第三十話:空の境界、あるいは成層圏への挑戦(後編)
ここで一区切りです!
高度一万メートル。
そこは、この世界の住人たちが「神域」と呼び、精霊の加護がなければ生きて帰れぬと信じている禁忌の断絶点であった。
だが、俺――セリナ・フォン・アルスタインの視界に広がるのは、神の慈悲などではない。ただ、剥き出しの物理法則が支配する、冷酷で、そしてあまりにも美しい真理の姿だった。
シュトラール零型のキャノピー越しに見える空の色は、鮮やかな青を通り越し、吸い込まれるような濃紺、そしてついには、光を拒絶する漆黒へとその姿を変えていた。
眼下には、白く輝く雲海がどこまでも広がり、王都を飲み込む巨大な大地の輪郭が微かに湾曲して見える。魔法の光はもはや届かない。ここにあるのは、過給機が奏でる高い金属音と、気密室を維持するための微かな空気の漏れる音、そして俺自身の心臓の鼓動だけだ。
「……。やはり。空は。黒かった。おー。懐かしい。絶景じゃな」
かつてエドワード・グレイとして、何度も命を懸けて守ろうとした景色。
十三歳の少女の身体でありながら、俺の魂は今、完全に「エース」として覚醒していた。
魔法に頼り、杖を振り回して得られる「高さ」など、この漆黒の深淵に比べれば砂遊びに過ぎない。鉄を打ち、油を注ぎ、数式を積み重ねた者だけが到達できる、この極限の静寂。
***
一方、地上の中央工廠地下、極秘の観測指令室。
そこには、かつてないほどの緊張感が張り詰めていた。アイゼンとガッツ、そしてフェイ。セリナの帰還を信じ、この機体に魂を吹き込んだ三人は、魔法の水晶盤に映し出される物理センサーの数値に釘付けになっていた。
「高度一万二千を突破……。信じられん、本当に魔法の介在なしに、空の蓋をこじ開けおったわ」
アイゼンが震える指先で計器を指し示す。その顔には、設計者としての法悦と、それを上回るほどの戦慄が浮かんでいた。彼が長年、机上の空論として嘲笑われてきた理論が、今、一人の少女の手によって真実へと変えられていた。
「アイゼンの糞ジジイ、ガタガタ震えてんじゃねえ! 数値を読むのがあんたの仕事だろうが!」
そう怒鳴るガッツの声も、微かに震えていた。その手には、かつて親友を失った時に握りしめていたものと同じ、古いスパナが握られている。だが、今の彼の瞳には絶望はない。ただ、空の彼方にいる「愛弟子」の無事を祈る、整備士としての執念だけがあった。
「師匠……。熱量は安定、過給圧もレッドラインの手前で踏みとどまってる。お願い、そのまま、そのまま帰ってきて……!」
フェイは、セリナが床に描いた改修図面を抱きしめるようにして、水晶盤を凝視していた。彼女にとって、セリナは師であり、憧れであり、唯一自分を「メカニック」として認めてくれた救いだった。
***
高度一万三千メートル。
真昼の太陽が、大気に散乱されることなく鋭い槍のような光を放ち、そのすぐ隣では、地上では見ることのできない冷たい星々が静かに瞬いていた。
酸素の飢餓、極低温、気圧の喪失。死が隣り合わせのこのコクピットの中で、俺はかつてないほどの生の実感を得ていた。
「……。アイゼン。ガッツ。フェイ。見ておるか。これこそが。わらわたちの。鉄の。翼が。辿り着いた。場所じゃ」
地上でモニターを見つめているであろう仲間たちに、届かぬ独白を落とす。
物理学の勝利。
魔法という奇跡が通用せぬ場所にも、理は存在する。それを証明したこの瞬間、俺はこの世界に転生して初めて、自分の居場所を見つけたような気がした。
だが、感傷に浸る時間は短かった。燃料計の針が、帰還のための「デッドライン」を指し示していた。
「……。さて。帰ると。しよう。茶が。待っておる」
俺はスロットルを絞り、機首をゆっくりと下げた。ここからはエンジンの出力を最小限に抑え、高度という名のエネルギ―を速度へと変換する、極限の滑空が始まる。
大気の薄い高高度では、動翼の効きが極端に鈍い。俺は前世で培った「指先の感覚」を研ぎ澄ませ、機体が失速しないよう、慎重に重力へと身を委ねた。
高度が下がるにつれ、漆黒の空が再び群青へと染まっていく。
高度六千メートル。突然、王都の方向から幾筋もの魔力の光が空を裂いた。カイル大尉たちの精霊騎士団だ。彼らは半ば暴走気味に、機体温度の警告を無視して俺を追いかけてきたらしい。
「……。やかましい。若造。道を開けよ。ブレーキが。効かぬわい」
急降下によって機体速度は音速に近づいていた。圧縮された空気がシュトラール零型の装甲を叩き、凄まじい風切り音がコクピットを満たす。
王都の上空に差し掛かった瞬間。
――ドォォォォォンッ!!
大気を引き裂く衝撃波が、王都の建物や人々の鼓膜を揺らした。
***
中央工廠の第一滑走路。
俺は高度を極限まで落とし、機体を大きく旋回させた。
速度を落とすための「デッドリーフ(落葉)」機動。木の葉が舞い落ちるように、ひらり、ひらりと重力をいなしながら、漆黒の機体は滑走路へと静かに足を下ろした。
タイヤが白亜の石材を噛み、白煙を上げる。機体が完全に停止した時、俺は深いため息を吐き、コクピットのキャノピーを開放した。流れ込んできたのは、重油の匂いと、地上の生ぬるい空気。
そして、軍の高官たちの、絶望と驚愕に満ちた静寂だった。
「せ、聖女様……。一体、どこまで……。あの黒い空は何なのですか!?」
腰を抜かし、座り込んだベルシュタイン公爵が、震える声で問いかけてくる。
俺は煤と油で汚れた顔を拭い、十二歳の少女には相応しくない、冷徹な老兵の瞳で彼を見据えた。
「……。これが。空の。真実じゃ。魔法に。限界は。あっても。鉄に。理に。限界はない。若造。精霊を。拝む前に。図面を。拝め」
公爵は言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くした。
その背後で、アイゼンとガッツが、初めて互いの肩を叩き、固い握手を交わしているのが見えた。ガッツの目には、拭い切れない涙が煤と共に流れていた。フェイは、零号の影から、誇らしげに、そして泣き笑いのような顔で俺に手を振っている。
俺は、彼女に小さく頷き返し、機体から降り立った。
***
数日後。王都での喧騒を「聖女としての沈黙」で乗り切り、俺たちは再び王立機導学園のガレージへと戻っていた。そこには、王都の豪華な宮殿にはなかった、煤と油の、愛おしい日常があった。
「師匠、お茶入ったよ! 特級品の、渋いやつ!」
フェイが差し出したカップから、いつもの香りが立ち上る。
アイゼンはガレージの片隅で、ジャンの拾ってきたジャンクパーツを解析し、ガッツは「そこはこう叩くんだ!」と熱血指導を始めている。
「……。お茶が。美味い。やはり。ここが。落ち着く。のう」
俺は椅子に深く腰掛け、窓の外に広がる青空を見上げた。あの日見た、黒い空。そのさらに先には、月があり、星があり、宇宙がある。
この身体はまだ十三歳。前世でやり残したこと、そしてこの世界で見つけるべきことは、まだまだ山ほどありそうだ。
「……。さて。次は。どこへ。行こうか」
鉄と油の聖女。
伝説のエースパイロット、セリナ・フォン・アルスタインの、本当の戦いはこれから始まるのだ。
(第一部・完)
第三十話をお読みいただき、ありがとうございます。
ついに第一部完結となりました。セリナが成層圏に到達し、アイゼン、ガッツ、フェイたちの想いが一つに結実する瞬間に、最大限の熱量を込めさせていただきました。
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次回より、物語はさらに加速する「第二部」へと突入いたします。




