第十九話:灰色の夢、あるいは高度二万の孤独
地下ドックの分厚い防壁が左右に割れ、そこから漏れ出した朝の光が、新生『アーク・フェニールⅡ』の姿を冷徹に照らし出した。
一か月前、白銀の美しさを誇っていた機体は、今や鈍い光を放つ「鉄塊」へと変貌していた。ジャンが拾い集めた『対熱重合金』――魔力を一切通さず、精霊の加護を拒絶する「呪われた鉄」を全身に纏ったその姿は、高貴な騎士というよりは、獲物を屠るためだけに研がれた無骨な凶器に近い。
「……ふむ。少し重くなったが、これくらいの方が空の風に負けんでいい。」
セリナは、タイトなパイロットスーツに包まれた体をシートに深く沈め、操縦桿の感触を確かめた。
指先に伝わるのは、以前の魔法銀フレームのような「しなり」ではない。微動だにしない、剛の拒絶だ。ニコラがコンマ数ミクロンの精度で削り出し、ガッツが情熱と共に叩き込んだこの「骨」こそが、これから挑む極限状態での唯一の命綱となる。
「……師匠。各系統、オールグリーンです。物理冷却循環系の圧力も規定値内。……ですが、高度一万五〇〇〇を超えれば、大気中の魔素は極端に薄くなります。そこから先、頼れるのは師匠の『腕』と、私が、私たちが叩き上げたこの『鉄』だけです。……どうか、無理だけは。いえ、必ず、笑顔で戻ってきてください。」
通信機から聞こえるフェイの声は、冷静を装いながらも、その奥底に潜む狂気的なまでの期待と不安を隠しきれていなかった。
彼女にとって、セリナが向かう場所は聖域であり、同時に自らの技術が師匠を守り抜けるかを問われる、神なき審判の場でもあるのだ。
「……案ずるな、フェイ。お主の作った翼が。私を見捨てるはずがなかろう。」
セリナはスロットルを静かに、だが一気に最奥まで押し込んだ。
ドォォォォォォォォッ!!
腹の底を揺さぶるような重低音。精霊を「対話の相手」ではなく「動力源(薪)」として使い潰す双発の物理駆動エンジンが、大気を震わせて咆哮を上げる。機体は滑走路をわずか数メートルで蹴り飛ばし、垂直に近い角度で夜明けの空へと突き刺さった。
高度三〇〇〇、五〇〇〇。
雲海を突き抜け、世界は鮮やかな蒼へと塗り替えられる。
高度一万メートルを突破した時、最初の異変が訪れた。
「師匠、高度一万二〇〇〇を通過。魔素濃度、急激に低下中。……精霊たちが、震えています。」
ポロの報告通り、動力部から漏れる魔力の光が弱まり、機体全体に不規則な振動が伝わり始める。
王国軍の最新鋭機であっても、この高度は「死の領域」だ。彼らの機体は精霊の加護による揚力補完と姿勢制御に依存している。大気中の魔素が薄くなれば、精霊は呼吸を止め、魔法の翼はただの無駄な重量物へと成り果てる。
「……構わん。精霊(薪)が足りぬなら。物理の風を。食らわせるまでじゃ。」
セリナは不敵に微笑み、サブスロットルを叩いた。
『アーク・フェニールⅡ』に搭載されたタービンエンジンは、魔法機が喘ぐこの薄い空気を物理的に強引に吸い込み、圧縮し、爆発させる。精霊の意思など介在しない。ただの流体力学と熱力学の連鎖。魔力の枯渇など、この鋼の心臓には関係のない話であった。
「高度一万五〇〇〇。……ここからが。本当の『空』じゃ。」
空の色が、蒼から濃紺へと変色を始める。
機体周囲の魔素が完全に消失した。動力源として詰め込まれた精霊たちは、もはや悲鳴を上げることすらできず、セリナの圧倒的な支配下で、ただ熱を供給し続ける「生きた部品」へと還元されていた。
マッハ一・二、一・五。
一か月前、機体をバラバラにしようとしたあの激しい振動は、もう起こらない。
ニコラが削り出した『対熱重合金』のフレームが、大気の暴力的な圧力を嘲笑うかのように受け流している。魔法銀であれば熱で歪み、精霊が守りきれずに破綻していたであろうその限界点を、物理の剛性が踏み越えていく。
「師匠! 外部装甲温度、五〇〇度を突破! 物理冷却系、循環圧力を二割増しにします!」
地下ドックでモニターを見守るルミエとミリーが、必死に数値を叫ぶ。
極低温の外気と、超音速による断熱圧縮。その極端な二律背反が機体を蝕もうとする。だが、機体各所に張り巡らされた毛細血管のような冷却管は、フェイの執念そのものだった。ルミエが調合した特殊冷却液が熱を物理的に循環させ、エンジンの排熱と共に外部へと強制的に排除していく。
「……高度二万に到達。」
セリナの囁きと共に、世界から音が消えた。
空の色は黒に近い「灰色」へと沈んでいた。成層圏。
眼下には、丸みを帯びた地平線が広がり、そこには数多の魔法文明が築き上げた国家が、ちっぽけな模型のように転がっている。
セリナは、ふと前世の記憶をなぞった。
伝説のエース、エドワード・グレイ。
かつて彼が、旧世代の未熟な機体で到達を目指し、そして酸素不足と凍結によって命を落としかけた「灰色の夢」の場所。
魔法がこの世に現れる前、かつての時代に追い求めた理想の頂が、今、十三歳の少女の瞳に映し出されていた。
「……ようやく来たぞ、エドワード。お主が見たかった空は、こんなにも静かじゃったか。」
通信機を通じてドックの面々にも届いたその声は、震えていた。
フェイは、モニターに映し出される「高度二万一三〇〇、時速二〇〇〇キロメートル」という信じがたい数値を見つめながら、拳を白くなるほど固く握りしめた。
師匠が、自分たちの手の届かない高みへと至った。
魔法の恩恵を拒絶し、自分たちが叩き上げた鉄と、自分たちが繋いだ油だけで、神の領域へ。
それは誇らしく、そして同時に、いつか自分たちが作り上げたこの機体が、セリナをどこか帰ってこられない遠い場所へ連れ去ってしまうのではないかという、身を切るような恐怖でもあった。
「師匠……機体状況、安定しています。……ですが、今の機速では、旋回半径が王国軍の常識を逸脱します。機体の慣性を、あなたの腕でねじ伏せてください。」
「……分かっておるよ、フェイ。この重みこそが、私が空にいる証じゃ。」
セリナは、コックピットの脇に置かれた水筒を手に取った。
中身は、筆頭侍女イザベラが持たせてくれた、すっかり冷めたアールグレイだ。
魔法の届かない、灰色の空の真ん中で、セリナは優雅にその茶を啜った。
地上では、王国軍の誇る魔導レーダーたちが、空に描かれた一筋の飛行機雲を捉えようとして、ありえない数値に混乱を極めていることだろう。彼らにとって、この高度を、この速度で飛ぶ物体は「存在してはならないバグ」でしかない。
「……ふむ。冷めてもお主の茶は旨いのう、イザベラ。……さあ、王国軍の連中に教えてやるとしようか。お主たちが守り抜こうとしている魔法の檻は、この高さからは、あまりに脆く見えるということをな。」
白銀と鉄の猛禽は、王国の監視網すら届かない高空から、次なる標的を見据えた。
眼下、遥か彼方。
そこには、王国軍の驕りと、帝国の野心が激突する戦域が、嵐の前の静けさを保っていた。
セリナはゆっくりと操縦桿を倒す。
物理の理を纏った死神は、かつてない質量と速度を武器に、偽りの平和を享受する地上へと、静かに機首を向けた。
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第二十話「王国の驕り、あるいは帝国の牙」。
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