第二十五話:灰色の記憶、あるいは残像の追跡
王都の夜は、精霊灯の淡い青光に包まれ、静謐な美しさを保っていた。
アルスタイン伯爵邸の豪華な客間。天蓋付きのベッドに腰を下ろした俺――セリナ・フォン・アルスタインは、ようやく「拘束具」から解放された解放感を噛み締めていた。
イザベラが用意した、最高級のシルクで仕立てられた簡素な寝着。締め付けられるコルセットもなく、肌を撫でる夜風が心地よい。だが、俺の意識は、先ほど晩餐会のバルコニーで耳にした「あの言葉」に釘付けになったままだった。
「……。コンタクト。エンゲージ。……。エアフォース。……。おー。懐かしい。響きじゃな」
俺は銀の盆に置かれた、少し冷めた茶を喉に流し込んだ。
この世界には存在しないはずの概念。レーダーが敵影を捉え、交戦を開始する際に、無線機越しに交わしていた軍事隠語。そして何より、航空戦力を指す「空軍」という呼称。
あの老紳士が口にしたのは、魔法の詠唱でも、貴族の洒落た隠喩でもない。紛れもなく、硝煙と重油の匂いが染み付いた、戦場のプロフェッショナルが使う言葉だった。
「……。毒を。持っておる。……。あの眼。……。わらわと。同類じゃわい」
鏡に映る十二歳の可憐な少女の姿。その双眸に宿るのは、聖女の慈愛ではなく、獲物の足跡を追う老練な狩人の光だ。
もし、奴が俺と同じ「前世の記憶」を持つ転生者だとしたら。そして、その知識を軍の内部で活用しているのだとしたら。王国軍が物理駆動の実験を行っていた理由も、あのベヒーモスの人為的な汚染も、すべてが一本の鋼線で繋がっていく。
***
翌朝。
窓から差し込む陽光が、磨き上げられた寄木細工の床を照らす中、俺は朝食を運んできたイザベラを呼び止めた。
「……。イザベラ。……。昨夜の。老紳士。……。アイゼン。……。と言ったか」
俺がそう尋ねると、イザベラはティーポットを持つ手を一瞬だけ止め、僅かに眉を寄せた。彼女の記憶の書庫から、その名に関連する情報を引き出しているのだろう。
「ウォルフガング・フォン・アイゼン元中将。……お嬢様、よくあの方のお名前を。……。彼は数年前まで軍の技術局長を務めていた重鎮ですが、今は公には退役した身とされております」
イザベラは、カップに茶を注ぎながら、声を一段低くした。
「彼は魔法至上主義の軍部において、唯一『物理的検証と定量的分析』の重要性を説き続け、周囲からは『精霊を信じぬ異端』として閑職に追いやられました。ですが、その実力と先見性を恐れる者は多く、今でも軍の影の相談役として絶大な影響力を持っていると言われています」
「……。アイゼン。鉄の。門番。……。おー。良い。名じゃわい。……。……。気に入った」
魔法を信じず、数値と理論を信じる軍人。前世の俺であれば、最も信頼に足るタイプの指揮官だ。だが、この世界においてその知識は、時として悪魔の知恵となり得る。
俺はイザベラの目を盗み、朝食の盆に添えられていたメモ用紙に、素早くペンを走らせた。
宛先は、学園のガレージで留守を守っているフェイだ。
『フェイ。ジャンのゴミ山を探れ。……。軍の古い書庫。……。過給機。過給機についての。記述。……。高度。一万。一万フィート。……。そこを。目指した。……。足跡を。探せ』
俺は、前世の航空用語を暗号として混ぜ込んだ。メカニックである彼女なら、この言葉の異常さに気づくはずだ。この世界の「空」は、まだ魔法という名の生温い檻に閉じ込められている。だが、誰かがその檻を、物理という名の杭でぶち抜こうとしている。
***
午後。
叙勲の儀を終えた「聖女」の公式行事として、俺は王都の心臓部、中央工廠への視察に赴いた。
カイル大尉が、昨夜の失態を挽回せんばかりの恭しさで案内役を務めているが、俺の目は、彼が自慢げに紹介する「精霊の祝福を受けた最新鋭の生産ライン」には向いていなかった。
「聖女様、こちらが我が軍が誇る精霊石の研磨工房です! この純度こそが、騎士団の強さを……」
「……。あー。やかましい。……。あちら。……。あの。……。埃を。被った。……。区画は。何じゃ」
俺が指差したのは、工廠の最北端。
魔法の光が届かない、薄暗く、錆びた鉄の匂いだけが停滞している閉鎖区画だった。
カイルは顔を引きつらせ、「ああ、あそこはかつての失敗作……物理駆動の研究を行っていた廃棄区画です。今は物置として使われておりまして」と、不快そうに答えた。
「……。見せよ。……。わらわの。……。嗅覚が。……。呼んでおる」
俺は有無を言わさぬ足取りで、重い鉄の扉を開けさせた。
そこは、魔法至上主義の王国における「墓場」だった。
かつて試作されたのであろう、巨大なピストン、複雑に絡み合う銅のパイプ。そして部屋の隅に鎮座していたのは、精霊石を動力源としない、純粋な物理駆動エンジン――それも、高高度での出力を補償するための「過給機」の試作機だった。
魔法に頼らず、気圧の変化を物理的にねじ伏せようとした痕跡。
俺がその錆びた歯車にそっと触れようとした時、背後の闇から、足音もなく男が現れた。
「……この圧縮比では、高高度の希薄な酸素には耐えられん。……そうだろ?」
昨夜のバルコニーと同じ、低く、しかし驚くほど明瞭な声。
ウォルフガング・フォン・アイゼン。
彼は昨日の夜会服を脱ぎ、動きやすそうな軍用コートを纏い、まるで自分の書斎に客人を招くかのような平然とした態度でそこに立っていた。
俺は振り返らず、歯車の隙間に指を滑らせたまま、静かに口を開いた。
「……。おー。……。燃料の。霧化が。甘いだけ。……。ではないか。……。吸気。温度。……。……。そこの。制御が。……。なっとらん」
「……。ふ。……。……。やはり、お前は『こちら側』の人間か。……。いや、聖女様と呼ぶべきかな」
ウォルフガングは一歩、俺の隣へと歩み寄った。
二人の間に、魔力の火花は散らない。だが、そこには高度な物理演算と、極限の空を知る者同士にしか分からない、刃のような緊張感が満ちていた。
「この世界の連中は、空に『限界』があることを知らない。……。高度一万を超えれば、精霊の歌声は届かず、魔法は霧散する。……。そこから先は、鉄と理の領域だ」
「……。おー。……。その。……。先を。……。……。見ようと。……。したのか。……。……。若造」
俺が「若造」と呼ぶと、ウォルフガングは僅かに目を細め、愉しそうに笑った。
「若造、か。……。いい響きだ。……。私の計画には、お前の『眼』が必要だ。……。聖女としてではなく、一人のパイロットとしての眼が」
俺はゆっくりと振り返り、老将の瞳を真っ向から見据えた。
「……。おー。……。お主。……。……。良い。……。酒を。……。……。持っておるか」
「ああ。……。最高級の『重油』なら、いくらでもある」
名前も、過去も、まだ語られない。
だが、この瞬間、王都の暗がりに沈んでいた廃工場は、二人の「戦友」が再会した空域へと変わった。
伝説のエースの「余生」は、どうやら王国の屋根を突き抜け、成層圏の彼方へと向かおうとしていた。
(つづく)
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次回、「第二十六話:鋼鉄の共犯者、あるいは試作機の咆哮」です。




