第十八話:ひと月の雌伏、あるいは油にまみれた静寂
白銀の翼が、陽炎の立つ地下ドックの滑走路に滑り込んだ。
双発エンジンの咆哮が止まり、静寂が訪れた瞬間に響いたのは、機体全体が悲鳴を上げるようなパキパキという金属の収縮音だった。音速の壁を突き破り、断熱圧縮の熱に晒された機体は、今や触れることすら躊躇われるほどの熱量を帯びている。
キャノピーが開くと同時に、タラップを駆け上がったのは主任メカニックのフェイだった。
彼女は一瞬、セリナを包む熱気に気圧されたように足を止めたが、すぐにいつもの冷静で、どこか狂気的なまでに澄んだ瞳を取り戻した。
「……お帰りなさいませ、師匠。まずは、これを。」
フェイから差し出されたのは、氷でキンキンに冷やされたお茶と、濡れたタオルだった。
セリナがそれを受け取り、喉を鳴らして茶を飲み干す。その様子を、フェイは祈りを捧げる信徒のような敬虔さで見守りつつ、素早くセリナの四肢に触れた。
「指先の末端まで血流の乱れはありませんね。……ですが、この機体は師匠に不必要な負担を強いました。師匠が完璧な機動を描こうとしているのに、フレームが追いつかず、振動となって師匠の腕を汚した。……これは私の、整備班の責任です。」
「……何を言うか、フェイ。この娘はよく耐えてくれたよ。マッハ一・五……魔法抜きの裸の物理で。よくぞ空を裂いてくれた。」
セリナが愛おしそうに計器盤を撫でる。だが、その指先が触れた魔法銀の装甲には、微細な熱疲労のクラックが無数に走っていた。
コックピットを降りたセリナを待っていたのは、沈痛な面持ちのアイゼンとガッツ、そしてFクラスの面々だった。
「セリナ。データを見たぞ。マッハ一・二を超えたあたりからのフラッター(異常振動)は、もはや操縦の域を超えている。王国軍が最高級と謳うこの魔法銀フレームでは、純粋な物理衝撃と熱の蓄積に耐えられんのだ。」
アイゼンが忌々しげに吐き捨てる。
魔法銀は魔力伝導率には優れるが、魔力が介在しない「純粋な力」の前では、ただの柔らかい銀細工に過ぎない。王国軍の『魔法至上主義』が、素材の面でもセリナの翼を縛っていた。
その沈黙を破ったのは、調達担当のジャンが軽トラックで運び込んできた「ゴミの山」だった。
「――へへっ。なら、こいつの出番ですよ、師匠。」
ジャンの持ってきたインゴットは、赤錆に覆われ、魔力の輝きなど欠片もない無骨な鉄塊だった。
「十年前に王国軍がお蔵入りさせた『対熱重合金』です。魔力伝導率がゼロ、つまり魔法を一切通さないから『呪われた鉄』として廃棄場に埋もれてた代物ですよ。でも、硬度と融点だけなら大陸一だ。魔法を使わねえ俺たちには、これ以上ない最高のご馳走でしょう?」
セリナは、その重苦しい鉄塊を指先で弾いた。
キンッ、という、魔法の響きを一切含まない、重く鋭い物理の音がドックに木霊する。
「……いい音じゃ。魔法に嫌われた素材こそ、我らには相応しい。」
そこから、ドックは「沈黙の戦場」へと変貌した。一か月の雌伏、その一分一秒が、魔法の理を物理で書き換えるための儀式となった。
精密加工担当のニコラは、旋盤の前に籠りきりとなった。魔法回路を刻む必要がない分、彼はコンマ数ミクロンの精度で超硬合金を削り出すことに心血を注いだ。
「魔法に頼らねえからこそ、このネジ一本に俺の魂が乗るんだ。」
火花を散らす旋盤の音は、夜通しドックに響き続けた。
電装系のミリーとポロは、セリナの指先の微細な動きを「遅延ゼロ」でエンジンに伝えるため、制御プログラムのコードを狂ったように書き換えていく。人間計算機と呼ばれるエレーナが傍らで複雑な流体計算の数式を叫び、それをルミエが調合した「物理冷却液」の循環経路へと反映させていく。
大型組立担当のハンスが巨大なエンジンを持ち上げ、ガッツとジャックがハンマーで新たなフレームを叩き出す。魔法による接合ではない。リベットを打ち込み、ボルトを締め上げる、純粋な力学による結合だ。
セリナもまた、油にまみれた作業着のまま、かつて伝説のエースとして空を制した記憶を頼りに、図面へと鉛筆を走らせ続けた。
そんなセリナの元へ、筆頭侍女のイザベラが厳しい顔で歩み寄る。
「お嬢様。……いえ、セリナ様。どれほど油にまみれようとも、ティータイムの品格だけは失ってはいけません。規律こそが、極限の状態でお嬢様を支える背骨となるのですから。」
差し出されたのは、最高級の茶葉を用いたアールグレイ。
鉄の匂いが充満するドックで、その高貴な香りは異質であった。だが、油で汚れたセリナの手に握られた白磁のカップは、不思議と「戦士の休息」に相応しい気品を放っていた。
「……すまんな、イザベラ。礼を言う。」
「……。……頬に、汚れが付いておりますわよ。」
イザベラは無表情のまま、ハンカチで優しくセリナの顔を拭う。
それを見ていたフェイは、機体の内部に潜り込みながら、独り言のように呟いた。
「……私の整備したレバーが師匠に触れ、私の組んだ冷却系が師匠を熱から守る。……イザベラさん、あなたにその場所は譲りませんが……。師匠の背骨を支えるのは、確かに規律なのかもしれませんね。」
一か月が過ぎた。
地下ドックの照明の下、再びその姿を現した『アーク・フェニールⅡ』は、以前の華奢な印象を捨て、どこか獰猛な猛禽類のような重厚さを纏っていた。
「……待たせたな、我が娘よ。さて、魔法の届かぬ場所へ、お茶をしに行こうか。」
セリナが再び操縦桿を握る。
物理の理はさらなる高み、高度二万メートルの『灰色の夢』へと手を伸ばそうとしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
物理の理だけで構成された「魔法に嫌われた機体」が、いよいよ成層圏へと挑みます。
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第十九話「灰色の夢、あるいは高度二万の孤独」。
お楽しみに!




