第一話:聖域の再始動、あるいは「真の心臓」
王立機導学園、Fクラス専用ガレージ。
二ヶ月ぶりに戻ってきたその場所は、外の世界の喧騒とは無縁の、鉄と重油の匂いが染み付いた「聖域」だった。
王都での『シュトラール零型』による成層圏到達。その衝撃は、王国中に「聖女による物理の奇跡」として伝わり、学園の正門前には凱旋パレードを一目見ようとする野次馬や、手のひらを返したように称賛を贈る教師たちが群がっていた。
だが、俺――セリナ・フォン・アルスタインは、そんな色気のない喝采に背を向け、衛兵の制止を撥ね除けて、この薄暗い秘密基地へと逃げ込んだ。
「ふぅ……。ようやく静かになったわい。イザベラ。パレードなどわらわの柄ではない」
俺は、背後に控えていた侍女に向かって、皮肉を込めて吐き捨てた。
イザベラは、煤で汚れたガレージの椅子を手際よく拭き上げ、まるで行軍中の休憩室でも作るかのような優雅な所作でティーセットを並べ始める。
「お嬢様、皆様の声に応えるのも貴族の義務ですが……。今の貴女様に何を言っても無駄なことは承知しております。ですが、お茶の温度だけは譲歩いたしません。淹れたてをお飲みなさい」
差し出された渋い茶を一口啜り、ようやく魂が身体に馴染む感覚を覚える。
その後ろからは、重い工具箱を肩に担いだガッツと、王都から半ば強引についてきた「居候」のアイゼンが、互いの足の踏み場を巡って小競り合いをしながら入ってきた。
「アイゼンの糞ジジイ! 人のガレージに勝手に入ってきて、いきなり旋盤の精度を測り始めてんじゃねえよ!」
「黙れ、野蛮人。この学園の工作精度が、私の理論についてこられるかを確かめるのは当然の義務だ。……。それにしても、セリナ。このガレージ、王都の中央工廠と比べれば狭小だが、妙に落ち着くのはなぜだ?」
アイゼンは眼鏡を指先で直し、ガレージ全体を見渡した。
そこには、俺が王都へ行っている間も牙を研ぎ続けていた若造どもの姿があった。
「師匠! お帰りなさい!」
真っ先に駆け寄ってきたのは、フェイだった。
彼女の頬には新しい油の汚れがあり、手には使い古したウェスが握られている。王都へは同行させなかったが、彼女の瞳を見ればわかる。俺が不在の間、彼女がどれほどの熱量でこのガレージを守り、物理の深淵を独学で掘り進めていたかを。
「フェイ。留守をよく守ったな。……。他の若造どもも息災そうじゃな」
ガレージの奥からは、聞き慣れた槌音が響き渡る。
ジャックが、軍の廃棄場から調達してきたという巨大なジュラルミン板を、特製のハンマーで叩き出していた。その隣では、ミリーが複雑怪奇な魔法回路をバイパスするための銅線を、まるで神経を編み上げるかのような精密さで結線している。
ニコラは旋盤の精度をコンマ〇一ミリ単位で追い込み、エレーナは黒板一面に流体力学の数式を書き連ねている。ジャンはさらに出所不明の部品を積み上げ、ルミエは試験管の中で、超高回転に耐えうる物理冷却オイルを完成させていた。ハンスは大型エンジンの据え付け台を補強するために火花を散らしている。
俺は、彼らの熱量を確認した後、ガレージの最奥にある、厳重に施錠された耐火金庫へと歩み寄った。
「アイゼン。お主に。見せたいものが。ある」
ダイヤルを回し、重厚な扉を開く。
そこには、物語の最初期――俺が命がけで地下遺構から持ち出した、あの「シンコア(同期コア)」が鎮座していた。
第一部では軍の目を欺くために封印していた、この世界の理を物理的に書き換えるためのオーパーツだ。
「な、なんだこれは……!? 魔力反応が……完全にゼロだ。それなのに、コアの周囲の大気が、まるで振動するように歪んでいる……!?」
アイゼンは地面に膝をつき、祈りを捧げるかのような姿勢でシンコアを覗き込んだ。俺は油にまみれた布で、コアの表面を丁寧に拭き上げた。
「これは同期じゃ。魔力を拒絶するのではなく。物理的回転に。変換する触媒じゃ。……。アイゼンの計算式。それと。このコアを結ぶ。プロジェクト・アーク。始動する」
俺はチョークを手に取り、ガレージの床に巨大なエンジンの断面図を描き始めた。既存の物理駆動エンジンに、このシンコアを「可変同軸」として組み込む設計。それは、魔法の爆発エネルギーをロスなく物理的な回転力へと変換し、空を飛ぶための「音速の壁」を突き破るための、前世のジェットエンジンすら超える究極の動力源だ。
「吸気、圧縮、爆発、排気……。そのすべてのタイミングを、このコアが物理的に『強制同期』させるのか。……。そんなことが可能ならば、燃焼温度は上昇し、排気速度は音速を超える……!」
アイゼンは震える指で、手帳に猛烈な勢いで数式を書き込み始めた。
$$v = \sqrt{\gamma \cdot R \cdot T}$$
音速の定義。魔法の世界において「神の領域」とされていたその壁が、今、老兵たちの狂気と、若造たちの技術によって崩されようとしていた。
だが、俺にはどうしても確かめておかなければならないことがあった。
俺はアイゼンに向き直り、王都のバルコニーで彼が口にした「あの言葉」について問いかけた。
「アイゼン。お主。王都で。……。コンタクト。右十五度。エンゲージ。そう言ったな。……。その言葉。どこで知った」
アイゼンのペンが止まった。彼はゆっくりと顔を上げ、遠い記憶を掘り起こすように目を細めた。
「……気づいていたか。あれは、私がまだ士官候補生だった頃、ある廃村の地下で見つけた『古い手記』に記されていた言葉だ。魔法を使わぬ鋼鉄の鳥を駆る者たちが、空で交わしていた軍事暗号だと、その手記の筆者は記していた」
手記。
アイゼンが口にしたのは、俺がいた世界――あるいは俺より前にこの世界に降り立った「先駆者」の遺産だった。
アイゼンはさらに続けた。
「その手記はボロボロで、多くは解読不能だった。だが、そこに描かれていた図面の一部……それが、私がシュトラールを設計する礎となったのだ。そして、そこにはこうも書かれていた。『音を置き去りにした時、世界は真の姿を見せる』とな」
アイゼンもまた、見えぬ「先駆者」の影を追い続けていた一人の男だったのだ。
俺は、不敵な笑みを浮かべた。
「おー。ならば話は早い。アイゼンの手記。わらわのコア。……。……。これで。音を。置き去りに。できるわい」
俺が二杯目のお茶に手を伸ばした時だった。
ガレージの表で、厳格な足音が響いた。帝国のような派手な車輪音ではない。それは、規律を重んじる王立騎士団の調査団の足音だった。
「セリナ・フォン・アルスタイン嬢! 枢密院よりの調査団です。成層圏飛行における国際魔導法違反の疑い、および未登録機体の検分に参りました!」
平和な凱旋は、どうやら一時間も持たなかったらしい。
だが、俺は不敵に笑い、ティーカップを置いた。
「フェイ。ジャック。ミリー。……。仕事じゃ。若造どもを。追い返せ。……。わらわたちは。忙しい」
十三歳の聖女と、二人の偏屈な老兵、そして鋼鉄の意志を持つ若きエンジニアたち。
失われた暗号と、真の心臓を巡る第二の幕が、今、高らかに上がった。
(つづく)
第二部、始動いたしました。
おじいちゃん(セリナ)の貫録とアイゼンの技術的な背景、そして「暗号」という第一部の伏線を繋ぎ合わせる形で再構成しました。
帝国という大きな外敵を出す前に、まずは「先駆者の謎」と「音速への挑戦」をじっくりと描いてまいります。
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次回、「第二話:遺された手記、あるいは失われた工学」です。




