第二話:遺された手記、あるいは失われた工学
「国家安全保障の観点から、成層圏飛行機『シュトラール零型』、および関連するすべての物理設計図を枢密院の管轄下に置くものとする」
ガレージの入口で、羊皮紙を広げた調査官が、官僚特有の硬い声で宣言した。
彼の背後には、重装甲を纏った王宮衛兵が数名、威圧的に控えている。凱旋の余韻を切り裂くようなその宣告に、ジャックがハンマーを握りしめ、ガッツが顔を真っ赤にして詰め寄ろうとした。
だが、それを片手で制したのは、油にまみれた十三歳の少女――俺だった。
「……。管轄。おー。承知。だが。その前に。管轄の。根拠を。示せ」
俺はイザベラが差し出したタオルで指先を拭いながら、調査官を冷徹に射抜いた。
調査官は眉をひそめ、不快そうに眼鏡を直す。彼らにとって、高貴な令嬢がこれほど薄汚れた場所に馴染んでいること自体が、理解の範疇を超えているのだろう。
「根拠だと? 国際魔導法、および王国領空防衛令に基づいている。成層圏は未知の領域であり、そこを飛行する技術は軍事機密に直結する。聖女といえど、一個人が独占して良いものではない」
「……。領空。おー。では。問う。王国の。領空は。高度。何フィート。までを。指す」
「……は?」
調査官が絶句する。この世界の「空」の定義は、精霊の加護が届く高度、せいぜい三千メートル程度までしか法的に想定されていない。それより上は「神の領域」として、条文すら存在しないのだ。
「……。成層圏に。国境線は。無い。魔法が。届かぬ。場所に。魔導法は。適用。されぬ。わらわの。機体は。法を。超えた。場所を。飛んだ。ならば。没収の。法的。根拠は。皆無。じゃわい」
「な、屁理屈を! しかし、軍の予算が使われている以上、成果は国へ返還されるべきだ!」
「……。予算。おー。ならば。ベルシュタイン。公爵に。聞け。機体は。彼の。私有物。わらわは。委託。された。だけじゃ。没収。したくば。公爵と。全面。戦争を。してから。来い」
俺が公爵の名を出すと、調査官の顔が引きつった。軍の重鎮である公爵の獲物を、しがない文官が掠め取れるはずもない。背後からイザベラが冷徹な微笑みを浮かべて一歩前へ出ると、調査官は「……後日、正式な命令書を携えてくる!」と捨て台詞を吐いて逃げ去っていった。
静寂が戻ったガレージに、アイゼンが重い足取りで歩み寄ってきた。その手には、先ほど語った「古い手記」が握られている。
「……セリナ。先ほど言った通り、これが私の人生を狂わせた原典だ。君なら、この中に記された『狂気』の意味が分かるはずだ」
差し出されたその手記は、革の表紙がボロボロに擦り切れていたが、そこには金箔で「Checklist」という、前世の俺には見慣れた文字が記されていた。
俺がその頁を捲ると、心臓が跳ね上がった。
そこには魔法の記述など一行もない。
[Before Landing]
- Gear: DOWN/3 GREEN
- Flaps: As Required
- Propeller: High RPM
殴り書きされたスケッチには、ピストンエンジンの冷却フィンやターボチャージャーの断面図が、驚くべき正確さで描かれていた。アイゼンの手によるものではない。何十年も前に、この世界に「物理の翼」を持ち込んだ先駆者がいた動かぬ証拠だ。
「……。アイゼン。お主。これを。独力で。読み解いた。のか。……。……。大した。執念。じゃな」
「三十年かかった。だが、最後の方にあるこの記述だけは、私の物理学でも理解が追いつかなかったのだ。……これだ。この『MACH』という単語と共に描かれた、空気が壁のように圧縮される図……。君は、これが何を意味するか知っているのか?」
アイゼンが指差した頁には、マッハ一の壁――ソニックバリアを越える際に生じる衝撃波の概念図が描かれていた。アイゼンはそれを「神が定めた速度の限界」として畏怖していたようだが、俺にとっては、かつて日常的に突き破っていた領域だ。
「……。アイゼン。これは。神の。速度では。ない。物理の。境界線。音速。じゃ」
俺はチョークを取り、ガレージの床に音速を導き出すための方程式を記した。
$$v = \sqrt{\gamma \cdot R \cdot T}$$
アイゼンがその式を凝視し、手帳を取り落とした。
「音を……置き去りにする……。魔法ではなく、温度と気体の定数によって、速度の限界が定義されるというのか!? それを越えれば、この手記にある通り『衝撃波』が発生し、機体は粉々に……」
「……。おー。だから。同期。させる。……。シンコアを。使い。エンジンの。脈動と。翼の。振動を。合わせ。……。……。壁を。切り裂く」
俺の言葉に、Fクラスの面々が色めき立った。
ジャックは自慢のハンマーを握り直し、ミリーは計器盤の設計図に新しい「マッハ計」の欄を書き足す。ニコラは精密パーツを愛おしそうに撫で、ルミエは高熱に耐える冷却オイルの調合比率を頭の中で計算し始めた。
フェイはアイゼンの手記を覗き込み、その瞳には恐怖ではなく、未知への純粋な好奇心が宿っていた。彼女の中に眠る「欠片」もまた、この物理の美しさに共鳴しているのだろう。
「嬢ちゃん。音速か……。よく分からねえが、音がついてこれねえくらいの速さなんだな? 面白え。俺がその壁をぶち抜くためのエンジンブロックを鋳造してやるよ!」
ガッツが哄笑し、アイゼンは崩れ落ちるように座り込みながらも、猛烈な勢いで数式を書き換え始めた。
その日の夜。
学園の時計塔の影から、一台の精巧な魔導望遠鏡がガレージの様子を捉えていた。
漆黒の飛行服に身を包んだ男が、通信石を起動させる。
「こちら観測班。報告通りだ。王国の聖女はアイゼンの遺産を解読した。……それだけではない。彼女は『マッハ』の定義を口にした。ああ、間違いない。彼女もまた、『こちら側』を識る者だ」
帝国の監視者の冷たい声が、夜風に消えた。
成層圏という頂点を極めた俺たちの前に、今、音速という名の巨大な壁が立ちはだかろうとしていた。
(つづく)
第二話をお読みいただき、ありがとうございます。
第一話での「出所確認」を踏まえ、今回は「手記」の内容と「音速」という物理的障壁を明示する展開にいたしました。
物理学を「神の領域」として畏怖するアイゼンと、それを「計算できる数値」として扱うセリナの対比を描いています。
面白いと思っていただけましたら、評価やブックマークをしていただけると大変励みになります。
次回、「第三話:マッハへの階梯、あるいは減圧の試練」です。




