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四都物語異聞:艶の残響

 錦の袖に隠さるるものはなにか。哀歌をくちにするものは誰か。


     1


 帝都、青龍京(せいりゅうきょう)の夜は、静けさの中に、積み重ねられた威厳と、流麗なる(みやび)の気配が満ちていた。

 闇の(とばり)が都を覆う頃、宮中から()れる管弦の音が、夜風に乗って微かに聞こえる。その調べは、まるで千年の時を謡い上げるかのようだった。

 近頃はとんと使われなくなった牛車。それを敢えて用いて車輪を軋ませる音は、変わらぬ秩序の証。御門(ごもん)を守る武士たちは無言で立ち、その背後では陰陽師たちが呪を紡ぐ囁きが風に混じっていた。全ての音と静寂が、ここが四つの都を束ねる帝都にして、千年の権威の頂であることを物語っていた。

 兵部(へいぶ)大輔(たいふ)の位にある藤原(ふじわらの)季胤(すえたね)は、五十の(よわい)を目前にしながら、なおも人々の尊敬を集める存在であった。(まつりごと)に通じ、武にも明るく、家門は隆盛を極め、子らは皆、順当に育ち、妻もまた、賢淑(けんしゅく)であった。

 誰が見ても、絢爛(けんらん)たる錦のような人生。季胤自身もまた、己が歩んできた道を、一点の曇りもなく誇れるものと信じていた。

 だが、その盤石な基盤の裏には、彼自身さえも長らく目を背けてきた、一筋の深紅の縫い目があった。まるで、鮮やかな染料の(にじ)みのように、彼の心の奥深くに。

 それは若き日の記憶──季胤がまだ無名の貴族として、朝廷の末席に座していた頃。名もなき女との|隠された恋があった。

 彼女の名は、小夜(さよ)。身分は低く、都の片隅で琴を教え生計を立てていた。されど、その琴の音色は、名だたる姫君たちをも凌ぎ、まるで水面を揺らす月のように、心の奥底を震わせる何かを宿していた。

 その指が弦を撫でるたび、季胤の胸中に秘めたるものが、理性の鎧を突き破って流れ出す。彼女は、貴族の規範とは異なる、野に咲く花の奔放(ほんぽう)さと、(あやかし)のような不可思議な光を黒い瞳に宿していた。

 出逢いは偶然であったはずが、彼の心は必然に囚われた。

 彼女の存在は、彼がそれまで築き上げてきた、貴族としての規範を、根底から揺るがすものだった。季胤は、自身の中に、抑えがたい衝動が(うごめ)いているのを感じながらも、それを小夜への情熱だと信じ込んでいた。

 夜ごとの密会は、誰にも知られてはならぬ禁忌の遊びでありながら、季胤にとってはただ一つ、己が本来の姿でいられる時間でもあった。

 彼女の部屋にはいつも、甘くも哀しみを帯びた(こう)が漂っていた。

黄泉(よみ)残香(ざんこう)」と名づけられたその香は、小夜自らが調合したものである。心を鎮める一方で、心の奥底に秘められた情熱を(いぶ)り出し、忘れ去った記憶を鮮烈に呼び覚ます、不思議な力を持つと噂されていた。

 季胤は、その香に包まれるたびに、貴族としての仮面を脱ぎ捨て、ただ一人の男として、小夜の傍に在ることができた。あの香は、彼にとって、禁断の果実そのものだった。理性から解放され、五感が研ぎ澄まされるような、甘美な陶酔がそこにはあった。

 だが、運命は常に冷酷であった。家門の未来、役職の階梯(かいてい)、そして己が名誉──それらすべては、彼女との関係を許さぬものだった。

 理性は冷酷に決断を下したが、彼の心はちぎれるほどの痛みに(さいな)まれた。小夜に何の言葉も与えぬまま、理性の剣でその絆を断った。彼女はただ黙って、夜の帳のように静かに消えた。消息は知れなかった。

 都の陰陽師(おんみょうじ)が調査に乗り出そうとも、闇払(やみばら)いが廃都の影を追うとも、彼女の気配を見つけることはできなかった。

 季胤に残されたのは、あの香の記憶と、夢のような吐息──それは、錦の表には決して現れぬ、心の裏地に深く染み込んだ一滴の血のような痕であった。

 彼はその記憶を、自らの心の奥底に、決して開けてはならぬ禁断の箱のように封じ込めた。時間だけが、その痛みを薄れさせると信じていた。

 そして今、南方の廃都(はいと)朱雀(すざく)(きょう)から、ひとりの老いた闇払いが都に現れた。彼は、廃都のさらに奥深く、妖と契りを交わした者だと噂される奇妙な風体の男。深く刻まれた皺の奥には、人に(あら)ざる者の気配を知る者だけが持つ深い諦念(ていねん)と、言い知れぬ寂寥(せきりょう)が宿っていた。

 闇払いとは、妖の討伐を生業とする者である。中には妖と対話することで世界の均衡を保つ、特殊な能力を持つ者たちもいる。その男が、季胤の邸に一つの包みを届けた。

「故郷の者からの預かり物」と囁きながら、彼の瞳は季胤の心の奥を見透かすかのようだった。

 包みを開けば、風雨に晒され色褪せた布に包まれた、古びた琴の弦と、掌にすっぽりと収まるほどの小さな香壺(こうご)があった。香壺の蓋を開けた刹那、あの香りが、微かに、しかしあまりにも鮮明に、季胤の鼻腔をくすぐった。

「黄泉の残香」──過去の彼自身が葬ったはずの香りが、年月を超えてよみがえった瞬間であった。その時、封じてきた記憶の扉が音を立てて開く。それは、忘れていたはずの熱を、彼の心の奥深くに灯したのだった。


     2


 書斎に満ちる「黄泉の残香」は、ただの「香」ではなかった。それは、季胤の深層に眠る記憶と情念を呼び覚ます、魔の扉そのものだった。

 香りが濃くなるにつれ、小夜の面影が幻のように浮かび上がる。微笑、瞳の奥の謎めいた光、指先が弦に触れる音──すべてが、現実のように鮮明に蘇る。まるで、薄い帳の向こうに、彼女が息づいているかのようだ。

 香の粒子が肌を撫でるたび、小夜の指先が、彼の全身に触れるような錯覚に陥る。吐息が耳元を(かす)め、全身を甘く痺れさせる。書斎の空気は次第に粘度を増し、彼の五感を絡め取っていく。

 季胤は、ふと書棚に手を伸ばし、そこに置かれた琴の弦に触れた。その瞬間、弦が微かに震え、部屋の空気に波紋を投げた。それは、まるで小夜がそこにいて、琴を弾いているかのようだった。

 彼の指先には、あの時の小夜の指の温もりさえ感じられた。音なき音が、彼の心を打つ。長年、心の奥底に押し込めていたはずの感情が、一気に堰を切ったように溢れ出す。

 気づけば、季胤は無意識のうちに、その名を呼んでいた。

「……小夜」

  声に出したその一言で、彼の中の均衡が音を立てて崩れ始めた。その声は、渇ききった喉から絞り出すように掠れており、自身の声とは思えぬほどだった。

 これまで守り抜いてきた日常の静謐(せいひつ)さは、砂の城のように脆くも崩れ去っていく。完璧だと信じていた彼の人生が、過去の亡霊によって侵食されていく。彼の精神は、徐々に浸食され、自分が何者であるかという存在の輪郭が、香の煙と共に曖昧に溶けていくのを感じていた。

 誰にも語らず、誰にも見せぬままに、封じ込めてきた過去──それが、香の力を媒介として、今まさに彼を飲み込まんとしていた。 彼は、この香がもたらす酩酊感(めいていかん)に、(あらが)いがたい魅力を感じていた。それは、かつて小夜が彼を(とりこ)にした、甘く、そして恐ろしい「艶」そのものだった。その背徳的な快楽に、彼の心は深く沈み込んでいった。

 その夜、季胤は、誰にも見られぬよう、書斎の最も奥深くに籠った。 再び香壺の蓋を開けると、あの懐かしき香りが、濃く、甘く、胸を締めつけるように満ちていく。書斎の灯火はぼんやりと霞み、壁にかかる絵も書物も、煙の向こうで現実感を失っていく。思考は次第に霞み、現と幻の境が溶けていく。

 耳元に、小夜の囁く声が聞こえる気がした。その声は、懐かしくもあり、どこか異界の響きを(はら)んでいた。

「……果たして、これは記憶か」

 季胤は、己に問いかけた。

「……あるいは、香に導かれし、妖しき現実の扉か」

 彼は、もはや自分の意思で香を断つことができなかった。まるで、魂が香に囚われているかのようだ。それは、自らの意思に反して、禁断の蜜に誘われるような、甘くも恐ろしい感覚だった。

 彼は、この香に、そして小夜の記憶に、溺れていく自分を止められないでいた。 彼の完璧な世界が、音を立てて歪み始めていることに、彼はまだ気づいていなかった。そして、その歪みは、やがて帝都全体を巻き込む、忌まわしき因果の端緒となることを──彼はまだ知る由もなかった。


     3


 季胤は、数日ものあいだ書斎に籠もり続けた。政務には名代(みょうだい)を立て、家族にも病と告げて人払いを命じた。妻や子供たちの心配そうな視線を感じながらも、彼はそれらを無視した。彼を縛り付けるのは、もはや琴の音と香の誘惑だけだった。

 かつての英才は、今や屋敷の奥に潜む隠者のごとき有様であった。だが、それを咎める者はいなかった。彼の名声はあまりに高く、家人すら口を閉ざすほかなかったのである。 

 季胤の精神は、徐々に疲弊していった。

 まどろみの中で、小夜の幻影はより鮮明に、より生々しく彼の前に現れる。

 彼は、自分が何者であるかという存在の輪郭が、香の煙と共に曖昧に溶けていくのを感じていた。思考は緩慢になり、現実への関心は薄れた。彼の魂は、過去の情念の渦へと引き込まれていく。

 昼夜の区別もなく、彼は香を()いた。

 黄泉の残香──それは、確かに過去を呼び覚ます香であった。だが同時に、それは現実を侵す幻惑でもあった。

 煙の奥に浮かぶ影。

 ほのかに現れる小夜の面差し。

 手を伸ばせば届きそうで、だが指先は虚空を掴む。その度に、彼の心は絶望と、しかし抗い難い渇望の狭間で引き裂かれる。

 彼は、自分が正気を失いつつあることを自覚しながらも、この「艶」から逃れることができなかった。幾度も幾度も、季胤は(うつつ)(まぼろし)の狭間をさまよい、記憶の底へと、そして彼が封じ込めていたはずの、魂の深淵へと沈んでいった。

 ある夜のこと。香の煙がいつになく濃く、部屋の隅にまで滲むように立ち込めていた。

 灯火はぼんやりと霞み、紙を巻いて油を染み込ませた脂燭(しそく)の火が、まるで海底の光のように揺れていた。

 その時である──

 ちりん……と、鈴の音がした。

 それは、この世のものとは思えぬほど澄みきっていた。柔らかく、だが確かに耳を打つその音は、空気の震えに乗って、季胤の心を深く穿(うが)った。

 彼の胸の奥で、何かが脈動する。そして、その脈動は、彼自身の心臓の音と重なり合っていくかのようだった。

 やがて音は重なり、和をなし、そして旋律となった。まるで小夜がそこにいて、ふたたび琴を奏でているかのように。その音色は、彼がこれまで耳にしてきた琴の音色とは全く異なっていた。それは、生の喜びと死の哀しみが溶け合った、魂の旋律だった。

 季胤は立ち上がり、ふらつく足を引きずりながら部屋を出た。

 誰かが──いや、「何か」が、彼を呼んでいる。そう感じた。彼の理性は、この行動を止めようとするが、彼の魂は、抗い難い力に引かれるままだった。

 音は、邸の裏にある忘れられた庭へと導いていた。そこは、小夜を葬った年の春に、自ら封じた場所。草木はうっそうと茂り、苔に覆われた石燈籠(いしどうろう)が、まるで墓標のように沈黙を守っていた。

 庭の中央に、ひとつの石碑があった。名も刻まれていない。だが、季胤は知っていた。そこが、小夜の最期の記憶を葬った場所であることを。彼自身の心の片隅に、彼女の魂を押し込めた場所であることを。

 彼がその場に立ち尽くしたとき、香煙がふたたび鼻腔を満たし、そして耳元に、確かに聞こえた。

「あなたが、わたしを忘れなければ、わたしは生きているのです」

 それは、小夜の声でだった。

 懐かしく、哀しく、そして怨嗟(えんさ)(かげ)を帯びていた。

 その声は、季胤の心の奥底に、凍りついたはずの罪悪感を、一気に解き放った。彼の罪悪感は、絶望的な後悔へと変わった。

 季胤の視界が揺れた。地面が、空が、時さえも歪んでいく。彼の周囲の空気は、鉛のように重く、息をするのも苦しい。幻覚か、それとも現実か、その区別さえも曖昧になる。精神が、もはや限界に達しようとしていた。

 そして彼の前に、ふたたび香壺が現れた。

 それは、手にした覚えのない第二の壺であった。形は前と同じ、だが装飾が異なる。蓋の内側には、金泥でこう記されていた。

「香を焚けば、夢が開く。夢に囚われれば、命が閉じる」

 季胤は、理解した。これは香ではない。これは、契りの器──人の記憶と魂を媒介に、死者を招くための術具。そして、小夜が残した「黄泉の残香」は、ただの恋の名残ではなく、生と死を繋ぐ、禁断の橋であったのだと。

 思い出す。彼女は、かつて言った。

「この香は、心を鎮めると同時に、魂を呼ぶ」と。

 あれは比喩などではなかった。

 小夜は、すでに人の世の理を越えていたのだ。その香を(まと)うことで、彼女は時を超え、死をも超え、再び季胤の前に姿を現そうとしている──自らの意志で。その事実が、彼に戦慄を与えると同時に、抗い難い歓喜を抱かせた。

 理性では制御できない、魂の根源的な渇望が彼を突き動かした。

 そして、香壺から立ちのぼる煙の中、はっきりとした人影がひとつ、現れた。

 それは、小夜であった。だが、彼が知るかつての小夜ではなかった。

 その姿はあまりにも美しく、あまりにも妖しかった。

 長い黒髪が風に揺れ、瞳は闇よりも深く、唇には赤く濡れた血のような微笑が宿っていた。 彼女の美しさは、もはや人のそれではなく、見る者を狂わせるような、禁忌の「(つや)」を放っていた。

 季胤は、その妖しい輝きに魅入られ、抗うことすらできなかった。いや、しなかった。

 彼女は言葉を発さず、ただ一歩、季胤に歩み寄る。その足元に、咲いているはずのない白百合が、ぽつり、ぽつりと咲いていく。

 純白の百合は、まるで血を吸って咲いたかのように、妖しいほどに鮮やかだ。白百合が花開くたびに、空気が震え、時が止まる。

「生きて、再び逢いたい」

 かつての願いは、今、形を変えて実現しようとしていた。だが、それはあまりにも異形で、あまりにも哀しい真実だった。

 季胤は、自らの業によって、この禁断の再会を招いてしまったのだと、深く後悔した。しかし、彼の心は、もう小夜から離れることができなかった。この禁断の「艶」こそが、彼の魂を囚えて離さないのだ。

 小夜は、彼の手を取った。その指先は、温かかった。生きているかのように。その温もりが、季胤の心の奥底に、忘れかけていた情熱の炎を再び灯した。だが、触れた瞬間、季胤の心臓が強く打ち、同時に、庭に咲く花々が一斉に(しお)れた。まるで小夜の存在が、周囲の生気を吸い取ったかのごとく。

 何かが目覚めた。彼女の内に。あるいはこの邸に潜む千年前の封印が。

 黄泉の残香は、ただの恋の香ではなかった。それは、封じられし魂を解く鍵だったのだ。

 そして、その鍵は、季胤自身の魂と深く結びついていた。彼が望んだ再会は、彼自身の存在をも変えようとしていた。


     4


 夜はまだ明けなかった。

 けれども邸の空気は、既に昼の(ことわり)から外れていた。

 風は止み、虫は鳴かず、木々は葉一枚落とすことすらない。

 すべてが、沈黙の中に凍りついたようであった。その静寂は、嵐の前の静けさのように、季胤の心を重くした。彼の体は鉛のように重く、同時に、内側から燃え上がるような熱が彼を襲っていた。彼の血管を巡る血潮さえも、小夜の魂と共鳴しているかのように感じられた。

 季胤は、小夜の手を握ったまま、その温もりに呆然としていた。指先に伝わる温かさは、彼を確かに生の実感へと引き戻す。だが、そのぬくもりは、同時にひとつの疑念を生んだ。

 死者の手が、なぜ、これほど確かに生の熱を帯びているのか。彼の心に、微かな、しかし、決定的な恐れが芽を出した。

 この温もりは、幻ではない。しかし、あまりにも現実離れしている。

 彼の理性は警鐘を鳴らしたが、もう引き返せない領域に踏み込んでいることを、彼の魂は知っていた。

 小夜は何も言わない。ただ、微笑むのみ。その微笑は、美しすぎた。人の世に在るまじき整いであり、そこには一切の揺らぎがなかった。生きている感情を持たぬ彫像のように、完璧に完成されすぎていた。その完璧さが、季胤にさらなる戦慄をもたらした。

 目の前の彼女は、彼が愛した小夜でありながら、同時に、人間ではあり得ない、恐ろしい存在として彼の魂に迫っていた。

 その時、邸の門に、音が走った。どんと重く乾いた響きが、夜の帳を裂いた。

 続けて、規則的な足音。ひとつ、またひとつ。その足音は、迷いなく庭へと近づいてくる。赤い衣をまとった女が、庭へと歩を進めてきた。その衣の赤は、闇の中で血のように鮮やかだった。

 紅衣の女は、小夜とよく似た顔立ちをしていた。だがその瞳は、まるで火を抱いているかのように、(にご)りなく燃えていた。

 それは、人の世の感情を超越した、清冽(せいれつ)な炎。

 手には古い巻物と、鋭利な匕首(あいくち)。腰には銀の鈴が下げられている。その鈴は、鈴の音を奏でた闇払いの男のそれと、酷似していた。

 女の登場は、季胤の心の奥底に、漠然とした不安を呼び覚ました。彼女の存在そのものが、この禁忌を許さぬ世界の意志であるかのようだった。

貴女(あなた)は、誰だ」と、季胤は問いたかった。

 だが言葉は喉に貼りつき、声にならなかった。彼の思考は混乱し、目の前の現実を理解することを拒んだ。

 小夜との再会がもたらした陶酔と混乱の中で、彼の理性は麻痺し始めていた。

 代わりに小夜が、初めて口を開いた。その声は、かつての甘く艶やかな響きを失い、遠い残響のように響いた。

「この方は、来迎院(らいごういん)巫女(みこ)(とが)を正すために遣わされた者です」

 その声音は、柔らかかった。だが同時に、何かが壊れたような音が、季胤の心の奥に走った。彼の知る小夜は、もういない。目の前にいるのは、彼が禁忌を犯して呼び覚ました、小夜の魂の残骸なのだと、悟った瞬間だった。

「来迎院」──それは、かつて陰陽と呪法の交わるところに在った、禁忌の学舎。王命によって閉ざされ、記録から抹消された、「失われた宮」である。

 その名を聞いた途端、季胤の脳裏に、古い書物で読んだ朧げな知識が蘇った。来迎院は、生と死の境界を操る術に長け、その術はしばしば禁忌とされた。季胤の行いが、いかに恐ろしい事態を招いたのか、その時、彼は初めてその片鱗を理解した。

 紅衣の女は、巻物を広げ、無言で季胤に示した。その古びた紙面には、金泥でこう記されていた。

「契約破りし者は、命を以て償うべし」

「死者に魂を与えし者は、千年の咎を背負う」

 そして、その下に記されていた名──小夜比売(さよひめ)

 季胤は息を呑んだ。小夜は、ただの人間ではなかった。いや、人間であった頃も、特別な存在だったのかもしれない。 彼女は、死してなお、禁を犯していた。(おの)が魂を封じ、黄泉の香を用いて生者の力を借り、再びこの世に戻った──それは、神をも冒す所業であった。

 彼の、そして小夜の行いは、単なる恋慕の情では済まされない、途方もない罪だったのだ。

 後悔と、言い知れぬ罪悪感が、彼の全身を支配した。彼は、自分がどれほど愚かな行為に手を染めたのかを、痛いほどに突きつけられた。

 紅衣の女が、静かに告げた。その声は、感情を排し、ただ真実を告げるのみ。

「季胤殿、貴殿は、この(とが)を共に負う意志がおありか?」

 咎とは、罪、あるいは罪の報い。その問いは、裁きであった。 選べと迫るものではなく、ただ──覚悟を問うものであった。

 季胤は、自身の心の奥底で、何が正しいのか、何が間違っているのか、その判断が曖昧になっていくのを感じた。しかし、彼の心は、もはや後戻りできない場所に来ていた。

 季胤は、小夜を見た。 彼女は、ただ静かに微笑んでいた。その笑みに、後悔はなかった。ただ、共に在れることへの歓びのみが、湛えられていた。

 その純粋な愛と、彼の犯した罪の重さに、季胤は打ちひしがれた。彼の脳裏を、幾つもの記憶が過った。若き日の笑顔。並び歩いた夜の川辺。そして、最も痛む記憶──何も言わず、彼の前から旅立った小夜の背。あの背を追えなかったことを、彼はずっと悔いていた。その後悔が、今、彼をこの場所に縛り付けている。

 季胤は、口を開いた。喉は乾いていたが、声は確かだった。

「この命、元より小夜に与えしもの。咎ならば、共に受けよう」

 彼の言葉は、理性や損得勘定を超えた、魂の叫びだった。それは、かつて彼が捨てた、純粋な情熱の再燃であった。彼の体は、小夜の魂と共鳴し、熱を帯びていた。

 紅衣の女は、瞼を閉じた。そして、鈴を一度だけ鳴らした。

 ちりん──

 その音は、天地の境を裂く音だった。空気が震え、大地が軋み、夜が千切れるように退いた。

 その瞬間、小夜の姿が崩れた。いや、融けた、と言うべきか。

 その身は香の煙とともに漂い、光となって、季胤の胸へと染みこんでいった。彼の全身に、熱い電流が走る。それは、痛みではなく、抗い難いほどの恍惚感だった。

 ──魂の融合。それは、最も古く、最も忌まわしき術のひとつ。二つの魂が一つとなり、存在の境界が失われる。

 季胤は、自分の内側で、小夜の魂が息づいているのを感じた。彼女の感情、記憶、そして情念が、彼の意識と溶け合っていく。それは、彼が人であった証を失うことでもあったが、同時に、彼が最も深く望んだ、小夜との「再会」の形でもあった。

 彼の人間としての意識は薄れ、代わりに、より広大で、人ならざる感覚が流れ込んできた。 紅衣の女は、巻物を閉じた。

「千年の咎、受けし者となった。以後、貴殿は人の理を離れ、永劫の旅を続けねばならぬ」

 季胤は、頷いた。恐れはなかった。小夜と共にあるならば、それでよいと、心からそう思った。

 彼の心は、奇妙なほどに満たされていた。もはや人としての欲望や苦悩は薄れ、ただ小夜との一体感が、彼の全てを占めていた。

 紅衣の女は、彼に匕首を渡した。その刃は、月明かりを反射して冷たく光る。

「これは、『境の印)』。魂の暴走を止めるための最後の鍵。万が一、貴殿の内なる小夜が、貴殿を超えて顕現したとき──自らの手で終わらせられよ」

  その言葉に、季胤は微かに眉を(ひそ)めた。

 彼の内側で小夜が暴走する? その可能性を、彼はまだ受け入れられなかった。しかし、同時に、その匕首がもたらす究極の選択に、彼自身の魂の深い部分が共鳴しているのを感じた。

 だが、受け取った。小夜のためならば、それもまた道のひとつ。 やがて女は鈴を鳴らし、霧のごとく消えた。夜が戻り、虫が鳴き、風が葉を撫でた。

 ただひとつ、異なるのは──季胤の瞳に、かすかに紅が宿っていたこと。それは、小夜の魂の色。愛と咎とが、ひとつになった証であった。

 彼の顔には、人ならざる美しさと、抗い難い「艶」が浮かび始めていた。それは、もはや彼自身の意志だけでは制御できない、新たな存在としての彼の表れだった。


     5


 その朝、空はあまりに澄んでいた。

 雲ひとつない蒼穹が、永遠に広がる天蓋(てんがい)のごとく頭上に在った。風はなく、音もなく、ただ陽の光だけが静かに地上を照らしていた。

 季胤は、その光の中を、ゆっくりと石段を登っていた。彼の足取りは、もはや人のそれではなく、地上の重力から解放されたかのように軽やかだった。しかし、その軽やかさの奥には、彼の内なる人としての自我が、徐々に希薄になっていくような、奇妙な感覚が伴っていた。

 足元には、かつてよりもはるかに狭く、苔むした段が続いていた。一段ごとに、身体の重さが増すようであった。だが、それは肉体の衰えによるものではなかった。彼の内に在るもの──小夜と融合した魂と記憶、そして彼女の残滓(ざんし)が、足取りに重みを与えていた。

 彼は、自分の内側で、小夜の意識が穏やかに息づいているのを感じた。それは、会話というよりも、感情や想いの共有に近いものだった。

 時折、小夜の記憶が、彼の脳裏を鮮やかに駆け巡り、まるで彼の過去であったかのように感じられた。

 小夜は、既に声を発することはなかった。けれど、確かに彼の内に在った。時折、心の奥に微かな波紋を生じさせ、彼を導いた。その波紋は、琴の音色のように美しく、彼が向かうべき場所を示しているかのようだった。

 その夜以来、季胤は人の世に留まらぬ旅を続けていた。村を越え、森を抜け、誰も知らぬ旧道をたどり、山の果て、空の端へと向かって歩んできた。その道は、終わりのない階段のようであった。彼は、人としての生を捨て、小夜との永遠の旅を選んだのだ。 そして、いま、石段は確かに──終わりへと近づいていた。

 周囲の空気は、徐々に希薄になり、静寂はさらに深まる。やがて、視界が開けた。 そこには、空しかなかった。もはや山でもなく、丘でもなく、土地の名すら与えられていない、世界の果て。白き台座がただ一つ、そこにあった。それは、この世の始まりと終わりを司る場所のように見えた。

 そこに、佇む影があった。それは、かつて「来迎院の巫女」であった紅衣の女であった。だが、彼女の衣はもはや紅ではなく、灰で染められていた。かつての律法を帯びた者ではなく、すでにその裁定者を終え、ただ見届けるだけの存在となっていた。

 彼女の顔には、過去の咎を背負う者特有の、深い諦念が刻まれていた。彼女の瞳は、季胤の魂の奥底まで見透かすかのように、静かに彼を見つめた。

 女は語った。その声は、風のように静かで、しかし世界の真理を告げる響きを持っていた。

「この場所を越えれば、魂は原初へと還る。生も死も、善も悪も、隔たりなく混じり、ただひとつの流れとなる。貴殿は、そこに至る覚悟をお持ちか」

 季胤は答えなかった。言葉は、もはや必要なかった。ただ静かに、台座の縁に歩み寄った。空しかない。下を見ても、先を見ても、ただ蒼の深淵が広がっていた。吸い込まれるような青。彼の心は、この広大な空間に溶け込んでいくような、畏怖と安堵を感じていた。

「そこには、小夜はおらぬかもしれぬ」と女は言った。

「それでも、行くか?」

 その問いは、季胤の心の奥底に、最後の波紋を生じさせた。もし、小夜がそこにいなかったら? その恐怖は、一瞬だけ彼の心をよぎったが、すぐに消え去った。彼の内に小夜がいる限り、彼女はどこにでも存在する。その確信だけが、彼を突き動かした。

 季胤は目を閉じた。小夜の声が聞こえることは、もうなかった。だが──その沈黙こそが、彼に最後の選択を促した。

 彼の手の中には、いつしか腰に帯びた「境の印」、あの銀の匕首があった。

 その刃は、長い旅の中で何度か震えた。彼の内なる小夜が、彼の理性を超えて顕現しようとした時、彼はこの匕首で、自らの魂を終わらせる覚悟を幾度も試された。だがいま、彼の手は微塵も揺らいでいなかった。彼の顔には、迷いも、後悔も、恐れもなかった。ただ、静かな決意だけが宿っていた。

「彼女が在るのは、この魂の内。それゆえにこそ、還る」

 季胤は静かに心の中で言った。彼は、小夜との融合によって、もはや人としての生に執着していなかった。

 そして、匕首を自らの胸に突き立てた。

 痛みはなかった。血も流れなかった。

 その瞬間、彼の身体が光となって弾けた。それは滅びではなかった。光は空に舞い、風に乗り、やがて蒼穹の一点へと吸い込まれていった。それは、季胤と小夜の魂が、共に原初へと還っていく光景だった。その光は、美しく、そして切なく、世界の全てを照らすかのようだった。

 世界は、変わった。音のない世界に、音が満ちた。空は回り、大地が波打ち、やがて彼は、どこでもない場所に立っていた。そこは、全ての始まりであり、全ての終わりである場所。

 そこには、小夜がいた。それは彼女の姿であったが、同時に彼女ではなかった。

 小夜は、光のようでもあり、水のようでもあり、風のようでもあった。宇宙の全ての要素と溶け合った、純粋な存在。だが確かに、それは彼が愛した者であった。

 彼の魂は、それが小夜であると理解した。彼女の存在は、もはや個としての形を持たず、世界の根源に溶け込んだ、普遍的な愛そのものだった。

 彼は歩み寄り、手を伸ばした。その手が、互いに触れたとき──時が、終わった。 いや、始まった。 世界の果てに至る旅は、終わりではなく、新たな「はじまり」だった。

 魂は分かたれず、存在も分けられず、ただ一つの「想い」として結び合い、そして、静かに、永遠の中に溶けていった。彼らの魂は、もはや個としての存在ではなく、世界の根源を成す、普遍的な情念となったのだ。

 彼らの名を知る者はいない。

 その旅路を語る者もいない。

 けれども、風が囁くとき、人は時折、ふと立ち止まり、空を見上げる。その理由を知らずとも──そこに、何かが還ったことだけは、確かに、感じ取るのだった。

 それは、かつて人であった季胤と、妖に魅入られた小夜の、永劫の「艶」の残響であった。


初めての投稿です。思うままに書いてしまったので、読みにくかったらすみません。

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