第八話:蒼天の決闘場、あるいは臨界への胎動
学園の演習場は、もはや静謐な学び舎ではなく、二つの国家の命運を賭けた戦場へと変貌していた。
陽光を浴びて白銀に輝く『アーク・フェニール』と、魔導銀のコーティングによって禍々しい虹色の光沢を放つ帝国の最新鋭機『イカロス』。両機が滑走路上に並んだその光景は、神話の巨鳥が地上に降り立ったかのような、非現実的な威圧感を放っていた。
俺――セリナ・フォン・アルスタインは、純白の耐圧スーツに身を包み、コクピットの中で深く息を吐いた。
前世で幾度となく嗅いだ、乾燥した酸素とわずかな重油の匂い。かつての「おじいちゃん」だった俺の魂が、今の小さく、しかし驚異的な反射神経を持つ少女の身体と、操縦桿を介して一つに溶けていく。
「おー 良い 空じゃ わらわの 翼 応えよ」
俺は計器盤を指先でなぞった。それはポロが心血を注いだ精密機械の結晶であり、ミリーが組み上げた魔導と物理の融合回路だ。
その頃、ガレージの管制モニタの前では、Fクラスの若造たちが、自分たちの心臓の音が聞こえるほどの静寂の中にいた。
フェイは、祈るように両手を組み、唇を噛み締めていた。彼女が名付けた『アーク・フェニール』。それは彼女にとって、単なる試験機ではない。憧れであり、師匠そのものであり、自分たちが社会の底辺から這い上がるための唯一の希望だった。
(お願い、師匠……。あの翼は、私たちの魂そのものなんだ。誰にも、空にも、折らせたりしないで……!)
ポロは、モニターに映し出されるシンコアの同期波形を、血走った目で見つめていた。彼の細い指は、まだキーボードの上で微かに震えている。自分が調整したコンマ一ミリの誤差が、超音速域では致命的な爆発を招くかもしれない。その恐怖が、絶え間なく彼の背中を冷たく撫でていた。
「……大丈夫だ。僕の歯車は、セリナ様の鼓動と一つになっている。……絶対に、壊れない」
彼は自分に言い聞かせるように、何度も何度も、既に完璧な数値を再確認していた。
「プロジェクト・アーク、全回路開放。…… 離陸」
俺がスロットルを押し込んだ瞬間、背中を巨大な掌で押されたような重圧(G)が襲った。
シンコアが青白く、透き通るような発光を開始する。アーク・エンジンの咆哮は、これまでのどんな魔導機とも違う、大気そのものを共鳴させる重厚な旋律だった。
地上では、リヒター伯爵が傲慢な笑みを浮かべてその様子を眺めていた。
「フン、どれほど見栄えを整えようと、所詮は王国の付け焼き刃。帝国の『福音』、その真の力を見せてやれ、ルーカス!」
リヒターの号令と共に、イカロスが爆発的な魔力の奔流を噴き出し、滑走路を蹴った。
魔法によって空間そのものを排斥し、強引に加速する帝国の翼。それは物理法則に対する略奪であり、暴力だった。
二機の銀翼は、冬の澄んだ空を切り裂き、垂直に近い角度で上昇を開始した。
高度三〇〇〇、四〇〇〇、五〇〇〇。
景色が急速に遠ざかり、地上の喧騒が消えていく。残るのは、風の唸りと、エンジンの拍動だけだ。
高度八〇〇〇メートル。
そこは、酸素が薄れ、空が深い藍色へと沈んでいく「死の入り口」だった。
イカロスが俺の右翼側にピタリと張り付く。遮光バイザー越しに、ルーカスの視線を感じた。彼の機体は、既に魔導プラズマの過剰出力により、機体全体が小刻みに、しかし激しく震えていた。
「おー 若造 無理を するな お主の 翼 悲鳴を 上げておるぞ」
俺は無線を介さず、ただ風の中にその言葉を投げた。
ここからが、本当の地獄だ。
速度計が、臨界マッハ数への到達を告げる。
マッハ〇・八二。
機体周囲の空気流速が部分的に音速を超え始める。大気がもはや流体ではなく、硬い壁となって機体を叩く「バフェッティング」が始まった。
ガレージ内のアイゼンが、モニターを見て悲鳴に近い声を上げる。
「来た……! 圧力係数 $C_p$ の激変だ! セリナ、機首下げ(マッハ・タック)が発生するぞ!」
$$C_{p} = \frac{p - p_{\infty}}{\frac{1}{2} \rho_{\infty} V_{\infty}^2$$
この数式が示す通り、翼上面の圧力が極限まで低下し、揚力中心が後方へ移動する。飛行機が自ら地面へ突き刺さろうとする、物理の呪いだ。
「おー 良い 抵抗じゃ だが シンコアが 導く 波に 乗れ」
俺は荒れ狂う操縦桿を、力ずくではなく、指先の繊細な感覚で「いなした」。
シンコアがルーカスのデータを瞬時に解析し、主翼の付け根にある「遊び」を利用して、衝撃波と逆位相の振動を機体全体に発生させる。
イカロスは、魔法の暴力でこの現象を抑え込もうとしていた。リヒターが「福音」と呼ぶ魔導回路が赤く充血し、機体周囲の空間を無理やり固定している。
だが、その強引な処置が、逆に機体構造への負担を致命的なものにしていた。
ジャックは、地上でイカロスの機体表面が、熱摩擦によって虹色に焼けていくのを望遠鏡越しに見ていた。
「……馬鹿な野郎だ。鉄を信じねえから、そんな無理をさせるんだ。あんなんじゃ、金属が呼吸できねえ。……死ぬぞ、あいつ」
ジャックの太い腕が、怒りと悲しみで震えていた。彼は、自分が叩き出したアーク・フェニールの耐熱ブレードが、セリナの意思に応えて「歌っている」のを感じていた。
マッハ〇・九。
計器盤の針が、狂ったように揺れる。
アーク・フェニールの周囲に、白い円錐状の霧が発生し始めた。プラントル・グロアートの特異点。大気中の水分が、急激な減圧によって凝縮し、目に見える「壁」となって現れたのだ。
ミリーは、魔導グラフの乱れに顔を覆いそうになりながらも、必死に叫んだ。
「シンクロ率、九十八パーセントを維持! セリナ様、そのまま……! 空を……空を味方につけてください!」
ミリーの祈りと、ポロの執念、ジャックの誇り、そしてアイゼンの真理。
それらすべてを背負い、白銀のフェニールは、物理の絶壁へとその爪を立てた。
マッハ〇・九五。
世界が、不気味なほどの「静寂」へと向かっていく。
咆哮するエンジンの音さえ、自分たちの背後に置き去りにされようとしていた。
その時、隣を飛ぶイカロスの主翼の端から、魔導銀のコーティングが火花を散らして剥離した。
ルーカスの絶叫が、ノイズ混じりの無線で届く。
「……見……える……。壁の……向こうに、死神が……!」
俺は、血走った目で正面を見据えた。
音速の壁。
神が定めた、超えてはならぬとされる絶対の境界。
「おー 若造 見ておれ 物理の 真理 拝ませて やるわい」
俺は、シンコアの最終リミッターを解除した。
青白い光がガレージ、学園、そして帝国をも飲み込むほどに輝きを増し、アーク・フェニールは「無音」の深淵へと、その嘴を突き入れた。
(つづく)
第八話をお読みいただき、ありがとうございました!
高度八〇〇〇メートルでの死闘、Fクラスの面々の祈るような思いが、セリナの翼を支えています。
帝国の暴力的な魔導に対し、物理の理を積み上げた『アーク・フェニール』がいよいよ「壁」に手をかけました。
もし「手に汗握る展開だ!」「Fクラスの絆に泣ける!」と思っていただけましたら、
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次回、「第九話:音を置き去りにした日、あるいは真理の咆哮」にご期待ください。




