⑥お屋敷の庭に忍び込んだお隣さんは、こっそり屋根に登ったけどあえなく失敗……。最初に飛び越えた塀の近くに戻ったら、お隣さんウオッチャーの青年と遭遇して、ひょっとして正体がバレた!?
芽衣は月明かりに照らされた庭に潜み、慎重にルートを見極めていた。
「よし、あの影……あの木の根元……で、あの灯籠の死角……」
彼女の視線は、まるでレーザーのように庭の暗がりをなぞる。
大の字に広がる豪華な芝生の中に点在する陰を繋ぎ、
誰の目にもつかないステルス通路を作り上げていた。
「ルートばっちり。視界良好!」
鼻息も荒く、芽衣はステルス通路を駆け出した。
「ぬあっ、ぬかるんでる……っ!」
出だしから、足元の芝生が予想以上にもちもちしており、足が大きく沈んで転びそうになった。
慌てて次の影へと飛び込むが、勢い余ってそのままガーデン用の噴水に頭をぶつける。
「……っ、なぜこんな場所に西洋風の噴水……!? 和風庭園じゃなかったの!」
痛むおでこを押さえつつ、誰にも見られていないか周囲を確認。
異常なし。
今度は芝生の上を這うように進み、背の高いツバキの木の陰でようやくひと息ついた。
「よし……あと5メートル」
屋敷の白壁は、月に照らされてぼんやり光っている。
そして、どの窓にも重厚な鉄格子が取り付けられていた。
一般的な防犯対策を異常なくらい越えた、鉄壁の守りを思わせる屋敷だった。
窓からの侵入を諦めて、芽衣は壁際に設置された排水パイプに手をかけた。
「さすがに防犯対策で、壁に足場になるようなでっぱりが無いわね。
でも私には、そんなの不要!」
と、自信たっぷりに登り始めたが、
「うお、冷たっ!? なにこれ、夜露!? いや、これ濡れてる……」
手が滑りかけ、身をよじってギリギリで体勢を持ち直す。
よく見ると、排水パイプには水滴がずらりと並び、夜の湿気でつるつるになっていた。
「くっ……この罠、屋敷の主の仕業か……(たぶん違う)」
文句を言いつつも、芽衣は器用にバランスを取りながら屋根の端まで登る。
瓦の角に手をかけて、最後のひと踏ん張り。
ひょいっと体を引き上げ、ついに屋根の上に立つ。
風がポニーテールを揺らし、眼下には静まり返った豪邸の庭園が広がっていた。
芽衣は屋根の端でバランスを取りながら、周囲を見渡す。
屋敷の周囲には、よく手入れされた竹林が広がっていた。
一本一本が驚くほど太く、屋根とほぼ同じ高さまで育っている。
風が吹くたびに、竹がざわざわと葉を揺らし、月明かりの下で幽玄な影を作っていた。
「自宅に竹林って、どんだけ広い屋敷なの!?」
愚痴りながら屋根を歩き始めた時、足元に違和感を覚えて、ズルッと体勢を崩した。
枯葉が屋根の瓦を覆い、滑りやすくなっていたのだ。
そのことに気づいた時は、手遅れだった。
「やばいやばいやばい!!!」
必死に体勢を立て直そうとするが、
芽衣が蹴り飛ばした瓦が、急こう配の屋根を派手な音を立てて滑り落ちる。
いや、それだけではない。
芽衣自身も瓦と一緒に、屋根を滑り落ちていく。
「ちょっと! ちょっと! ちょっとぉぉ!!!」
芽衣は体勢を立て直せないまま、屋根の傾斜を滑り落ちる。
このままでは、屋根の端から地面に真っ逆さま。
眼下には、硬そうな敷石が見えた。
「跳ぶしかない!!」
芽衣は屋根の端ギリギリで、全力で跳躍した。
華奢な体が、宙に放り出される。
屋敷の周囲を覆う巨大な竹林に向けて、芽衣の脚が一歩、二歩と宙を駆ける。
その中の一本、特に太い竹に狙いを定める。
「……っ、捕まえた――」
無事に竹の先端に取りついた。
芽衣の体重を受け止めて、竹はゆっくりと弓なりに曲がっていく。
「いや、ちょっと……これって……?」
竹のしなりに合わせて、芽衣の体は地面に向けて下降していった。
気づけば自分の目の前には、さっき飛び越えた塀。
そしてそこには、ちょうど塀をよじ登ろうとしていた陽太の顔があった。
芽衣は、竹に掴まったまま尋ねる。
「なんでここに!?」
「いや、こっちのセリフですよ! なんで、こんなお屋敷に忍び込んでるんですか!?」
「え、ちょっとしたアルバイトで……」
竹の先端にぶら下がったまま、芽衣は懸命に誤魔化す。
「バイトでお屋敷に潜入する!? 絶対おかしくないですか!?」
その時、屋敷の玄関や窓が勢いよく開けられた。
そして響き渡る怒号。
周囲の空気がビリビリと揺れる勢いだった。
「誰だァァァァ!!」
現れたのは、鋭い目つきにオールバックの男たち。
黒のスーツに金のネックレス、腕にはタトゥーがのぞく。
それが10人近くいる。
全員が黒スーツに刺繍入りのシャツをのぞかせ、剣呑な雰囲気を漂わせていた。
「おい、今の音は何だ?」「竹林の方だ! 何かでっけぇ音がしたぞ!!」
とてつもなくマズイ状況であることは、部外者の陽太にも理解できた。
屋敷から出てきたイカツイ住人に掴まったら、無事に帰してもらえるとは思えない。
陽太は地面に転がっていた大きめの石を拾うと、屋敷とは反対方向に投擲する。
子どものころから遠投は得意で、学年トップを取ったこともある。
カシャンッ!!
えらい遠い場所で、派手な音がする。
男たちがそちらに気を取られた。
「おい、あっちに向かったぞ!?」「裏口の方だ、急げ! ぶちころせ!」
わーわー言いながら、男たちの足音が遠ざかっていく。
とりあえず当面の危機を回避して、ホッとした陽太はその場にへたり込みそうになったが、
いつの間にか竹から降りた芽衣に、ぐいっと腕を掴まれる。
「ぼさっとしてないで、逃げるのよ」
反論する間もなく、芽衣は走り出していた。
陽太の腕をしっかり掴んだまま。
むしろ引きずる勢いだ。
懸命に芽衣のスピードに付いて行きながら、陽太は叫ぶ。
「なんで、俺まで逃げなきゃいけないんですか!!」
「仕方ないでしょ! そこにいたんだから!」
「俺、関係ないのに!!」
「捕まって、痛い目にあいたくなかったら、走りなさい!!」
「てか、そもそも、あんな場所で何やってたんですか!?」
芽衣に引っ張られて、陽太の走る速度もどんどん上がっていく。
風を切って疾走する快感に、ちょっぴり酔いしれる。
もともと、足が遅い方ではなかったが、こんなにも早い速度で走るのは初めてだった。
芽衣は息も切らさずに、さらりと答えた。
「ちょっとしたバイトよ!」
「全然ちょっとじゃないでしょ!! めっちゃ大ごとになってるんですけど!!」
「男のくせに、細かいこと言わないの!!」
「気にしますぅ!!!」
こうして二人は、後ろも振り返らずに真夜中の住宅街を駆け抜けた。
いや、普通の道だけじゃない。
畑の中、茂みの中、はては他人の庭先まで駆け抜けた。
そのおかげで全身泥だらけ。
服はあちこちが破れるし、初めて会った時の芽衣みたいな状況になった。
陽太にしてみれば、こんなに長い距離を、しかもこんな早さで走ったのは初めてだった。
芽衣に引っ張ってもらっているとはいえ、この速度に付いて行かれている自分の体力にも驚きだ。
陽太と芽衣は、深夜の街を全力で逃走した。