第二十九話:聖女の凱旋、あるいは決別の空
王都ナハトを揺らした物理の衝撃波の余韻が、ゆっくりと、しかし確実に瓦礫の街を飲み込んでいった。
空からは、粉砕された「王宮多重絶対魔法障壁」の残滓が、まるで祝福を拒絶された冬の雪のように、キラキラと残酷に舞い落ちている。
その静寂の中で、王都の住人、近衛騎士団、そして生き残った魔導師たちは、首が折れんばかりに空を仰いでいた。
そこには、夕陽を背に受け、鈍い鉄の光を放つ白銀の猛禽――『アーク・フェニールⅡ』が、重力を嘲笑うように静止していた。
「……さて。最後に、少しばかり野暮用を済ませるとしようか」
セリナは、操縦桿を静かに前方に倒した。
双発の物理駆動エンジンが、空気を切り裂く鋭い風切り音を上げ、機体は急降下を開始する。目標は、王都の北側に位置する、ひときわ荘厳で、同時に古臭い石造りの邸宅――アルスタイン伯爵邸であった。
邸宅の広大なテラスでは、一人の男が腰を抜かし、石床に這いつくばっていた。
アルスタイン伯爵。
王国でも屈指の魔導貴族であり、セリナを「魔力を持たぬ出来損ない」として地下に追いやり、道具としてさえ見なさなかった実の父親である。
「ひ……っ、ひいいいいいっ!」
目前に迫る、数トンの質量を持つ鉄の塊。
魔法の光を一切纏わず、ただ暴力的なまでの熱風と、不気味な油の匂いを振りまきながら接近する白銀の機体に対し、伯爵を護衛する近衛魔導師たちは、魔法を放つことすら忘れて硬直していた。
彼らが信奉してきた「魔法の理」は、先ほど高度二万メートルから降ってきた物理の衝撃によって、文字通り粉砕されていたからだ。
アーク・フェニールⅡは、テラスのわずか数メートル先でピタリと停止し、その巨大な機首を伯爵へと向けた。
セリナは、拡声魔法の出力を最大に上げ、機体外部へと声を放った。その声は、かつての怯えた少女のものではなく、幾多の死線を越えた老兵の重みを伴っていた。
「――アルスタイン伯爵。お主の望んだ通りの『出来損ない』が、お主の信じた世界を壊しに来たぞ。……良い顔をしておるな。その恐怖こそが、お主が否定し続けた『物理の重み』じゃ」
「セ……セリナなのか……!? その化け物のような鉄の塊に乗っているのは、本当にお前なのか……!」
伯爵は震える声で叫んだ。彼にとって、目の前の光景は悪夢以外の何物でもなかった。自分が「価値なし」と切り捨てたはずの娘が、王国軍を蹂躙し、帝国の魔神を屠り、今や世界の理を書き換えようとしている。
「……案ずるな。お主を殺しに来たわけではない。……ただ、教えてやろうと思ってな。私はもう、お主の認める『聖女』などという小さな枠には興味がない。私は、私の理で空を掴んだ。お主の魔法の檻などは、この翼の前ではただの蜘蛛の巣に過ぎん」
セリナの冷徹な宣告が、伯爵のプライドを根底から打ち砕く。
その時、王都の各所から生き残った王国軍の魔導機兵たちが、最後の意地を見せるように上昇を開始した。彼らは、セリナを包囲しようと、不揃いな光の翼を広げる。
「師匠! 王国軍、残存部隊が動きました! 座標三三から一二、包囲網を形成しようとしています!」
エレーナの鋭い声が、通信機越しに響く。
「……ふむ。まだ授業を欲しがる生徒がおるようじゃな。……Fクラスの面々よ、最終試験といこうか。……マニュアル操作、全解放!」
セリナがスイッチを叩くと、機体各所の制御弁が次々と開き、大気を強引に吸い込み始めた。
ここからが、魔法に頼り切った者たちが最も驚愕する「物理の真髄」であった。
セリナは、操縦桿を斜め後方に引き、同時に左右のペダルを不規則に踏み分けた。
――グォォォォォォォッ!!
アーク・フェニールⅡは、慣性法則を逆手に取った「物理的な横滑り(サイドスリップ)」を開始した。
魔法機であれば、姿勢制御のために精霊の加護が必要な場面だ。だがセリナは、あえて機体を失速寸前の角度まで傾け、空気の反動を「足場」にするようにして、最小半径での急旋回を披露した。
「な……!? 落ちるぞ! あんな機動、物理的に不可能なはずだ!」
王国軍のパイロットが叫ぶ。だが、彼らが狙いを定めた場所には、すでに白銀の姿はなかった。
「ハンス、エンジンの燃料噴射を一時的にカット! 重力落下を利用して潜り込むぞ!」
「了解だ師匠! ぶっ壊れるまで付き合ってやるぜ!」
ハンスが唸り、物理エンジンの爆音が一瞬途絶える。
機体は自由落下の重力エネルギーをすべて旋回性能へと変換し、包囲する王国軍機の「真下」へと潜り込んだ。
「ルミエ、冷却圧最大! ニコラ、ジャック、お主らのベアリングが溶ける寸前まで回すぞ!」
「やってます! 第十七号冷却液、オーバーフロー覚悟で循環させます!」
「ベアリングは大丈夫だ師匠! 俺が削り出した鋼を信じろ!」
ポロとミリーがセリナの指先の神経パルスをミリ秒単位で同期させ、ガッツとジャンが供給するエネルギーが機体各所の可動翼を狂ったように動かす。
イザベラは冷静に、セリナの眼球の動き(アイトラッキング)から次の一手を予測し、エレーナがその機動によって生じる機体へのダメージをリアルタイムで修正計算する。
物理。
それは単なる機械の力ではない。十二人の専門家と、一人の天才パイロット。彼らの「知識」と「技術」と「執念」が、糸のように細く、かつ鋼のように強く繋がって初めて成し遂げられる、人知の極致。
アーク・フェニールⅡは、王国軍の包囲網を嘲笑うかのように、空中に「物理の糸」で巨大な円を描いた。
一機の機体が、数十機の魔法機を翻弄する。
魔法の自動追尾が、セリナの「不規則すぎる慣性移動」についていけず、次々と空中でロックを外していく。
「……さらばじゃ、王国軍。そして、さようなら、アルスタイン伯爵。……お主たちの空は、あまりに狭すぎた」
セリナは、最後に王都の象徴である大聖堂の真上で、機首を垂直に跳ね上げた。
スロットル全開。
アフターバーナーの炎が、夕闇の空を切り裂く。
ドォォォォォォォォォォォォォンッ!!
王都に二度目の衝撃波が響き渡る。
それは破壊のためではなく、この世界との「決別」を告げるための号砲であった。
白銀の猛禽は、王都の人々に強烈な油の匂いと、耳を劈く物理の咆哮を焼き付けたまま、瞬く間に雲の彼方――高度二万メートルの『灰色の夢』へと消えていった。
地上には、茫然自失の伯爵と、武器を落とした騎士たち。
そして、夕陽に照らされた一筋の飛行機雲だけが、王国の歴史の終わりと、新たな伝説の始まりを告げるように、長く、白く、空を割っていた。
セリナ・アルスタイン。
否、エドワード・グレイの魂を宿した「鉄と油の聖女」の凱旋は、世界を物理の真理へと叩き落として幕を閉じた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
Fクラス12名全員がそれぞれの持ち場(計算、冷却、出力、規律)でセリナを支え、魔法機には不可能な「慣性機動」を成功させる描写は、これまでの旅路の集大成です。
魔法の光ではなく、油の匂いを残して去るという演出に、本作の美学を詰め込みました。
面白い、続きが気になる! と思っていただけましたら、ぜひブックマークや評価、感想での応援をよろしくお願いいたします。皆様の熱い応援が、セリナの翼をさらに高み、未知の第三部へと運びます!
第三十話(第二部完結)「鉄と油の聖女、あるいは新たなる航跡」。
お楽しみに!




