第六話:静寂の深淵、あるいは三日目の火花
学園の冬の朝は、本来ならば凛とした静寂に包まれているはずだった。
だが、今のガレージを包囲しているのは、神経を逆撫でするような重苦しい「鉄の匂い」だ。貴賓館を接収したゲシュタルト帝国の特使団は、猶予の初日から容赦のない包囲網を敷いた。ガレージの周囲百メートルは立ち入り禁止区域となり、漆黒の外套を纏った帝国の「観測班」が、三脚に据えた大型の魔導探知機を俺たちの聖域へと向けている。
奴らの狙いは明確だ。共同研究という名の「技術の盗掘」。
探知機から放たれる目に見えぬ走査波が、ガレージの壁を透過し、俺たちの作業の音、魔力の揺らぎ、果ては鉄を叩く回数までも記録しようとしている。物理法則を無視した帝国の魔導工学は、俺たちが成し遂げようとしている「真理」に飢えていた。
「…… 監視。おー。嫌なものじゃな。まるで。檻の中に。放り込まれた。気分じゃ」
俺――セリナ・フォン・アルスタインは、煤けた作業用スツールの背もたれに身を預け、冷え切った果実水を一口飲んだ。
目の前では、ジャックとガッツが巨大な主翼の骨組みを前に、わざとらしく罵声を飛ばし合っている。
「違うって言ってんだろ! このリベットの打ち込みじゃ、音速どころか離陸の振動で翼がもげちまう!」
「うるせえ若造が! 俺の腕を疑うなら、てめえが一人で叩き出しやがれ!」
ジャックが床にハンマーを叩きつけ、凄まじい反響音がガレージ内に響く。それは観測班の耳に届くための「音の壁」だ。ジャンがガレージの四隅に配置した、壊れた魔導具の集合体――「ノイズ発生器」が、不規則な魔力の火花を散らし、帝国の探知機を幻惑している。ガレージの表向きの姿は、崩壊寸前の開発現場だった。
だが、俺たちの真の戦場は、地上にはない。
整備用ピットの床下。かつてアイゼンが秘密の機材庫としていた、地下の狭い空間。そこへ降りる梯子を、俺は音もなく下りた。
地下空間は、一変して「無音の戦場」だった。
アイゼンとフェイ、そしてエレーナが、昨日の技術交流で俺が見抜いた『イカロス』の致命的な欠陥を、冷徹な数式へと落とし込んでいた。魔法の灯りに照らされた彼らの横顔は、寝不足で青白く、しかしその瞳には狂気にも似た知性が宿っている。
「セリナ、これを見てくれ。エレーナの計算で、帝国のイカロスの『自壊サイクル』が算出された」
アイゼンが差し出した羊皮紙には、恐ろしいほどの精度でグラフが描かれていた。
帝国は魔法で機体強度を強引に高めているが、それが災いして、素材そのものが持つ「しなり」を完全に失っている。音速という極限の流体環境下において、空気は一定の周期で機体を叩く。それは巨大な鉄のハンマーが、一秒間に数千回も主翼を殴りつけるような衝撃だ。
$$f_{n} = \frac{1}{2\pi} \sqrt{\frac{k}{m}}$$
剛性 $k$ を魔法で極限まで高めれば、固有振動数 $f_n$ も跳ね上がる。イカロスはマッハ〇・九付近の振動数と、機体構造の固有振動数が一致する「共鳴点」に自ら飛び込もうとしていた。魔法の硬化という盾が、自らを粉砕する。
「奴らの主翼は、次の全力加速で確実に砕ける。魔法で固めれば固めるほど、内部には逃げ場のない熱疲労が蓄積し、最後にはガラスのように粉砕されるだろう。だが、我々も他人事ではない。音速の壁は、力でねじ伏せようとすれば、等しく牙を剥く」
「…… おー。そうじゃな。わらわたちは。空を。殴らぬ。衝撃波を。シンコアで。飼い慣らす。…… 衝撃を。力に。変えるのじゃ」
俺は、作業台の上に鎮座するシンコアの核を指先でなぞった。
前世で、マッハの壁に挑んだ先人たちが血を流して得た教訓。衝撃波を「拒絶」するのではなく、あえてそれを受け入れ、エンジンの吸気に利用し、翼の揚力へと変える。そのための「同期」。それは魔法ではなく、純粋な物理の調律だ。
二日目の夜。
監視の目が最も緩む午前二時。俺たちは、地下ピットでアーク・エンジンの「低出力同調試験」を開始した。
音を漏らすわけにはいかない。ミリーとポロが、物理的な防音材を何重にも敷き詰め、魔法による完全遮音結界を二重に展開する。
「シンコア、起動。…… 同期率。…… 三〇パーセント」
俺が微細な物理レバーを押し下げると、シンコアが静かに脈動を始めた。それは心臓の鼓動というより、世界の呼吸そのものを刻んでいるかのようだった。青白い光が、ピット内の鉄の壁を淡く照らし出す。
ポロが開発した「精密同期モニター」の針が、極小の刻みで揺れる。
「セリナ様! タービンブレードの回転数が、大気の共振周波数を回避しています! 振動が、消えていく。魔法を使わずに、物理だけで振動を打ち消しているんだ!」
ポロが興奮に震える声で囁く。
帝国の技術が「剛」なら、俺たちの技術は「柳」だ。大気が叩いてくる衝撃を、シンコアが瞬時に計算し、逆位相の振動をぶつけることで相殺する。それは、狂暴な荒波の上で、一滴の水もこぼさずに踊り続けるような精密な作業だった。
だが、三日目の昼。
状況は一変した。
ガレージの重厚な鉄扉を、外交的儀礼など欠片も感じさせない暴力的な力が叩いた。
「王立機導学園、Fクラスの諸君。中間報告を聞きに来たぞ」
リヒター伯爵だ。
彼は数人の護衛と、あの不気味なエース操縦士ルーカスを伴い、ガレージ内へと土足で踏み込んできた。
俺は慌てて地下へのハッチを閉じ、ジャンが用意していた「失敗のデータ」を広げた。ガレージ内には、ジャックがわざと撒いた焦げたオイルの匂いが充満している。
「おやおや、アルスタイン嬢。昨日の余裕はどうしたのかな? 随分と、開発が難航しているようではないか。魔力の出力が上がらず、機体が悲鳴を上げているという報告を受けているが」
リヒターは、ジャックがわざと歪ませた主翼の端を、嘲笑うように指先で弾いた。
俺は、煤で顔を汚したまま、椅子から立ち上がることすら贅沢だというように、低く声を絞り出した。
「…… おー。帝国は。お節介が。好きじゃな。わらわの。翼は。繊細なんじゃ。粗野な。鉄とは。違う」
リヒターの背後で、ルーカスがじっと俺の瞳を見つめていた。
彼の瞳は、昨日よりもさらに赤く染まり、その手の震えは止まっていない。彼はガレージの隅に置かれたアーク・エンジンのカウルを見つめ、何かに気づいたように眉を寄せた。その鋭い勘は、同じ空を飛ぶ者としての共鳴だったのかもしれない。
「…… セリナ・フォン・アルスタイン。君は、嘘をついているな。このガレージに満ちているのは、失敗の苛立ちではない。獲物を待つ猟師のような、不気味な静寂だ」
ルーカスの言葉に、リヒターの瞳が細められた。
一瞬の沈黙。俺は果実水のグラスを置き、ルーカスの正面に立った。十三歳の少女の身体だが、その中にある魂の重圧を、俺は隠さずに解き放った。
「…… 若造。お主に。何が。わかる。お主の。空は。死の。予感に。満ちて。おる。…… 五日。待て。答えは。空で。出す」
ルーカスは気圧されたように一歩下がり、リヒターもまた、俺の放った異様な威圧感に言葉を失った。それは、一国の令嬢が放つものではなく、数多の戦場を支配したエースの眼光だった。
リヒターは鼻を鳴らし、再びガレージの設備を一瞥して告げた。
「いいだろう。三日目が終わる。猶予はあと二日だ。その時、貴殿の言う『答え』が帝国の福音に及ばぬものであれば、このガレージごと、すべてを没収させてもらう。行くぞ、ルーカス」
帝国の集団が去り、再びガレージに冷たい風が吹き込む。
三日目が終わろうとしていた。
外の観測班の探知機は、相変わらずジャンのノイズに踊らされている。
だが、リヒターの焦りと、ルーカスの直感。
敵は、俺たちが何かを掴んでいることを嗅ぎ取り始めている。
アイゼンが地下から這い上がり、夕闇に染まるガレージを見渡した。
「セリナ……。あと四十八時間だ。シンコアの最終同調と、機体への本実装。間に合うか?」
「…… おー。間に合わせる。アイゼン。わらわの。翼を。信じよ」
俺は、暗闇の中で微かに青白く光るシンコアを見つめた。
猶予はあと二日。
三日間の鼓動を経て、アーク・エンジンは今、真の目覚めを告げるための「静かな咆哮」を、その奥底に溜め込んでいた。
(つづく)
ご愛読いただきありがとうございます!
三日目までの緊張感ある開発シーン、お楽しみいただけたでしょうか。
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次回、「第七話:ルーカスの告白、あるいは五日目の夜明け」にご期待ください。




