第二十九話:空の境界、あるいは成層圏への挑戦(中編)
王都、中央工廠の第一滑走路。
白亜の石材が幾何学模様を描くその広大な敷地は、王国の軍事的な権威と、精霊の加護を象徴する聖域でもあった。
雲一つない蒼天の下、滑走路の周囲にはベルシュタイン公爵を筆頭とする軍の高官たちが、その煌びやかな正装の胸を張って並んでいる。さらにその周囲を、純白の甲冑に身を包んだ精霊騎士たちが固め、王国の新しい「奇跡」が産声を上げる瞬間を今か今かと待ちわびていた。
彼らの視線の先に鎮座するのは、漆黒の異形、シュトラール零型。
魔法による加飾を一切排し、剥き出しのボルトと鈍い鉄の質感を晒すその機体は、優雅な白鳥の群れの中に投げ込まれた黒い杭のように、異質な威圧感を放っている。
「聖女セリナ様、準備はよろしいかな? 国民は、貴女の『加護』がこの新型機をいかなる高みへと導くのかを、固辞して見守っておりますぞ」
公爵の尊大な声が拡声魔法に乗って響き渡る。彼はこの実験を、聖女の奇跡を喧伝するための単なる「見世物」だと信じて疑っていないようだった。
俺――セリナ・フォン・アルスタインは、重厚な耐Gスーツを模した飛行服を纏い、コクピットの中で深く目を閉じた。
「……。加護を。おー。承知。祈りを。捧げると。しよう」
俺は神聖な祈りを捧げるポーズをとり、周囲の目を欺きながら、手元では無機質なスイッチを次々と切り替えていった。
外部スピーカーからは、聖歌隊による清らかな歌声が流れ始める。だが、俺の耳に届いているのは、燃料ポンプが作動する低い脈動と、過給機のベアリングが回転を始める微かな金属音だけだ。
聖女の祈り。それは、この国の無知な支配者たちに見せるための、安っぽい「煙幕」に過ぎない。
俺が閉じた瞼の裏で見ていたのは、神の姿ではなく、数十枚におよぶ計器盤の針の動き、そして過給機へ流れ込む空気の流体シミュレーションの結果だった。
(アイゼン。ガッツ。フェイ。……準備はいいな)
心の中で、地下で共に鉄を打った仲間たちの名を呼ぶ。
俺の指先が、エンジンの始動スイッチを叩いた。
――ズドンッ!!
聖歌を、そして広場の静寂を、物理的な「暴力」が引き裂いた。
精霊石の静かな輝きではない。重油が爆発し、鋼鉄のピストンが空気を引き裂く咆哮。機体後方の排気管からは、不完全燃焼の黒煙を切り裂いて、澄み切った青白い火炎が噴き出した。
周囲にいた騎士たちの軍馬が驚いて棹立ちになり、公爵たちが顔を覆って後退する。
魔法という優雅な奇跡に慣れきった彼らにとって、それは「加護」などではなく、地獄から這い出してきた鉄の怪物の咆哮に聞こえたに違いない。
「……。さて。行こうか。相棒」
スロットルを一気に押し込む。
シュトラール零型は、重力という呪縛を嘲笑うかのような加速度で、白亜の滑走路を蹴った。
***
離陸した瞬間、世界は劇的に変容した。
地上での重力に加え、機体が急上昇を開始したことによる凄まじい「G」が、十三歳の未発達な身体をコクピットに押し付ける。内臓が背骨に張り付くような圧迫感。俺は前世で死ぬほど繰り返した「抗G呼吸」を開始した。
腹圧を極限まで高め、脳への血流を維持する。視界が狭まる「グレイアウト」の予兆を、気合と確かな技術でねじ伏せていく。
機体は垂直に近い角度で、蒼天を貫いていく。
高度三千メートル。
通常、この高度は精霊たちが最も活発に歌う領域であり、魔力駆動の機体にとっては最も安定した「遊び場」だ。後ろからは、俺の監視と援護を名目に、最新鋭の精霊騎士たちが四機、魔力の翼を広げて追従してくる。
「聖女様! 上昇角度が急すぎます! 陣形を維持してください!」
無線機からカイル大尉の焦った声が届く。だが、俺はそれを無視して、過給機のバイパスバルブを一段階開放した。
「……。若造ども。ついて。こられるかな」
高度五千メートル。
空気が急激に冷え込み、機体周囲を漂っていた精霊たちの気配が、薄氷が割れるような音を立てて消失し始めた。
魔法の媒介となる精霊の密度が、物理的な高度の上昇に伴って減少していく「魔力の境界線」だ。
背後で、カイルたちの機体に異変が起きた。
精霊の加護に頼り切った「魔法冷却」が、精霊の不足によって機能を停止。彼らの機体はオーバーヒートを起こし、翼の魔力回路からは不気味な紫色の火花が散り始めた。
「ば、馬鹿な!? なぜあの黒い機体は、精霊のいないこの高度で加速できるんだ!?」
絶叫と共に、四機の精霊騎士たちが次々と失速し、豆粒のように小さくなっていく。
俺は、独りになった。
周囲に漂うのは、もはや神聖な加護などではない。ただの、冷たく、希薄で、冷酷な物理法則が支配する真実の空だ。
***
高度八千メートル。
そこは、かつてガッツの親友が命を落とし、アイゼンが絶望を見た「魔の空域」だった。
外気は氷点下四十度を下回り、酸素は地上の三割にも満たない。シュトラール零型の機体全体が、激しい共振を起こし始めていた。空気の圧縮に伴う「ノッキング」がエンジンを揺らし、計器盤の針が狂ったように振れる。
「……。おー。苦しいか。わかるぞ。今。楽にしてやる」
酸素不足による出力低下。そして、過給機の過熱。
地上でモニターしているアイゼンやガッツたちが、絶望的な数値を前に息を呑んでいるのが、手に取るようにわかる。
俺は冷静に、改修した「インタークーラー用バイパスレバー」に指をかけた。
魔法の加護ではない。ただの、熱交換の法則に基づく物理的な解決策。
カチッ、という機械的な手応え。
次の瞬間、機体を襲っていた不快な振動が、嘘のように消え失せた。
ドォォォォォ……。
咆哮が、澄み切った、高い共鳴音へと変わる。
エンジンが、適切な酸素と冷たい吸気を得て、歓喜の声を上げ始めたのだ。過給機の針が、設計上の限界値を悠々と超え、未知の領域へと跳ね上がる。
「……。おー。良い。声じゃ。もっと。高く。行こう。相棒。お主の。力。見せて。やれ」
俺は操縦桿をさらに引き、機首を天の真ん中へと向けた。
視界の端で、空の色が鮮やかな青から、深い、濃い、吸い込まれるような紺色へと沈んでいく。
魔法が死に、物理が支配する領域。
十三歳の聖女は、かつての老兵の魂をその身に宿し、世界の屋根を突き破るための「最後の一撃」へと備えた。
(つづく)
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次回、「第三十話:空の境界、あるいは成層圏への挑戦(後編)」です。




