あと〇・〇一ミリ追い込めるはずだ。教皇庁の出来損ない共に、本物の切削精度を見せてやろうぜ」
ニコラがマイクロメーターを片手に叫ぶ。かつて繊細な魔力操作ができずに「役立たず」と罵られた彼女の指先は、今や物理的な金属加工において、アイアン・パレス最強の精度を誇っていた。
「わかってるよ、ニコラ。鍛造の段階から密度を均一に詰めてある。セリナ様を乗せてマッハ三で振り回しても、一ミリも歪まない鋼を打ってやる。教皇庁の偽物なんかに負けてたまるかよ!」
ジャックが巨大なハンマーを振り下ろす。その度に、物理的な衝撃がハンガーの床を震わせ、魔法の粒子とは無縁の「確かな音」が響き渡った。
そこへ、物資調達担当のジャンが、風呂敷に包まれた何かを抱えて小走りでやってきた。
「師匠! 見てください、これ! 西方の闇市ルートで手に入れた、本物のコーヒー豆です。しかも、精霊の祝福なんか受けていない、純粋な物理栽培の極上品ですよ!」
セリナの姿を見つけるなり、ジャンは相好を崩して駆け寄った。
「……。ほう、コーヒーか。香ばしい匂いじゃな。ジャン、お主の鼻は相変わらず大したものじゃ」
「光栄です! すぐに挽きますから。イザベラさん、これ、あのお嬢様の特別なティータイムに出してあげてくださいよ!」
「ジャン。お嬢様の健康管理は私の管轄です。成分検査もせずに、どこの馬の骨とも知れぬ豆を献上するなど。……。ですが、香りは認めましょう。今回は特別に許可します」
イザベラの言葉にジャンが首をすくめたが、ハンガーの空気はどこか明るかった。彼らにとって、この空中要塞はもはや戦場ではなく、自分たちの「理」が肯定される唯一の故郷になりつつあった。
アイアン・パレスの心臓部、主機関室へと続く通路。
そこでは、理論物理学者のアイゼンとガッツが、巨大な設計図を床に広げて、今にも取っ組み合いを始めそうな勢いで議論を戦わせていた。
「ガッツ! だから言っているでしょう! マッハ五、極超音速の領域では、既存のタービンブレードでは耐熱限界を超える。吸気口の形状そのものを流体力学的に再定義しなければ、セリナを熱の壁で焼き殺すことになりますよ!」
「うるせぇ、理屈屋! 計算機の上じゃそうかもしれねぇが、現場の勘じゃ、この冷却パイプをもう一本増やせば十分だ。セリナの操縦は計算通りにはいかねぇ。遊びを作っておかねぇと、いざって時に融通が利かなくなるんだよ!」
「その『遊び』が事故を招くと言っているんです! セリナを最高の空へ送り出すのは、完璧な数式のみです!」
「数式で空が飛べるなら、今頃教皇庁が世界を支配してらぁ! 空を飛ぶのは鋼と油、そしてエースの根性だ!」
二人の老人の怒鳴り合いに、セリナは苦笑しながら近づいた。
「……。二人とも、そこまでにせえ。わしは二人分のこだわりを背負って飛ぶつもりじゃ。アイゼンの理論で道を拓き、ガッツの腕で命を預ける。それだけでは不服か」
セリナの言葉に、二人は顔を見合わせ、気まずそうに視線を逸らした。
「……。嬢ちゃんがそう言うなら、仕方ねぇ。アイゼン、お前の理論を半分だけ取り入れてやるよ」
「……。半分ではなく、七割は私の計算に従ってもらいますよ。セリナ、あなたのために、人類史上最高速の『脚』を準備してみせます」
「……。期待しておるぞ。わしをマッハ五の世界へ連れて行けるのは、世界で二人だけじゃからな」
その夜。空中要塞の全区画に、セリナの静かな声が流れた。
「……。全艦の皆。無人機との戦い、大儀であった。我ら物理航空団にとって、今日はただの勝利ではない。物理の理が、魔法の神話を揺るがした記念すべき日じゃ」
艦内の各所で、作業を止めた少年少女たちがスピーカーを見上げる。
「……。精霊に祈らぬお主たちの手が、この要塞を動かし、わしの翼を支えておる。魔法を持たぬ不適合者、かつてそう呼ばれたお主らこそが、今やこの空の開拓者じゃ。今夜だけは、己の腕を誇り、祝杯をあげよ。わしも、ジャンの持ってきた得体の知れぬコーヒーを楽しませてもらうわい」
短い放送が終わった瞬間、アイアン・パレスの各区画から、地鳴りのような歓声が上がった。
食堂では安酒やジャンが手配した嗜好品が並び、整備員たちは肩を組んで物理の勝利を祝った。
だが、その熱狂から離れたブリッジの一隅。
イザベラとクラウスは、モニターに映し出された無人機の分解データを、冷徹な眼差しで解析し続けていた。
「イザベラ殿。このレムレースの制御コア。教皇庁の技術だけではありません。禁忌の物理融合。異端審問官リヒターの影を感じます」
「ええ。リヒターは魔法の権威を守るためなら、魔法そのものを歪めることすら厭わない男。今回の無人機は、あくまで観測用の露払いに過ぎないでしょう」
「セリナ様のアイドル活動による『点と線』の革命。それが加速すればするほど、教皇庁の反撃も苛烈になる。次に来るのは、おそらく――」
二人の密談を、デッキから戻ったセリナの足音が遮った。
「……。先のことを案じても、空の上では風向き一つで状況は変わる。今は、若造どもの笑い声を聞きながら、次の空へ備えるだけじゃ」
セリナは、カップに残った冷めたコーヒーを飲み干した。高度二万五〇〇〇メートル。
星空がかつてないほど近く、しかし地上よりも遥かに厳しい冷気が支配する場所。
そこに集う、物理を信じる者たちの熱気だけが、暗雲漂う世界の行く末を照らす唯一の火種だった。
「……。……。明日は、北の空へ舵を切る。わしの翼、しっかりと磨いておけよ、若造ども」
銀色の少女は、暗い成層圏の向こうを見据え、静かに、しかし力強くそう呟いた。
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次回お楽しみに。




