第二十二話:地獄のブートキャンプ、あるいは勘違いの聖域
王立機導学園の隅にあるFクラスのガレージに、革命が起きていた。
かつては油の染みと鉄屑、そして「落ちこぼれ」たちの投げやりな空気が沈殿していたその場所は、今や王都の近衛兵舎も驚くほどの規律と清潔感に支配されている。
壁に掛けられたレンチ、スパナ、ドライバーといった無数の工具は、サイズ順に一ミリの狂いもなく並べられ、鈍い銀光を放つまで磨き上げられている。床には油汚れ一つなく、中央に鎮座する実験機零号の装甲は、鏡のように周囲を映し出していた。
ニコラ、ルミエ、ボリスといった面々は、ガレージの片隅で背筋をピンと伸ばし、直立不動の姿勢をとっている。彼らの視線の先には、純白のエプロンドレスに身を包み、冷徹なまでの正確さで在庫リストを確認する鉄の侍女、イザベラの姿があった。
「ニコラ様、ボルトの在庫が三本足りません。報告漏れは戦場では死に直結します。……。ルミエ様、そのフラスコの持ち方。指の角度が甘い。やり直しなさい」
「ひ、ひいっ! はいっ、ただちに!」
イザベラの低い、しかし芯の通った声が響くたび、Fクラスの若造たちは弾かれたように動き出す。そこにはもはや、魔法を使えないことを嘆く暇など一秒も存在しなかった。
「……。おー。箱は。整ったな。次は。中身じゃ。……。若造ども。集まれ」
俺――セリナ・フォン・アルスタインは、フェイが淹れた格別に渋い茶を飲み干し、木箱から立ち上がった。
イザベラが整えたこの環境は素晴らしい。だが、機体という「器」を完璧にしても、それを操る、あるいは支える「人間」がひ弱なままでは、本当の戦場では通用しない。
「師匠、嫌な予感がするんだけど……。その、おじいちゃんがニヤリと笑う時って、大抵ロクなことが起きないわよね」
フェイが頬を引きつらせて一歩下がるが、俺は逃がさない。
「……。フェイ。お主も。例外ではない。……。……。ジャン。ゴミの中から。出てこい。……。全員。裏庭へ。整列じゃ」
***
学園の裏庭、人目につかない広場に、登校拒否組も含めたFクラスの全生徒、三十名が集結していた。
彼らは一様に不安げな表情を浮かべていたが、その背後で竹鞭をピシャリと鳴らすイザベラの威圧感に押され、私語一つ漏らすことができない。
「……。若造ども。お主らに。足りないのは。魔力ではない。……。己の。肉体への。信頼じゃ」
俺は十二歳の可憐な少女の身体で、前世の機導大隊で行われていた「新兵教育」の開始を告げた。
「魔法は。杖に。頼る。……。鉄は。己に。頼る。……。……。まずは。己を。鉄に。変えるのじゃ」
そこから始まったのは、現代の魔法至上主義の若者たちにとっては、拷問にも等しい「地獄の基礎鍛錬」だった。
まずは上半身を晒しての乾布摩擦。皮膚の血行を良くし、機体の僅かな振動を全身の肌で感じ取るための「センサー」を磨く。
次に、泥まみれの地面を這い進む匍匐前進。重心の移動を極限まで低く保ち、物理的な死角を体得させる。
そして極めつけは、巨大な薪を背負っての空気椅子。それも、ただ座るだけではない。その姿勢のまま、難解な物理動力学の公式を全員で斉唱させるのだ。
「……来る。三秒後に。限界が。……。……おえっ」
テオが顔を青白くしながらスクワットを繰り返す。極度の乗り物酔い体質である彼は、平衡感覚が敏感すぎる故に、自分の身体がわずかに揺れるだけで激しい吐き気に襲われる。だが、イザベラがその横で冷たく告げる。
「テオ様、吐くのは結構ですが、姿勢が乱れています。あと百回。……。ジャン様、ゴミ山で培った身軽さはどこへ行きましたか? 腕立て伏せの速度を上げなさい」
「く、くそっ! なんで俺までこんな原始的なことを!」
ジャンが泥を噛みながら叫ぶが、セリナ(俺)が横で涼しい顔をして同じメニューをこなしているのを見て、言葉を飲み込んだ。
俺のこの身体は十二歳の華奢な令嬢のものだ。だが、呼吸法を最適化し、骨格のバランスを完璧に制御すれば、若造たちに負ける道理はない。
「……。ほら。若造。……。……。おじい……。いや。わらわに。負けて。どうする」
泥だらけの美少女が平然と腕立て伏せを続ける光景は、あまりにも異常であり、同時に、Fクラスの生徒たちの魂に火をつけるには十分な衝撃だった。
***
その頃。裏庭の異様な光景を、遠くの校舎の屋上から隠れるようにして見守る一団があった。
Aクラスのエリート生徒たちである。
「……おい、あれを見ろ。アルスタイン家の聖女様が、何やら『秘儀』を行っているぞ」
一人が震える手で望遠鏡を覗き込み、戦慄した声を上げた。
彼らの目には、セリナたちの過酷な訓練が、文字通りの意味で映っていなかった。
「あの泥にまみれた動き……間違いない。大地の魔力を直接、肌から吸収するための『土属性の古代術式』だ! 魔法杖を介さず、全身を回路化しているんだ!」
「なんてことだ。あのタオルで肌を激しく擦り合わせる儀式……あれは皮膚の魔導抵抗を摩擦熱でゼロにする、失われた秘策に違いないわ。聖女様は、Fクラスの無能たちを、その身を持って救済しようとしているんだ!」
勘違いは光の速さで、そして尾ひれを付けて学園中に広まっていった。
聖女様は、魔法の限界を超えた。
泥をまとい、肌をこすり、脚を曲げて耐える。その先にこそ、真の魔力が宿る。
鉱山での「奇跡」を目の当たりにした生徒たちにとって、セリナの行動はすべてが「高次の神聖な儀式」として解釈されたのだ。
***
翌朝。
俺がいつものようにガレージへ向かおうと廊下を歩いていると、妙な光景に出くわした。
「……。おー。若造ども。……。何をして。おるんじゃ」
廊下のあちこちで、Aクラスの男子生徒たちが上半身裸になり、必死の形相でタオルを肌にこすりつけていた。さらに、高慢なはずの令嬢たちが、豪華なドレスの裾を捲り上げ、プルプルと足を震わせながら壁際で空気椅子に励んでいる。
「あ、聖女様! 見て下さい、私もようやく『摩擦の呼吸』のコツを掴んできました!」
筋肉痛で顔を歪ませた男子生徒が、崇拝の眼差しで俺に敬礼を送ってくる。
「……。流行病か。……。……。近づかぬように。しよう」
俺は全力で目を逸らし、逃げるようにガレージへと駆け込んだ。
学園中が「聖女様の修行」と称して原始的な筋トレに励むという狂気。おじいちゃんの俺には、今の若者の流行というものが全く理解できなかった。
***
その日の夜。
泥まみれの訓練を終えたFクラスの面々は、ガレージでイザベラが用意した食事を囲んでいた。
メニューは質素な鶏肉のスープと黒パン、そして新鮮な野菜のサラダだ。だが、規律正しく盛り付けられたその食事は、驚くほど滋養に満ち、酷使した身体に染み渡っていく。
「ふう……。死ぬかと思った。けど、不思議ね。みんなで同じ泥を舐めたら、なんだかアイツらの顔が前よりマシに見えるわ」
フェイが、隣に座るルミエとスープを分け合いながら笑う。
以前は互いを「無能同士」と蔑み、バラバラだったFクラス。だが、セリナに鍛えられ、イザベラに律せられたことで、彼らの間には一つの「部隊」としての結束が芽生え始めていた。
俺はその様子を、ガレージの特等席で茶を啜りながら眺めていた。
「……。おー。よう。笑っておるわい。……。……。飯が。美味いのは。良いことじゃ」
おじいちゃんの教官冥利に尽きる瞬間だ。
平和な、あまりにも平和な光景。だが、その輪から離れた場所で、イザベラが一通の手紙をじっと見つめているのに気づいた。
それは王都の本邸から届いた、伯爵の印章ではなく、より公的な、国の中枢を感じさせる不穏な封蝋が施された手紙だった。
イザベラの峻厳な横顔が、影の中でさらに険しくなる。
どうやら、おじいちゃんの「余生」を楽しむ時間は、そう長くは続きそうになかった。
(つづく)
第二十二話をお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、セリナ(おじいちゃん)のスパルタ教育と、それを「高貴な儀式」と勘違いして全校生徒が筋トレに励むという、壮大な勘違いコメディを描かせていただきました。
Fクラスの面々が、ただの落ちこぼれから、同じ泥にまみれることで「仲間」へと変わっていく過程。そして、イザベラという規律の象徴が加わったことで、彼らの生活そのものが「エースの戦場」に耐えうるレベルへと底上げされていく様子。これこそが、次なる大きな戦いへの布石となります。
次回、第二十三話。
「王都の招待状、あるいは檻の中の聖女」
日常回から一変、セリナを巡る国家規模の暗闘が再び始まります。
引き続き、鉄と油、そして勘違いが織りなす物語をお楽しみください。




