第二十八話:空の境界、あるいは成層圏への挑戦(前編)
王都、中央工廠の最深部。精霊の光が届かぬ地下格納庫には、二ヶ月もの間、鋼鉄を叩く音と溶接の火花、そして老兵たちの罵声が絶え間なく響き渡っていた。
超高高度試作機『シュトラール零型』の改修。それは、魔法至上主義のこの王国において、物理駆動の限界に挑むという、あまりに無謀で、かつ熱狂的な「聖域」の構築であった。
「アイゼンの糞ジジイ! この吸気パイプの取り回しは何だ! 物理的な空間が足りねえって言ってるだろうが!」
ガッツが巨大なスパナを振り回し、床に広げられた巨大な図面を指差して叫ぶ。その顔は重油と煤で黒く汚れ、数日まともに寝ていないことが一目でわかるほど隈が酷いが、瞳にはかつてないほどの生命力が宿っていた。
「黙れ、野蛮人め。お前の現場主義な配管では、空気の流速が落ちる。成層圏の希薄な空気を効率よく圧縮するには、この滑らかな曲線こそが至高なのだ。美しくない設計に、真理は宿らん」
アイゼンもまた、軍の最高礼装を脱ぎ捨て、泥にまみれた作業着姿で応戦していた。狂気の天才設計者と、現場を知り尽くした鬼。二人の伝説は、事あるごとに衝突し、まるで子供の喧嘩のように互いの理論をぶつけ合っていた。
「……。おー。また。始まったわい。……。……。お茶が。不味くなる」
俺――セリナ・フォン・アルスタインは、格納庫の隅に置かれた木箱の上で、渋い茶を啜りながらその光景を眺めていた。
改修が始まってから、季節は静かに移り変わっていた。俺が提示した「インタークーラー(中間冷却器)」の概念と、高高度における物理エンジンの出力特性。それらを具現化するために、二人の老兵は文字通り心血を注いでいた。
「ねえ、ニコラ。あの二人、さっきから一時間もネジ一本の締めトルクで言い争ってるわよ」
ルミエがフラスコに入った特殊冷却液を調合しながら、呆れたように呟く。
「仕方ないよ。アイゼン先生は理論上の完璧を求めているし、ガッツさんは『俺の感覚が信じられねえのか』って言ってるからね。……。なんていうか、伝説の二人も、結局はただの偏屈なおじいちゃんだよね」
ニコラが旋盤を回しながら苦笑いする。学園から王都へ駆けつけたFクラスの面々は、今やこの地下格納庫において欠かせない「部隊」となっていた。
イザベラに叩き込まれた軍隊顔負けの規律で、彼らはアイゼンとガッツの無茶な要求に完璧に応え続けている。魔法を使えない落ちこぼれと呼ばれた彼らが、王都の最高技術を支える一翼を担っている事実は、皮肉でありながらも痛快な光景だった。
「……。二人とも。そこまでじゃ。……。……。時間は。無限では。ない。……。……。フェイ。お主が。……。裁定せよ」
俺がそう告げると、機体の腹下に潜り込んでいたフェイが、オイルまみれの顔を出して立ち上がった。彼女はセリナ(俺)の意図を最も深く理解し、今やこの現場の実質的な「現場監督」となっていた。
「アイゼン先生、流速を優先するあまり整備性を無視したら、空の上でトラブルが起きた時に師匠が対応できません! ガッツさん、信頼性は大事だけど、この重さじゃ高度一万フィートで出力不足になります! 師匠の図面通り、バイパスバルブを介した二系統で行きます。……文句はなし!!」
フェイの凛とした声が響く。アイゼンとガッツは不満げに顔を合わせ、鼻を鳴らした。
「……。ふん。フェイの言う通りだ。……。お前の理論に付き合うのは、時間の無駄だからな」
「それはこっちの台詞だ、糞ジジイ。……。嬢ちゃん、今の聞いたか? フェイの奴、すっかり親方気取りだぜ」
二人の老兵を黙らせるフェイの成長に、俺は満足げに目を細めた。
この二ヶ月、彼女はセリナが残した「前世の知識」が混じった暗号を完璧に読み解き、アイゼンたちの古い物理学に、俺たちの世界の「常識」を少しずつ、しかし確実に接合させていたのだ。
***
改修作業が佳境に入ったある夜。
日付が変わり、俺はふと、自分の身体が少し「重くなった」ような感覚を覚えた。
「お嬢様、おめでとうございます。本日は、貴女様の十三回目の御生誕日ですね」
イザベラが、いつものように完璧なタイミングでお茶を淹れ、小さな、しかし心のこもったケーキを俺の前に置いた。
格納庫の片隅。華やかな王都の社交界であれば、国を挙げた祝宴が開かれていたはずの日。だが、今の俺の周りにあるのは、油の匂いと、寝静まったFクラスの生徒たちの寝息。そして、暗がりの中で設計図と睨めっこを続ける二人の老兵の姿だった。
「……。おー。そうか。……。……。わらわも。十三か。……。……。少し。……。背が。伸びた。……。ようじゃな」
鏡を見ずともわかる。この身体は、確実に成長している。
中身が六十五歳の老兵である俺にとって、誕生日などただの数字の更新に過ぎない。だが、この世界で「セリナ」として生き、この仲間たちと共に鉄を打っていると、自分の魂まで新しく生まれ変わっているような、不思議な高揚感を覚えるのだ。
「師匠、お誕生日おめでとう!」
物音に気づいたフェイが、目をこすりながら近づいてきた。彼女は作業着のポケットから、小さな、しかし見事に研磨された「チタン製のボルト」を差し出した。
「これ、私が自分で削ったの。……零号にも、シュトラールにも使われていない、師匠専用のラッキーパーツ。……。……。師匠、大好きだよ」
その言葉に、俺は思わず微笑んだ。
「……。おー。……。礼を。……。申す。……。大切に。……。するわい」
セリナ、十三歳。
前世の俺であれば、引退後の余生を考える年齢だったかもしれない。だが、今の俺の前には、まだ誰も到達したことのない「黒い空」が広がっている。
***
そして、二ヶ月の歳月が過ぎた。
地下格納庫の中央に鎮座する『シュトラール零型』は、もはや二ヶ月前とは別物の機体へと変貌を遂げていた。
巨大な物理式過給機には、三層構造のインタークーラーが装備され、冷却水と吸気のバイパスラインが血管のように複雑に、かつ合理的に配置されている。軽量化のために取り払われた装甲の代わりに、強度が必要な箇所には高硬度の物理合金が追加され、機体全体のバランスは「エース」の操縦に応えるべく極限まで研ぎ澄まされていた。
「準備はいいか、セリナ。……。これこそが、我ら三人の……いや、全員の魂を注ぎ込んだ、真の鉄の翼だ」
アイゼンが、神聖な儀式を執り行う司祭のような厳かさで言った。
ガッツもまた、無言で機体のエンジンカウルを力強く叩き、俺の背中を押した。
「……。おー。……。待たせたな。……。若造ども。……。空の。……。境界線を。……。見に。……。……。行くぞ」
俺はフェイから受け取ったヘルメットを被り、コクピットへと這い上がった。
魔法の灯りではない。
魂を震わせる物理の咆哮が、地下格納庫の壁を揺らし始める。
セリナ・フォン・アルスタイン、十三歳。
今、伝説のエースが、二度目の「成層圏」へと旅立つ時が来た。
(つづく)
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次回、「第二十九話:空の境界、あるいは成層圏への挑戦(中編)」です。




