第三十二話:歯車と美酒、あるいは老兵たちの述懐
短めです
移動母艦『アイアン・パレス』の深夜。
巨大な物理エンジンの唸りは、深い眠りにつく獣の吐息のように低く、艦内に響いていた。メイン・整備デッキには、作業灯が落とす長い影と、重厚な油の匂いが沈殿している。
その片隅。使い込まれた作業机で、ガッツは一人、黙々とボルトを磨いていた。
カチ、カチ、という金属音だけが響く静寂。そこへ、場違いに整った足音が近づいてきた。
「……何の用だ、理論屋。ここは油まみれの現場だ。あんたの汚したくない綺麗な服には毒だろうよ」
ガッツは顔を上げず、吐き捨てるように言った。
アイゼンは無言のまま、机の上に一本の古びた酒瓶を置いた。かつての帝国で愛飲されていた、度数の強い、しかし雑味の多い労働者向けの蒸留酒だ。
「……貴様が、これを好んでいたと思い出してな」
「……ふん。よく覚えているもんだ。あんたが設計したあの『棺桶』の中でも、こいつだけはよく回っていたからな」
ガッツの言葉に、アイゼンの眉がぴくりと動いた。
二人の間に、氷のような冷たい沈黙が流れる。
かつて。アイゼンが王宮魔導学院で異端の研究を始めた頃、ガッツはその技術を形にする一番弟子であり、親友であった「ある男」と共にいた。
アイゼンの計算は完璧だった。しかし、当時の素材と魔法補完の未熟さが、物理の壁を越えられなかった。
試験飛行。ガッツの親友が乗り込んだアイゼン設計の機体は、空中分解し、親友は帰らぬ人となった。
ガッツは酒瓶を掴み、乱暴に栓を抜くと、手近な煤けたグラスに注いだ。
「あんたの計算式は、あいつを殺した。……俺は、あんたを一生許すつもりはねえ。今、この艦にいるのも、セリナお嬢様の才能を無駄死にさせねえためだ。あんたのためじゃねえ」
「……分かっている。許しなど、初めから乞うてはおらん」
アイゼンは、ガッツの向かいの丸椅子に腰を下ろした。
彼はグラスに手を触れず、天井に吊るされた白銀の翼『アーク・フェニールⅡ』を見上げた。
「……セリナ・アルスタイン。あの少女は、怪物だ。魔法の予兆を一切持たず、ただ物理の理だけで空を掴む。……私の理論が、あの子という依り代を得て、ようやく具現化した。……だが、それを支えたのは、お前の執念だ」
アイゼンは皮肉めいた笑みを浮かべた。
「ジャックが叩き、ニコラが削り、お前が組み上げたあの機体フレーム……。かつて私の機体が壊れた場所で、あの機体は笑いながら空を割った。……私の数式を、お前の鉄が救ったのだ。皮肉なものだな」
ガッツは酒を煽り、喉を焼く熱さに目を細めた。
「……あの子の操縦は、何かがおかしい。まるで、何十年も空を飛んできた『化け物』が中にいるような動きだ。……ただの天才じゃ説明がつかねえ。俺たちは、とんでもないものを育てちまったのかもしれねえな」
ガッツはセリナの正体が「エドワード・グレイ」だとは微塵も思っていない。ただ、その異常なまでの「空への習熟」に、畏怖を感じていた。
「化け物……か。確かにそうかもしれん。……だが、その化け物を、私は世界の頂点まで飛ばしてやりたい。……ガッツ、あの子を殺すな。お前のハンマーで、あの翼を、絶対に折らせるな」
「……あんたに言われるまでもねえよ」
ガッツは残りの酒をアイゼンのグラスに注ぎ、突き出した。
アイゼンはそれを手に取り、一気に飲み干す。
喉を焼く苦味。それは、かつて彼らが共有し、そして砕け散った「夢」の味だった。
二人は、それ以上言葉を交わさなかった。
和解したわけではない。恨みも、後悔も、血を流したままそこにある。
ただ、油にまみれた老兵と、理に憑かれた老学者は、セリナという唯一の希望を支えるためだけに、一時、同じ地獄の炎で暖を取る。
深夜のデッキ。
沈黙の中で磨かれるボルトの音だけが、不器用な誓いのように響き続けていた。
老人しか出てきません。
次で幕間も最後。
完全な二部完結です。




