【1】
橘の葵姫は、添い袖を触れさせた男である藤原 定家という男に、婚約破棄を聞かされてしまった。
平安の世である。
一夫多妻が当たり前であり、また、男が夜によって異なる女の元へ通うことなど、ありふれたことでもあった。他の女には建前上の内密で、今想う女のところへ忍んで通う――バレたら怖いとはいえ、血を見るような事態にはまあ至らない。そうやって、男が複数の女と付き合うことなど、ありふれた時代であった。
そんな世である、想いを交わし合い確かな言葉で結んだ契りが破られる――いわゆる「婚約破棄」に等しい事もまた、ありふれたことであった。
「想い人への真心」に留まらない「人道の誠実」を訴えて、女へ約束を言葉にする。公認の約束ではないとはいえ「婚約」に相当する行いであるだろう。
しかし所詮は、その夜を情念のために過ごすための、方便である……、そのようなことが珍しくない。そしてそれで、男の立場が危うくなるわけでも、たいていの場合は別段ない。
藤原 定家という男は、多岐に渡る藤原氏の中でもいわゆる末流の者であり、藤原氏も影響力は上から下までという例を表しているとも言える宮廷仕えだ。しかし、橘氏本流の葵姫は、定家を心を寄せ支えた。が、結果は無下なる袖であった。
「風そよぐ
桜の下に
色褪せて
心移りの
跡のみ残る」
――定家が葵姫へ手紙で聴かせた歌である。
「心移りの跡のみ残る」、心の変わりか、かつての愛情がただの記憶になってしまったのだ、ということを伝えたいのだろうが、なんというか、もう少し……情緒やら、尊重やらが、あってもいいように、思えるが……。
袖にされた女は、心から想いながらすれ違ってしまったことに泣くか、恨みつらみを忘れられず生成という鬼に堕ちるか、というのが関の山である。
だが。
「――――左様でございますか」
だが、手紙を握り潰そうかという手を凛と抑えて、どころか常の微笑みを浮かべる、この葵姫は違った。
面を上げて、その美しい顔を毅然として太陽に晒すと、悔しさに震えることも胸に抑えて、彼女は腰を上げて歩み始めた。
「ならばこちらにも、考えがありまする――」