⑨
翌日、昨夜の私を恥じる事件が起きた。
午後の陽の光が、窓から優しく差し込んでいた。
カーテン越しに揺れる木々の影が、机の上に淡い模様を落とす。
外では鳥のさえずりがかすかに聞こえ、遠くで働く使用人たちの足音や話し声が微かに響いていた。
ヴィーラは執務机に向かい、手際よく書類に目を通していた。
ペンの先を滑らせながら、積み上がった書類の山にため息をつく。
戦後処理のための報告書、領地の経済状況をまとめた資料、そして次の公爵家のパーティーに関する招待状——。
次から次へとやるべきことが押し寄せてくるが、それも彼女にとっては日常だった。
部屋には、机の上のインクの香りと、朝に淹れたままの冷めた紅茶のほのかな残り香が漂っている。
窓から吹き込む風が、彼女の金髪を揺らしながら、そっと肩を撫でた。
(もう少し、涼しくなるといいのだけれど)
季節の移ろいを感じながら、書類に視線を落とした瞬間——。
「ヴィーラ!!」
突然の大きな声が部屋に響き渡った。
バンッ!!
勢いよく扉が開き、ヘルムデッセンが飛び込んできた。
ヴィーラは驚き、思わずペンを止める。
午後の静けさを破るような彼の登場に、書類の上に置いた手を思わず握りしめた。
「……!」
いつもなら、彼が執務室に来る時は控えめにノックをしてから入ってくるはずなのに。
彼の赤い瞳は真剣そのもので、強く拳を握りしめていた。
ヴィーラは、半ば呆れたような気持ちで彼を見上げた。
「……何の騒ぎですか?」
そして——。
「俺、旦那として不甲斐なさすぎた!!」
彼の力強い宣言が、昼下がりの執務室に響き渡った。
その言葉に、思わず手に持っていたペンを止めた。
彼の表情は真剣そのもので、まるで大きな決意を抱えた兵士のようだ。
「……いったいどうしたんですか?」
「不便をかけていないか!? 使用人に舐められたり、いじめられたりしていないか!?」
そう言いながら、ヘルムデッセンはぐっと拳を握りしめ、鋭い赤い瞳で辺りを見回す。
まるで、自分の知らぬところでヴィーラが酷い扱いを受けていると確信しているような口ぶりだ。
この男はいったいどうしてしまったんだろうか。
「……いえ、皆さんよくしてくださっていますよ?」
呆れたように答えると、ヘルムデッセンは大きく息を吸い込んで、真剣な顔でこう言い放った。
「結婚したら、初夜というものをしなければいけなかったんだな……!!」
「——は?」
「俺は何も知らず、その日のうちに戦場へ帰ってしまった!!!」
そう言われ、ヴィーラの脳裏に約二年半前の記憶が蘇る。
確かに結婚式も何もないまま、形式的な書類にサインだけして、彼はすぐに戦場へ向かったのだった。
(……まぁ、確かにそうだけど。)
今さらそんなことを気にするものだろうか?
そもそも彼は、なぜこの話を急に持ち出してきたのだろう。
「——今夜するか!?」
「——っ!?」
一瞬、沈黙が流れる。
ヴィーラの手がピタリと止まり、脳が一瞬思考停止する。
次の瞬間、じわじわと顔が熱くなり、耳の奥がカッと熱を帯びた。
「い、意味をわかって言っているのですか?」
驚きと戸惑いを隠しきれず、なんとか言葉を絞り出す。
すると、ヘルムデッセンは少し困ったように眉を寄せながら、口を開いた。
「甘く抱きしめて、親密になるんだろ!? それが夫婦の初夜ってものじゃないのか?」
「……」
ヴィーラは思わずヘルムデッセンの顔をじっと見つめた。
(……わかってないのね。)
その無邪気な答えに、どこかホッとしてしまう自分がいた。
この場の空気を理解せず、堂々とそういうことを言ってしまう彼が、なんだか可笑しくて、でもどこか安心できる。
ヴィーラは深く息を吸い込み、落ち着いて答えた。
「でしたら、初夜は結婚式のあとにしましょう。」
「……?」
「特別な日に、特別な時間を過ごして終わる。どうですか?」
そう優しく問いかけると、ヘルムデッセンはしばらく考えたあと、大きく頷いた。
「そうか! わかった!」
その返事と共に、ぱっと顔を輝かせる。
「結婚式の楽しみが増えた!」
嬉しそうに笑う彼を見ていると、なんだか眩しくて、思わず息を呑んだ。
(………この人、天然でこんなこと言うんだから……ズルい…。)
太陽のような笑顔に、不覚にも心が跳ねてしまう。
ただの言葉に過ぎないのに、それが彼にとっては本気なのだとわかるからこそ、ドキドキしてしまう。
ヴィーラは熱くなりそうな顔を抑えるように、手元の書類に視線を落とした。
「さぁ、授業に戻って、もっと学んできてください。数日後には、公爵家のパーティーにも出ないといけないですから。」
ヴィーラはペンを机に置き、椅子から立ち上がりながら言った。
目の前に立つヘルムデッセンは、素直に頷いた。
「……あぁ。」
短く返事をすると、彼は踵を返し、扉へと向かおうとする。
いつものように、何の迷いもなく、堂々とした足取りで。
だが——その瞬間だった。
ふわり、と。
柔らかな感触が、一瞬ヴィーラの意識を奪った。
「——っ」
息を飲む。
一体、何が起こったのか、すぐには理解できなかった。
だが、確かに感じた。
髪の毛に触れる、優しく温かなもの。
ヘルムデッセンが、そっとヴィーラの髪に口づけていた。
彼の大きな手がそっと髪を包み込み、慈しむように指先がゆっくりと滑る。
その仕草は、まるで宝物に触れるかのように、慎重で——それでいて迷いのないものだった。
「じゃあ、行ってくる。」
彼は何事もなかったかのように、自然に言葉を落とすと、そのまま扉へと向かい、静かに部屋を出て行った。
扉が閉まる音が、執務室に響く。
ヴィーラはその場に立ち尽くしたまま、ゆっくりと手を髪に伸ばす。
(……え、な、何なの……!?)
驚きと混乱、そして理解不能な感情が、胸の奥を駆け巡る。
頬が熱い。
指先までじんわりとした熱を感じる。
それに——。
どくん、どくん、と。
心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる。
「な、なんなの……」
思わず呟く声が震えていた。
自分の胸元を押さえながら、まだ残る彼の温もりを思い出す。
今までのどんな言葉よりも、あの優しいキスが、胸に響いていた——。
―――――――――
――――――
夜が更け、静寂が部屋を満たしていた。
カーテン越しに差し込む月明かりが、淡く室内を照らし、心地よい風がそっと揺れる。
ベッドには、二人並んで横になっていた。
……はずだったのに。
(……って! 眠れるかーーーー!!!)
ヴィーラは心の中で叫んだ。
目を閉じようとしても、一向に眠れる気配がない。むしろ、意識は研ぎ澄まされてしまい、余計に目が冴えるばかりだった。
原因は――隣で気持ちよさそうに眠る男にある。
「……」
ヘルムデッセンは静かな寝息を立て、まるで何もかも忘れたかのように熟睡している。
安心しきった表情、無邪気な寝顔、そして規則正しい呼吸。
(なんで、あなただけそんなにぐっすり眠れるのよ……)
ヴィーラはじっと彼を見つめ、そっと眉を寄せた。
その理由は明白だった。
今日、彼に髪にキスをされたこと。
何気ない仕草だったのかもしれない。けれど、あの時の感触が、未だに消えずに心の奥でじんわりと熱を持ち続けている。
(日に日に意識させてきて……どうするつもりなのよ……)
心の中でぼやきながら、思わずシーツをぎゅっと握る。
それなのに、当の本人は何も知らずにスヤスヤと眠っているのだから、余計に腹が立つ。
(この人、絶対わかってないわよね……)
そう思えば思うほど、ヴィーラは落ち着かなくなり、ついにベッドから抜け出した。
「……はぁ。」
そっとため息をつきながら、裸足のまま窓際へ向かう。
涼しい夜風が頬を撫で、火照った体を少しだけ冷ましてくれる。
「……」
窓の外を見下ろすと、闇夜に浮かぶ城下の光がちらちらと揺れていた。
遠くでかすかに聞こえる夜警の足音、風に乗る馬の嘶き。
静かで、穏やかな夜。
――そう、思った瞬間だった。
「……?」
視界の端に、何かが映った。
遠くの地平線に、ぼんやりとした影。
それは、やがてはっきりと形を成し、やがて――
「……赤い旗?」




