第十六話:断熱の壁、あるいは摩擦の咆哮
忘れられた山脈の地下ドック。
かつてアイゼンが追放同然に捨て去ったこの場所は、今やFクラスの面々による「真理」の最前線と化していた。剥き出しの鉄と油にまみれた『アーク・フェニールⅡ』の白銀の巨躯を、旧式の白熱灯が冷たく照らし出している。
機体を取り囲む足場の上では、板金担当のジャックが主翼の付け根を慎重に点検していた。
「嬢ちゃん。ここだ。マッハ一・二の試験飛行で、魔法の補正がねえ分の歪みが、物理的な悲鳴としてこのリベットに溜まってやがるぜ」
だが、彼らが直面しているのは、単なる強度の問題ではなかった。
「……おー。暑苦しいの。アイゼン。次の壁は、強度ではないな。熱じゃ。」
セリナは、図面を広げるアイゼンとガッツに、静かに告げた。
「その通りだ。マッハ一・五。そこから先は、空気が『炎』に変わる領域だ。断熱圧縮……。逃げ場のない空気が機体に叩きつけられ、その運動エネルギーが全て熱に変換される。高度一万メートルでも、表面温度は百度を優位に超える。軍の装甲コーティングなど、バターのように溶け落ちるだろうな」
アイゼンが震える指で数式を書きなぐる。
$$T_t = T_s \left( 1 + \frac{\gamma - 1}{2} M^2 \right)$$
「……おー。溶けるか。ならば、物理で冷却を作れ。わらわの翼が焼ける前に、熱を捨てろ。」
※※※
「師匠。時間です。こちらへ」
フェイが、どこか陶酔したような、しかし一切の異論を許さない響きを湛えた声でセリナを呼んだ。
厚い鉄扉で仕切られた、外部の音が遮断されたメンテナンスルーム。フェイはセリナを座らせると、背後の扉に重厚な鍵をかけた。
「……おー。フェイ。また調整か。わらわの身体は、息災じゃぞ。」
「違います。師匠の主観なんて信じません。私のセンサーだけが、師匠の真実を知っているんです。さあ、脱いでください。皮下血流のパターンを再定義しないと、マッハ一・五の衝撃で師匠の意識が飛びかねない」
フェイの瞳には、義務感を超えた、壊れた精密機械のような執着が沈んでいた。
セリナがスーツを脱ぎ捨てると、そこには十四歳を目前にしてさらに洗練された、神々しい肢体が現れた。熱を帯びた白い肌が、密室の冷えた空気に触れて僅かに震える。
フェイの呼吸が、鋭く、短くなる。
彼女はセリナの胸元や首筋に、銀色の極小センサーを直接貼り付けていった。指先がセリナの肌に触れるたび、そこから熱を奪おうとするかのように、フェイの手の動きは執拗さを増していく。
「動かないで。ここ、師匠の心音を一番正確に拾える場所なんです。逃げないでください。師匠の心拍数、血圧、汗の量まで……全部私の端末に直結させて、私が管理するんです。いいですか? 空の上で師匠を生かしておくのは、魔法でも、神様でもない。私の構築した数値だけなんです」
フェイの指先が、セリナの背骨をなぞる。
セリナは、弟子の指先がどれほど熱を帯びていても、それを「機体の一部」としての調整としか受け取らない。その無自覚な美しさが、フェイの独占欲を激しく駆り立てる。
「……おー。フェイ。くすぐったい。仕事をせよ。」
「仕事、していますよ。世界で私だけが知っている師匠の数値を、アーク・フェニールⅡの制御装置に焼き付けているんです。これで、あの黒い機体の男も、軍の連中も、誰も師匠には触れられない。師匠を汚す熱も衝撃も、全部私が飲み干してあげますから」
※※※
メンテナンスを終えたセリナが、アーク・フェニールⅡのコクピットへと乗り込む。
今回は、地上でのエンジン限界出力テストだ。
シンコア――軍が「ゴミ」として捨てた、傷だらけの精霊コア。
セリナが主電源を入れ、魂を機体へと滑り込ませた瞬間、コアの中の精霊がパニックを起こした。
物理的な限界を超えた出力要求。そして、機体を包み込もうとする「熱」の予感。
精霊は、魔力のないセリナを「無能な寄生虫」として侮り、制御を奪って逃げ出そうと暴れ始める。
「……おー。喚くな。わらわの翼に、お主の意志など不要じゃ。黙れ。燃えろ。わらわが空を裂く薪になれ。」
セリナは目を閉じ、内面世界で精霊の喉元を掴むように、圧倒的な覇気を放った。
それは、前世で幾千もの死線を越え、マッハの壁に散った「エースの魂」の顕現だった。
精霊は、目の前の少女の背後に、灰色の空を背負った巨大な死神の幻影を見た。
測定器の「シンクロ率」は、依然として0%。
だが、精霊はあまりの恐怖に思考を停止させ、セリナへの絶対的な服従を選択した。
「……良い。薪は薪らしく、火を出せ。」
直後、エンジンの咆哮が地下ドックを震わせた。
魔法による姿勢制御を一切排除し、引き出された全てのエネルギーは、ただ「推力」へと変換される。
「冷却システム、物理循環開始! セリナ様、熱を捨てます!」
ミリーの叫びと共に、機体表面の配管に、青い冷却液が高速で循環を始めた。魔法で熱を消すのではない。物理的な熱交換によって、百度を超える熱を力技で機体外へと排泄する。
アーク・フェニールⅡの全身が、摩擦と熱で陽炎のように揺らめく。
だが、その銀色の装甲は、溶けることも剥がれることもなく、鈍い輝きを保ち続けた。
「……おー。吠えるか。熱の壁など、突き破るぞ。」
夜明けの山頂。
白銀の死神は、アフターバーナーの青い炎で闇を焼き払い、マッハ一・五の極限領域へと、その翼を羽ばたかせた。
(つづく)
ご愛読ありがとうございます。
魔法を燃料として使い潰し、物理の理だけで空を裂くアーク・フェニールⅡ。
次回、第十七話では、この熱の壁を突破したセリナたちの前に、再びあの「黒い機体」が姿を現します。
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次回、「第十七話:焦熱の疾走、あるいは黒の追跡」にご期待ください。




