【3】
管弦が鳴り、唄は歌われ、酒宴は大いに盛り上がって、十二人会歌合は宮廷の春に開かれた。
今はちょうど、柳の二首目が詠まれたところである。酒も進み、ほろろで笑い声が絶えず、女人たちも色よく賑やかにしている。
次は、恋の一首目である。
内裏の庭を挟んで、二人の者が向かい合い、歌で雌雄を決する。また、十二人会歌合においては、相手の歌に自身の歌を被せ、それを続けることも許されていた。――現代で言う、ラップバトルである。
奥の御椅子におわす帝から見て、左側からは目元に涼しさを残すほっそりとした男、すなわち藤原 定家が姿を現し、歌の席に着いた。
対するは――。
「…………ん?」
思わず、朱雀の帝が小さな声を漏らした。
右側から姿を現したのは、なんとも奇妙な男であった。
男にしては長い髪を、蝶のように結っている。艶やかな髪を持つ男だった。
帯さえ同色に揃えた、藍色の直垂(男性装束)は明けの空のように一面明るく、表情よりも、皆、その服色に目が行った。
静と男は右手の席へ、流麗な所作で腰降ろした。――昼間とはいえ、屋根の傘があり、また、蝋燭の火もない。男の容姿に心当たりがないことが分かる程度の、輪郭だけが窺える不鮮明の中に彼はある。
はて、あんな男が宮廷にあったか? と宮廷中が首を傾げる中、定家がその男へ声をかけた。
「その方、名はなんと申されるか?」
すると男は、艶のある声で答えた。
「名乗るほどの者ではございません」
定家は「はて」と首を傾げた
いかな何者であるか。帝の興であろうか?
源 道義が含み笑いを噛み殺す中、宮廷の皆、帝もまた、奇抜な風体の男へと注目を向けていた。
さて、帝からの示唆はなかったものの、源 道義から進行の合図が送られて、演出であったかよと、果たして、この歌合の幕は上がった。
左手、西の側の、定家の先行で歌が詠み上げられる。
「花冷えの
夜更け過ぎても
独り待つ
君の姿を
想ふは月に」
――春の冷たい夜に、夜更けが過ぎようと独り待つ恋人を想えば、私は美しい哀愁に満ちた慕情を思わせられるよ、という意の歌である。
これに、向こう岸に座る男は、情の不明な微笑みを表情に湛えた。
定家の歌に皆が湧き上がる中、続けて、右手に座る、男の番である――。
「待ちぬれば
今は華散る
足元の
落ち葉踏みしめ
独り行く」
――待ち続けることが終わり、それに伴い美しい哀愁に満ちた慕情の華は散ってしまいましたが、散ってしまった寂寥感にも負けずに、私はこの道を歩み続けるでしょう。
彼が詠んだのは、どうしてか定家の歌を皮肉るような内容の歌であったのだ。
定家が訝し気な表情を浮かべ、皆が首を傾いだ――
と、その時であった。
陽の加減が移り変わり、ふと、東手に座る男の、顔容姿を、日の白い光が照らし上げた――。
「あっ、お前はッ――」
定家の上げた声に、男は花のような笑みを表情に浮かべてみせた。
いや、その者は、男の者ではなかった――
葵姫である。
見紛うことなどあろうか、その白い肌、眉が色よくも凛と美しい顔容姿、紛れもなく、橘氏の葵姫であった――。
これには、帝さえも小さく、関心の声を漏らした。
観客の席からどっと声が上がる。男たちは囃し立ての調子で話を交わし合い、女人たちは口元を抑えて、歌の席に座る彼女を見やった。
酒の席である、これは話が弾む。
盛り上がりは最高潮に達して、定家はつぅと背に冷や汗を流し、表情には玉の汗を浮かせた。
とはいえ――この男も絢爛と陰謀、光と闇が渦巻く、宮廷で生きる者である。
次の時には汗を引かせて、その背筋を伸ばし、葵姫と対座した。
次は定家が詠むかという流れである――
「春の波
静に潮満つ
月見れば
花よりも君
美しきかな」
――春の波のように静かに潮の満、そんな風情のある、穏やかで大人しい月のように君もあれば、君は花よりも清く美しいね。そんな意味の歌であった。
意趣返しとしては悪くない。
定家はそっと口角を持ち上げた。
定家の目には、それが効いたように口を塞いだ葵姫の姿があった。
だが――彼女は次の瞬間、華と微笑んで、よく通る美しい声をして、返しの歌を詠い上げたのだった。
「恋し波
寄せては返す
花冷えよ
去りても道は
光満ちたり」
嗚呼、激しくも美しい恋慕を、貴方様と交わしましたね。
波のように押し寄せる想いに、私が返す想い……。
今となっては、冷たい春の夜の日ですが――でも。
あの日も。
あの日も。
思い返せる何時の日も。
季節が移ろって、その日々が去りても、私の見ている景色には、光が満ちています。
私を決して穏やかにはしないその恋慕は、素晴らしいものであったからです。
――――宮廷から、感嘆を漏らす声が、どっと上がった。
皆々、感心の声をしきりに上げて、中には、目尻に涙を浮かべる者も多くあった。
定家の意趣に、言葉を返すだけではない。
聴く者に情景を映し見せる歌であり、定家の歌を踏まえた意趣でもある、また、最初に詠んだ歌に繋がる、深い趣も備えてさえいた。
なによりも――それは紛れもなく、美しく鮮やかな【恋の歌】であった。
朱雀の帝が、一つ、歌を呟いた。
それは思わず繰り返してしまった、「恋し波――」の歌であった。
勝敗の意向は決した。
「さあ、そこまで! 軍配は東、――葵姫の元へ!」
判者司の裁定に、宮廷にある者は、一層の歓声を上げた。
帝でさえも拍手を送り、源 道義などはもう噛み殺すこともせずに笑い声を上げていた。――揺れるほどの、その日最も大きな喝采に、葵姫は楚々と、頭を下げたのだった。
――そして顔を上げ、定家のほうを見れば……。
そこにあったのは、奇妙に着物をずらして座る、青白い顔に脂汗を垂れ流した、口元をカックリと開いた間抜けな男の姿。
「――――さらば。これにて、おさらば」
決着を自らの手で付けて。
さっぱりと、手酷く振ってきた男の姿に背を向けて、葵姫は凛と、花冷えの日も超えた季節の道を、歩み始めたのだった――。
◇
その後は――、葵姫は宮廷中の者から一目の称賛を覚えられる女性となり、殿方からは多くの恋文を、宮廷の女人からも高い尊敬を寄せられたという。
定家はといえば、あの十二人会歌合の日以来、どうにも宮廷を渡り歩くに上手くいかず、特に女人に関する話にしては、周りの評判よろしくない。誠実に想う人を無情にも袖にする、奔放の過ぎる色恋の振る舞いも、どうやら、しゅんと成りを潜めてしまったようである。
そんなところが事の顛末であるのだが。さて、この十二人会歌合出来事――そこに一つの、小さな謎があったことに、気付いただろうか?
葵姫が座していたのは、東側の席である。
太陽は東から昇り、西へと沈むので、時間が経つにつれて、日は西側を白く照らし出すことになる。
陽の加減が変わって、なぜ日は東手である右側を照らしたのか……?
このことは、神もその様子を楽しんでいたのではないかと、宮廷内で、まことしなやかに噂されていた。