第九話:音を置き去りにした日、あるいは真理の咆哮
高度九〇〇〇メートル。
世界からあらゆる色彩が剥ぎ取られ、視界はただ、宇宙の入り口を思わせる深い虚無の藍色に支配されていた。
『アーク・フェニール』のコクピット内は、凄まじい轟鳴と、骨を軋ませるような振動の渦中にある。速度計はマッハ〇・九九を指して静止し、あたかも「ここから先は神の領域だ」と警告しているかのようだった。
機体周囲の空気は、激しい断熱圧縮によって白く濁り、主翼の先端は空気摩擦熱によって陽炎のように揺らめいている。
俺の視界は、激しいバフェッティング(異常振動)によって二重、三重にブレていた。前世での俺は、鋼の意志と強靭な肉体でこの「絶壁」を幾度となく乗り越えてきた。だが今の身体は、華奢な十三歳の少女だ。肺を押し潰す強烈なGと、酸素マスク越しに送り込まれる冷たい空気の刺激。それでも、研ぎ澄まされた俺の感覚は、機体各部のリベット一本、歯車一枚が奏でる「悲鳴」を正確に聞き分けていた。
「…… おー 良い 抵抗じゃ 空が これほど 怒っておるとは 冥利に 尽きるわい」
俺は血走った目で計器盤を睨みつけた。シンコアが限界を超えて稼働し、ポロが調整した可変吸気ノズルが、衝撃波の位置をミリ単位で制御し続けている。
衝撃波の背後に発生する全圧損失を最小限に抑えるための、斜め衝撃波の制御。それは、魔法という名の奇跡に頼らず、純粋な流体力学の理を積み上げた者だけが辿り着ける極致だった。
$$\frac{p_2}{p_1} = 1 + \frac{2\gamma}{\gamma+1}(M_1^2 \sin^2 \beta - 1)$$
この数式が示す圧力比の増大を、俺は操縦桿から伝わる微かな「重み」の変化として感じ取っていた。大気はもはや透明な気体ではなく、粘りつく巨大な鉄の壁となって俺の進路を塞いでいる。
地上では、Fクラスの若造たちが、自分たちの心臓の鼓動を止めたかのような静寂の中にいた。
管制モニターの前に陣取るジャックは、その太い腕を真っ白になるほど握りしめていた。彼が全身全霊を込めて叩き出し、ニコラが鏡面のごとく研磨し、ポロが組み付けたあの耐熱ブレード。それが今、一秒間に数千回の打撃を受け、真っ赤に焼けながらも回り続けている。
(折れるな……! 俺のリベットを、俺たちが信じたあの人の翼を、こんな空の果てで散らせるんじゃねえぞ!)
ジャックの目からは、熱い汗が滴り落ち、床にこぼれたオイルの染みに混じっていた。
ミリーは、魔導グラフの乱れに顔を覆いそうになりながらも、必死に計器の数値を叫び続けた。
「シンクロ率、九十九パーセントを維持! セリナ様、あと……あとコンマ〇一です! 数式が、私たちの真理が、もうそこに!」
彼女にとって、セリナは崇めるべき「聖女」ではなかった。共に泥にまみれ、油に汚れ、物理の美しさを教えてくれた、かけがえのない師であり、たった一人の親友だった。彼女の祈りは、魔法回路を超えて空へと届こうとしていた。
アイゼンは、モニターに映し出される「プラントル・グロアートの特異点」のデータを見て、声を上げずに嗚咽していた。
かつて彼が廃村で拾い、人生のすべてを狂わされたあの一冊の手記。それが今、目の前の少女の手によって、神の領域を暴く黄金の鍵へと変わろうとしている。彼が一生をかけても辿り着けなかった「答え」が、今、空を白く染め上げている。
その時、隣を死に物狂いで並走していた帝国機『イカロス』がついに限界を迎えた。
魔法で無理やり硬化させ、柔軟性を失った主翼が、空気の壁に「衝突」し、構造破壊を起こしたのだ。魔導銀のコーティングが火花を散らして剥離し、エンジンカウルからは不気味な黒煙が噴き出した。
「…… 見……える…… 壁の…… 向こうに、神の、雷罰が……」
無線からルーカスの絶望的な叫びが届く。マッハ〇・九九五。イカロスの魔導回路が過負荷で爆発し、ルーカスは激しい振動と高Gにより、意識を失った。制御を失ったイカロスが、きりもみ状態で地獄へと墜落を開始する。
「…… 若造 死なせはせぬ 空は 墓場では ない まだ 真実を 見ておらぬだろ」
俺は音速突破の直前、シンコアの最終リミッターを強引に引き剥がした。
アーク・フェニールを急旋回させ、機体周囲に発生している「圧縮空気の塊」を、墜落するイカロスへと向ける。衝撃波を精密にコントロールして相手の機体を包み込み、墜落の衝撃を緩和する「空力シールド」。
前世でエドワードと呼ばれた俺ですら、机上の空論だと思っていた大気の操作。それを今、この小さな少女の身体が成し遂げていた。
イカロスの降下速度が、アーク・フェニールの発生させた空気のクッションによって僅かに緩む。だが、俺たちの速度は止まらない。
ルーカスの絶望、アイゼンの理論、ポロの歯車、ジャックのリベット、フェイの名前。
すべてが、一発の「弾丸」となって世界を貫く。
マッハ一・〇。
その瞬間。
これまで俺の鼓膜を狂ったように叩いていたすべての音が、嘘のように消え去った。
コクピット内を支配したのは、不気味なほどの、そして神々しいまでの「完全な静寂」。
音という物理現象さえ、俺たちの背後に置き去りにされた世界。
ドォォォォォンッ!!
地上に、二連の巨大な爆鳴が轟き渡った。
学園の校舎が震え、リヒター伯爵が持っていた高級ワイングラスが、衝撃波の余波によって粉々に砕け散った。
見上げれば、青い空に巨大な「白い円錐」が鮮やかに開花していた。
「…… おー 間に合った 若造 これが 景色じゃ」
高度一万二千メートル。
音を置き去りにした超音速の世界で、俺はアーク・フェニールを悠然と旋回させた。
意識を取り戻したルーカスの機体が、俺の衝撃波の余韻に守られながら、なんとか不時着可能な姿勢へと復帰していく。ルーカスは、涙を流しながら、俺が描いた白い雲の軌跡を見上げていた。魔法という嘘が、物理という真実の前に膝を屈した瞬間だった。
学園の滑走路へ、白銀の翼がゆっくりと舞い降りた。
エンジンが停止し、シンコアが静かに脈動を止める。
ハッチが開くと、そこには油まみれの耐圧スーツを纏った、小さな少女が立っていた。
駆け寄るFクラスの面々。フェイが、ジャックが、ポロが、言葉にならない歓喜の叫びを上げて俺を囲む。彼らの熱い体温が、冷え切った俺の指先に伝わってくる。
アイゼンはただ、機体の翼に触れ、その熱を感じながら膝をついて泣いていた。
俺は、蒼白な顔で立ち尽くすリヒター伯爵の前に歩み寄り、ヘルメットを脇に抱えて不敵に笑った。
「…… おー リヒター 景色は 最高じゃったぞ だが 鉄の味は 相変わらず 最悪じゃな」
敗北を認めざるを得ないリヒターの瞳には、しかし屈辱以上の、より暗く深い執念が宿っていた。
この技術は、もはや一国の手に負えるものではない。音速を超えた翼は、世界という名の巨大な嵐を、この学園へと呼び寄せようとしていた。
「…… 次の 茶は 誰と 飲むことに なるのか」
セリナの瞳には、かつて幾多の戦場を生き抜いたエースとしての、冷徹な予見が光っていた。
(つづく)
第九話をお読みいただき、ありがとうございます!
ついにマッハの世界へと到達したセリナとFクラス。
物理の真理が、帝国の傲慢な魔導を打ち破るカタルシスを感じていただけたでしょうか。
物語はいよいよ、この「超音速技術」を巡る国家間の争乱、そしてセリナの過去に関わる新展開へと突入します。
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次回、「第十話:神を追い抜いた翼、あるいは灰の記憶」にご期待ください。




